人と話していると、 よく似た願いに出会うことがあります。
もっと刺激が欲しい。
もっと自由でいたい。
でも、安定も失いたくない。
欲しいものを並べていくと、 生活はいくらでも膨らんでいくように見える。
私も最初は、 そういうものだと思っていました。
でも今は、 少し違うふうに考えています。
生活は足し算ではなく、 配分の話です。
安定と刺激を足して、 生活はだいたい10になるようにできている。
配分は変えられる。
だが、総量が増えることはない。
コタツで猫を撫でる日常を、 退屈だと思う日もあります。
虎が跋扈するような毎日を、 眩しいと思う日もあります。
でも、どちらが豊かかと問われると、 いつも少し言葉に詰まります。
おそらくそれは、 どちらが多くを持っているかの問題ではなく、
10をどう配分しているかの問題だからです。
非日常は、たしかに魅力的です。
新しさ
緊張感
昂揚
それらは一時、 生活を鮮やかに見せてくれます。
私自身も、 非日常を日常にしようとした時期があります。
ただ、 それで幸せになれると はっきり信じていたわけではありませんでした。
今振り返ると、 非日常を増やす過程で、
日常が少しずつ変質していくという代償に 気づいていなかったのだと思います。
非日常は、量を増やすと質が変わる。
回数を重ねれば、 それはただのコストのかかる日常に変質する。
日常の質が上がったわけではない。
非日常を、日常に変えてしまっただけです。
刺激が消えたのではない。
刺激が日常に回収されただけです。
そして人は、 その日常を守りたくなります。
かつて非日常だった頃の、 あの高揚や鮮やかさを失わないように。
もっと刺激を。
もっと特別な毎日を。
そうやって、 日常をもう一度、
非日常だった頃の姿に戻そうと藻掻く。
足るを知る感覚を、 自分の中に住ませること。
それが難しいのは、 自分が10の中で生きていると気づくこと自体が、
案外むずかしいからなのかもしれません。
足りていると分かった上で、 なお伸びようとするのと、
足りないと思い込んだまま走り続けるのとでは、 向かう先がまったく違う。
人はしばしば、 他人の生活の方が、
自分より多くを持っているように見えてしまいます。
だが実際に見えているのは、 その人の10の一部に過ぎません。
そこに至る経緯や、 選ばなかった側の重さは、だいたい見えない。
コタツを選んだ人にも、 手放した刺激や速度がある。
虎の中に入った人にも、 置いてきた安らぎや居心地がある。
だから私は、 コタツで猫を撫でる日常を 一様に評価することはしません。
羨望を覚えることもあるし、 安堵を感じることもある。
時には、もったいないと思うこともある。
ただ一つ、軽蔑することだけはない。
自分もまた、 10の中で何かを選び、 何かを捨てながら生きているからです。
大切なのは、 どんな生活を選んだかではなく、 なぜそこに立っているのかです。
生活を輝かせるのは、 何を手に入れたかではない。
何を捨て、 その配分に納得しているか。
それだけです。
コタツで猫を撫でる、 平凡で退屈な日常もいい。
虎が跋扈する、 刺激に満ちた日常もいい。
どちらを選んでも、 自分の10を生きている限り、
その生活は、 きちんとあなたのものです。
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