6節.条約改正の前進と国家形式の整備
1880年代に入ると、不平等条約改正は、明治政府にとって将来の課題ではなく、具体的な構想と交渉の場を伴う現実の政治課題として前景に出てきた。その中心に立ったのが井上馨であり、明治十九年には各国公使を集めた条約改正会議が開かれる。ここから条約改正は、本格的な外交交渉として動き始める。
井上が進めようとしたのは、条約の文言を書き換える交渉だけではなかった。欧米側が日本を対等な交渉相手として扱えるように、その前提となる国家の見せ方まで整えようとしたのである。日本を欧米諸国に対して実際に対等な国家として扱わせるには、相手から見て、自国民を委ねられる国家であると認めさせなければならなかった。
そのために、井上外交は法制、社交、交渉方式のそれぞれで前提を整えようとした。法制の面では、日本の裁判と統治が信頼に足ることを示すため、外国人判事任用案を含む構想が現れた。社交の面では、鹿鳴館外交に象徴されるように、日本が西洋の外交社会に参加しうることを印象づけようとした。交渉の面では、岩倉使節団以後の個別折衝から一歩進み、東京に各国公使を集めた条約改正会議によって、多国間で前進を図ろうとした。
外国人判事任用案や鹿鳴館外交は、後に強い反発を招くことになる。だが政府にとって、それらは条約改正を早く前へ進めるための手段だった。外国人判事任用案は、日本の裁判制度がなお欧米諸国から十分な信頼を得ていないという現実を前提に、その不足を補う仕組みを置くことで、領事裁判権撤廃への同意を引き出そうとするものだった。鹿鳴館外交も、単なる華美な社交ではなく、日本が西洋の外交社会に参加しうる国家であることを、儀礼と社交の水準を通じて示そうとする試みだった。政府にとって、それらは欧米側に日本を信用させるための工夫だったのである。
しかし国内から見ると、同じものは別の姿に映った。外国人を司法の中枢に入れることは、領事裁判権撤廃のための過渡的な工夫というより、主権を内側から削るもののように見えた。鹿鳴館外交も、対外的には日本が西洋の外交社会に参加できることを示す場だったが、国内では、国家の実力よりも外見を取り繕う姿として受け取られやすかった。条約改正を前へ進めるための手段が、国内では、条約改正のために何を差し出すのかという問題へ変わっていった。そのため国内では、『猿真似外交』『国辱』といった言葉で激しく批判されることになる。
井上外交の後も、条約改正そのものが後景へ退いたわけではない。大隈重信の時期には、井上案の進め方が修正された。井上が各国公使を東京に集めた合同会議方式によって一括して改正を進めようとし、外国人判事・検事の任用も各級裁判所に及ぶ構想を含んでいたのに対し、大隈は交渉を各国別の形へ移し、外国人裁判官の任用も大審院に限る方向で修正を加えた。
大隈の修正は、井上外交の挫折を受けて、交渉の単位と譲歩の射程を絞り込むものだった。多国間で一括して動かすのではなく、各国別に交渉し、外国人裁判官任用も大審院に限る。井上期の構想をそのまま継ぐのではなく、国内の反発と対外交渉の困難を受けて、より狭い範囲で突破口を探ろうとしたのである。とはいえ、領事裁判権撤廃のために外国人裁判官任用を用いようとした点では、その発想の根幹は井上期の延長線上にあった。
大隈の試みも、安定した突破には至らなかった。比較的交渉を進めやすいと考えられた相手との間で先に合意を探る方向が試みられたが、その過程で改正案はロンドン・タイムズに漏れ、世論の反発を招いた。漏洩の経緯や背景にはなお見方の幅があるとしても、この出来事によって交渉は頓挫する。ここで見えてきたのは、条約改正が案の中身だけで進む問題ではないということだった。どの国と、どの順序で、どの範囲まで合意するのか。交渉の組み方そのものが、改正の成否を左右する問題になっていった。
交渉の場で日本を信用させようとする試みがつまずくほど、問題は国内の制度整備へ戻っていく。相手に信用してもらうための工夫だけでは足りない。実際にその信用を支える国家の形を、内側に備えなければならなかった。条約改正が外に向かって対等性を求める営みであったとすれば、憲法・議会・法制度の整備は、その前提となる国家の内側を整える営みだった。
