第5節 高成長が吸収した矛盾
高度成長の果実は、比較的広く社会に配られていた。
ただし、その配分は均質ではなく、特定の場所や人々、そして未来へと負担を偏らせることで成り立っていた。
高度成長の特徴は、成長の果実を広く配りながら、その裏の負担を全体の限界として見えにくくしたところにある。
この時代の安定は、矛盾が消えていたからではなく、負担の所在が偏りながらも、成長の勢いによって全面化しにくかったから成立していたのである。
最初に見なければならないのは、地域が引き受けた負担である。
高度成長は、日本全体を均等に押し上げたわけではなかった。
工業化と都市化が進むほど、人も資本も情報も、より成長率の高い都市部へ集中していく。
地方から都市へ若年労働力が流れ、都市は拡大し、地方は人口流出と高齢化の兆しを抱え始める。
都市にとっては成長の条件であり、地方にとっては活力の流出でもあった。
この移動は、日本全体の生産性上昇という意味では合理的だった。
その合理性は、地方側から見れば必ずしも中立ではない。
高度成長は、成長する場所と、そこへ人を送り出す場所とのあいだに、目に見えにくい非対称を広げていった。
特定の地域と住民が引き受けた負担も大きい。
人口と産業が急速に集中すれば、住宅不足、通勤混雑、交通渋滞、インフラ不足は避けがたい。
都市の発展は、最初から快適で均整の取れた生活環境を保証するものではなかった。
都市は豊かになったが、同時に、豊かさに追いつかない生活環境の歪みも抱え込んでいった。
その歪みがもっとも激しく現れたのが、公害である。
工場が立ち並び、生産が拡大し、エネルギー消費が増えれば、煙や排水や廃棄物もまた増える。
生産拡大そのものが国家的な優先課題であった以上、環境への負荷は長く「成長のコスト」として受け流されやすかった。
公害は単なる事故や逸脱ではなかった。
成長を最優先し、副作用への対応を後段に回す社会の進み方そのものから生まれていた。
被害は日本社会全体に均等に広がったのではなく、特定の地域や住民に偏って引き受けられていた。
高度成長の成功は、その意味でも負担の偏った配分の上に成り立っていたのである。
労働者と家計が引き受けた負担も見落とせない。
雇用は増えたが、その日常は長時間労働や企業中心の生活によって支えられていた。
過密な職場環境や都市流入者の不安定な住環境も、その重さの一部だった。
成長の果実は比較的広く配られていたが、その果実を支える日常は、必ずしも軽いものではなかった。
企業社会への強い組み込みは、安定の源泉であると同時に、生活の重心を会社へ大きく傾けることでもあった。
家計の安定や大衆消費社会の成立は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業にも支えられていた。
当時は、男性賃金を中心に家計を組み立て、女性が家事、育児、家計管理を引き受けるモデルが広がっており、それが成長期の生活安定の一部を支えていた。
この分業は、家計の効率性と引き換えに、生活世界の分離も進めた。
男性は家庭への参加を相対的に減らしながら会社へ強く組み込まれ、女性は社会参加の幅を狭めながら家庭の維持を担うことになりやすかった。
都市部での核家族化は、家族と地域の結びつきの形を変え、会社が地域に代わる主要な共同体として膨らむ余地も広げた。
ここにも、高度成長が経済特化と速度特化を進めるなかで、生活の編成そのものを組み替えていった一面がある。
高度成長の成功は、その場で解消できない負担を次の時代へ送ることによっても成り立っていた。
日本は、アメリカ主導の固定相場と対米市場へのアクセスによって大きな利益を受けた。
その意味は、外部条件の変化に強く左右される構造を同時に抱え込むことでもある。
輸出が伸びるほど対米摩擦の芽は育ち、工業化が進むほど海外資源への依存も深まる。
投資主導の成長回路も、雇用・所得・消費の安定も、高成長が続くことを前提にしていた。
この時代の日本は、問題をその場で処理したというより、高成長の継続によって次の時代へ押し出していたのである。
高度成長は、多くの人の生活を実際に引き上げた。
だからこそ、その成功の内部に埋め込まれていた負担の配分も、あわせて見なければならない。
地方が引き受けた負担、特定地域や住民が引き受けた負担、労働者と家計が引き受けた負担、そして次の時代へ送られた負担。
これらは成長の失敗ではない。
成長が強く機能したからこそ、その内部で見えにくくなっていた矛盾である。
高度成長の時代を「良い時代」としてだけ記憶すると、その矛盾は見えない。
逆に、「問題だらけだった」としてだけ裁くと、なぜ人々がその時代を支持しえたのかが見えない。
この時代の日本は、たしかに成長していたし、その果実は多くの人の生活を前進させた。
そのため、成長の裏で蓄積していた問題は、すぐには全体の限界として意識されにくかった。
高度成長の本当の強さとは、成長そのものが負担を分散し、吸収し、先送りできるだけ十分に強かったところにあった。
その容器にも限界はある。
高成長が続くことを前提にした社会は、その前提が揺らいだとき、初めて自分が何を吸収していたのかを知ることになる。
一九七三年以前の日本にも、すでに多くの問題は存在していた。
高成長という強い流れが、それらを表面化しにくくしていたのである。
第6節 1973年を前にして
高度成長の終わりは、一九七三年の石油危機だけで突然訪れたものではなかった。
その前から、固定相場制と対米関係という外部条件には揺らぎが生まれていた。
石油危機は、その揺らぎを一気に前景化させたのである。
ここで揺らいだのは、政策や景気だけではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいのかという感覚そのものだった。
最初に揺らいだのは、固定相場制と対米関係である。
戦後日本の高成長は、固定相場制と対米市場という安定した国際環境の上に立っていた。
日本の輸出競争力が高まり、貿易黒字が拡大していくほど、その安定はアメリカにとって無条件に受け入れられるものではなくなっていく。
日本にとって有利だった条件は、相手にとっては不均衡の拡大でもあった。
高度成長を支えていた外部条件は、その成功ゆえに摩擦の種も育てていたのである。
その象徴がニクソン・ショックである。
一九七一年、アメリカはドルと金の交換停止を打ち出し、ブレトンウッズ体制の前提を崩した。
日本にとっては、長く成長の基盤となってきた固定相場の安定が、もはや当然ではないことを突きつけられた出来事だった。
円は切り上げを迫られ、輸出主導型成長の前提も再考を迫られる。
成長の回路が強く外需と為替の安定に依存していた以上、固定相場制の揺らぎは、単に輸出企業の収益を揺らすだけではない。
日本経済全体が、これまでのような外部条件の上に成り立ち続けられるのかどうかを問うものだった。
一九七三年の第一次石油危機は、外からの衝撃であると同時に、高度成長の内部にあった脆さを一気に表面化させた出来事だった。
その衝撃が大きく響いたのは、日本の成長がすでに外部資源への依存を深め、高成長の継続を社会全体の安定条件にしていたからである。
石油危機は、新しい問題を持ち込んだというより、高度成長を支えていた前提の脆さを露出させた。
ここで終わったのは、成長そのものではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいという感覚だった。
成長の勢いの中で後景へ退いていた矛盾は、この境目から別の重みを持ち始める。
日本経済はここで、成長率が高くなくても社会をどう維持するのかという次の問いを抱えて動き出す。

1章:参考資料
・中村隆英『The Postwar Japanese Economy: Its Development and Structure, 1937-1994』
・Chalmers Johnson, MITI and the Japanese Miracle
・Andrew Gordon, A Modern History of Japan
・内閣府 経済社会総合研究所「国民経済計算年次推計」
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