第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)①

1節.新政府外交の出発

明治新政府の外交は、旧幕府が残した条約をどう扱うかという問題から始まった。そこには、誰が日本を代表し、誰が対外責任を負うのかという問いが重なっていた。

幕末には、条約上の相手として外国が向き合っていたのは幕府だったが、現実の政治力は朝廷、幕府、諸藩に分散し、外交主体と統治主体は必ずしも一致していなかった。新政府はこのねじれの上に出発し、自らが日本を代表する外交主体であることを示しながら、旧幕府が背負っていた条約と対外責任を国家として引き受ける必要があった。

しかも、幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力は、明治新政府の担い手でもあった。旧体制を倒した側が、旧体制の結んだ条約と責任を引き受けなければならない。ここに、新政府外交の出発点にあった難しさがある。新政府は、幕府を否定しながらも、外国に対しては日本という国家の継続性を示さなければならなかった。

旧幕府条約を継承するという問題は、それ自体として不平等条約改正の問題と同じではない。まず問われていたのは、政権が交代しても日本という国家は対外的に継続していると示せるかどうかだった。もし新政府が旧幕府条約を無効とみなし、対外責任を切り離そうとすれば、日本は政権が変わるたびに約束が揺らぐ国と見なされかねない。新政府は旧体制を否定しながらも、国家としての外向きの責任は引き受けざるを得なかった。

その際の足場となったのが、幕末から受容されていた万国公法という語彙だった。万国公法は、日本が自らを近代国家として位置づけ、列国との関係を処理し、代表・責任・主権の問題を共通の言葉で語るための基盤となった。だがそれは、外国と話すための知識にとどまらない。新政府が、自らこそ日本を代表し、対外責任を担いうる主体であることを説明するための言葉でもあった。

だからこそ新政府にとって重要だったのは、この政府は本当に日本を代表しているのか、という問いに答えることだけではなかった。この政府は本当に日本を代表できるのか。外国から見れば、より厳しく問われるのはそこだった。幕末のねじれを引き継いだ新政府は、まずその問いに答えられる国家の形を作らなければならなかった。

2節.外交主体の一元化と条約改正への前提整備

この問いに対して、明治政府がまず進めたのは、不平等条約改正そのものではなく、その交渉の土台に立てる国家の形を整えることだった。版籍奉還から廃藩置県へ進む中央集権化は、内政改革であると同時に、外国から見て責任主体が見える国家へ組み替える作業でもあった。国内の行動が分散したままでは、対外責任を一元的に引き受けることはできない。新政府は、幕末に露わになった代表と責任のずれを、国家の内側から処理しようとした。

この作業には、時間的な圧力もあった。安政五カ国条約の改定時期は1872年7月に迫っており、その一年前には改定通告が必要だったため、政府はその時期に備えて国内改革を進める必要があった。1871年に伊藤博文が「外国交際・条約・貿易規則等を調査」して翌年の改定交渉に備えるべきだと建言し、廃藩置県後の1871年秋に使節派遣が具体化したのは、その文脈で理解するのが自然である。

国内の一元化は、単に中央へ権力を集めることだけを意味しなかった。幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力が新政府の担い手になった以上、新政府は自分たちの側から次のねじれを生まないことも示す必要があった。旧幕府のように、中央政府とは別の勢力が独自に対外行動を起こし、その処理だけが政府に返ってくる構造を繰り返すわけにはいかなかった。だからこそ、藩を解体し、地方の軍事・行政・財政を中央へ回収していくことは、内政上の権力再編であると同時に、対外的な責任主体を作る作業でもあった。

その後に続く廃刀令、秩禄処分などの改革も、この流れの中に置いて見ることができる。これらは士族身分の解体や国家財政の再編という内政改革であったが、同時に、政府の外側に武力や独自の政治的求心力を残さないための改革でもあった。もちろん、それだけで説明できるものではない。それでも、明治政府が国内の反乱や権力闘争の芽を強く警戒し、外国から見ても一つの政府が責任を負う国家として見える形を作ろうとしていたことは重要である。

