頑張った時間のゆくえ

頑張っているのに、
なぜか少しずつ生活が重くなる時がある。

何もしていないわけではない。
むしろ、人より動いているはずなのに、
息が整わない。

やることは増え、
気も遣い、
一日は埋まっていく。

それでも、
生活が軽くなっている感じがしない。

それは、
努力不足なのだろうか。


努力は本来、
自分の中に何かを残してくれるものでもある。

できなかったことが、
少しずつできるようになる手応え。
人のために使った時間を、
感謝される喜び。
前なら怖かったことを、
少しだけ受け止められるようになる感覚。

そういうものが残っているうちは、
努力は自分の中で静かに働き続ける。


ゲームでも、スポーツでも、
ある程度やり込むと、
初心者のふりはなかなかできない。

意識する前に、
身体が先に動いてしまう。

それは才能ではない。
積み重ねたものが、
知識ではなく感覚として残っているだけだ。

努力が残るとは、
たぶんそういうことなのだと思う。


他人のために頑張ることが、
悪いわけではない。

感謝されること。
「あなたがいてくれてよかった」と
言われたり、思われたりすること。

そういうものは、
人を静かに支えてくれる。

誰かの役に立つことが、
自分の経験になることもある。
親や上司の要求に応えようと踏ん張った時間が、
あとで自分の力になることもある。


ただ、
ある時からそれが、
少しずつ変わっていくことがある。

感謝だったものが、
期待になる。

期待だったものが、
当然になる。

最初は、
自分の中に積み上がっていた努力が、
いつの間にか、
時間と精神を消費するだけのものに変わる。


「ありがとう」と言われていたことが、
「やってくれるもの」になる。

できたことが、
次もできる前提になる。

一度引き受けたことが、
いつの間にか自分の役割になる。

その瞬間、
努力の残り方が変わる。

積み上がるものではなく、
削られていくものになる。


断りづらい。
空気が悪くなる。
期待を裏切りたくない。

そういう理由で、
人はもう少しだけ踏ん張る。

もう少しだけ。
今回だけ。
自分がやれば丸く収まる。

そうしているうちに、
努力の向きが、
少しずつ自分のものではなくなっていく。


人との関係は、
続くこともあれば、
どこかで遠ざかることもある。

けれど、
続くかどうかだけで、
その時間の価値が決まるわけではない。

たとえ関係が形を変えても、
そこで使った時間や力が、
自分の中に何かを残しているなら、
それはただの消費ではない。

反対に、
関係が続いていても、
そこで自分を削るだけになっているなら、
その努力は少しずつ重くなる。


前の話で、
生活の総量はだいたい10でできている、
と書いた。

努力もまた、
その10の中で行われる。

努力は、
10を増やしてくれるわけではない。

けれど、
10の中身を変えることはある。

判断しやすくなる。
迷い方が少し変わる。

そういう小さな変化が、
生活の10を、
少しずつ確かなものにしていく。


反対に、
消費に変わった努力は、
10を重くする。

時間は使った。
気も遣った。
身体も動かした。

それでも、
自分の中に積み上がるものが見えない。
ただ、疲れだけが残る。

努力が足りないのではなく、
努力が自分の中に残らなくなっている。

そういう時がある。


努力をやめる必要はない。

誰かのために頑張ることを、
否定する必要もない。

ただ、
その努力は、
今も自分の中に積み上がっているのだろうか。

それとも、
いつの間にか、
自分を削るだけのものに変わっているのだろうか。

その境目を見失うと、
努力は静かに、
生活を重くしていく。

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