その中心にあったのが、議会・憲法・法制度である。大日本帝国憲法の制定と公布は、日本が統治の基本構造を明文化したことを意味し、帝国議会の開設は、その国家が政治的制度を備えたことを示した。法制度と司法制度の整備は、国家が法によって運営されるという形式を具体的なものにしていく作業だった。欧米に通用する国家形式を整えることと、国内統治の安定を保つことは、別々の課題ではなかった。外から信用される国家であるためには、内側にもまた、統治の仕組みと法の形式が必要だったのである。
明治政府は、制度ごとに異なる参照先を選びながら、対外的な通用性と国内統治の安定を同時に確保しようとした。憲法では、議会が政府を強く左右するイギリス型よりも、君主権を強く残すドイツ系の立憲制度が重く見られた。法制度では、条約改正の前提として近代的な法典を急いで整える必要があり、フランス法が早くから参照された。議会も近代国家の条件として必要だったが、政府は急進的な議会制によって国家建設が不安定になることを警戒し、行政の主導権を残しながら段階的に政治参加を広げる道を取った。
憲法・議会・法制度の整備は、もともと近代国家建設の一部として進められていた。ただ、井上・大隈期の挫折は、それらが段階的な国内整備にとどまらず、欧米に対して日本を対等な国家として承認させるための必要条件でもあったことを、よりはっきり浮かび上がらせた。交渉によって先に前進を得ようとする試みはありえたが、それを安定した形で支えるには、国家の内側にもまた、列強が欧米主導の国際秩序の中で通用すると認めうるだけの制度的形式が求められていたのである。
こうした交渉と制度整備の積み重ねの上に、1894年、条約改正はようやく具体的な前進として現れる。ここで陸奥宗光が取ったのは、列国を同時に動かそうとするのでも、比較的組みやすい相手から順に合意を探るのでもなく、まず列強の中核との合意を成立させることで、全体の流れを動かそうとする方針だった。
イギリスは、日本との通商関係でも、列強間の外交秩序でも大きな位置を占めていた。そこで合意が成立すれば、他国も日本だけに従来の条件を残し続ける理由を保ちにくくなる。陸奥が見たのは、列国を同時に説得することではなく、列強の中で最も重い相手を動かし、その合意を足場に全体を動かす道だった。
もちろん、これは日本側の工夫だけで決まったわけではない。列強側にも、日本を従来のまま条約上の劣位に置き続けることが、必ずしも得策ではなくなっていく事情があった。日本の制度整備が進み、通商上の関係も深まる中で、少なくとも領事裁判権については、改正に応じる余地が生まれていた。
1894年という時期もまた、無関係ではなかった。朝鮮をめぐる緊張が高まり、東アジアの秩序が動き始める中で、列強にとっても、日本を従来のような条約上の劣位に置いたまま扱い続けることは、必ずしも得策ではなくなっていた。日本は完全な対等者として迎え入れられたわけではない。だが、従来と同じ扱いのまま外側に置き続ける国でもなくなっていた。
その結果、同年七月十六日、青木周蔵駐英公使と英国外相キンバリーによって日英通商航海条約が調印された。長く続いた模索はここで初めて、列強の中核との合意という形で具体的な成果に結びついた。この条約で日本が得た最大の成果は、領事裁判権の撤廃だった。条約発効後、外国人も日本の裁判権の下に置かれることになり、日本は司法権を実際の条約の中で回復し始めた。同時に関税についても一定の見直しは実現したが、関税自主権の全面回復はなお先へ残された。
この順序には、欧米側が日本に何を認め、何をなお留保したのかが表れている。まず認められたのは、日本の司法制度や統治能力への不信が、少なくとも形式の上では克服されたということだった。これに対して関税は、各国の通商利益に直結するだけに、その決定権を全面的に日本へ戻すことには、なお慎重さが残された。日本は「法と制度を備えた国家」として扱われ始めたが、経済上の条件まで対等に決められる地位には、まだ達していなかった。長く続いた条約改正の模索は、ここでようやく、一つの扉を開けてもらうところまでたどり着いたのである。
その先にあったのは、静かな対等化の道ではなかった。欧米秩序の中で国家として認められることは、同時に、その秩序が持つ帝国主義的な競争へ参加していくことでもあった。同じ1894年、日本は朝鮮をめぐる秩序の中で、自らの位置を押し広げようとしていた。欧米秩序に入る側でありながら、その論理を東アジアで使う側へ回り始める。その先に、日清戦争が現れる。