日本に秩序を支える仕組みがなかったわけではない。問題は、その仕組みの切り方が欧米側の見慣れた国家の形とかなり違っていたことにあった。たとえば町奉行は、行政・司法・警察・消防などを一体として担っており、江戸の統治は役割ごとに横に分けるより、土地ごとに機能を束ねる発想で組み立てられていた。だから中央集権化とは、単なる権力集中ではなく、土地ごとに束ねられていた秩序を、行政・司法・警察といった役割ごとに分けて担う国家へ組み替えることでもあった。

条約改正に先立って新政府が必要だったと考えたのは、国内の行動と責任を一元化し、外国から見ても日本を代表できる国家の形を整えることだった。

3節.岩倉使節団が見た改正条件

こうして政府は、改定時期の到来を見越し、廃藩置県後の国内改革を踏まえて、視察と予備交渉を兼ねた岩倉使節団を派遣した。日本側には、国内改革もある程度進み、条約改正の時期も近づいている以上、視察の延長で交渉の入口に立てるのではないかという感覚があったと見てよい。だが実際に欧米へ出てみると、相手が見ている条件は、日本側の想定よりはるかに厳しかった。使節団がここで知ったのは、改定時期の到来はゴールではなく、ようやく再交渉の入口に立てるという意味にすぎないという現実だった。

最初の訪問国アメリカで、使節団は早くもつまずく。条約改正交渉に必要な全権委任状を持っていないことを指摘され、大久保利通と伊藤博文は一時帰国して委任状を受け、再渡米することになった。だが、問題は委任状だけでは終わらなかった。委任状を得た後もアメリカ側は日本の主張を受け入れず、交渉は失敗に終わる。ここで露わになったのは、日本側が「これだけ整えれば交渉に入れる」と考えていた条件と、相手が実際に見ていた条件との隔たりだった。しかもその隔たりは、外交文書の形式だけにとどまらない。片務的最恵国条項の存在は、ある国と話をまとめても他の条約国との関係まで連動するという厳しい現実を突きつけた。

使節団が直面した条件は、条文や外交儀礼の外側にも広がっていた。キリスト教政策もまた交渉条件に食い込んでいた。国内では秩序維持として処理されていた政策が、対外的には「この国に自国民を委ねられるのか」という評価を左右する材料になっていたのである。ここで神戸事件を並べて見ると、問題はさらにはっきりする。そこでは、責任の認定、謝罪の示し方、処罰の執行、しかもその執行を外国側に見せることまで含めて、欧米諸国の制度感覚から見ても異質な景色が広がっていた。キリスト教政策と神戸事件は性質が違う。だが二つを並べると、問題になっていたのは日本の制度が単純に「遅れていた」ことではなく、責任の取り方、処罰の意味、秩序維持の考え方そのものが欧米側とずれていたことだったと分かる。

使節団が見たのは、制度や儀礼を整えればすぐに対等化へ進めるという単純な世界ではなかった。司法制度、宗教政策、外交文書の形式は確かに問われた。だがそれらは、条約改正を拒むための理由であると同時に、列強が優位な立場を保つための基準でもあった。日本がその基準に近づくことは必要だったが、それだけで相手が対等を認めるわけではなかった。

条約改正の条件には、表面と本質の二層があった。表面では、司法制度、外交プロトコル、宗教政策、条約文言、最恵国条項といった条件が持ち出された。つまり「条約改正を望むなら、まずはこちらが運用可能だと思える国家になれ」という話である。だがその下にあった本質は、条約改正が正しさを示せば進む話ではなく、最終的には国力と武力の差を背景にした秩序の問題だったということだった。制度を整えることは必要だったが、それは善意で対等を認めてもらうためではない。制度を整え、国家の責任主体を見えるようにし、そのうえで工業化と軍備拡充を進め、ようやく改正を迫りうる位置に近づくためだった。

使節団が知ったのは、不平等条約を改正するには、相手と同じ言葉と形式で交渉し、その条件に見合う国家の形を自ら整えていくしかないという現実だった。ここで参照されたのが、幕末以来学ばれてきた万国公法である。万国公法は、日本が自らを近代国家として語り、条約改正を求めるための共通語彙であったが、同時に日本が欧米秩序の基準の中で自らを測り直すことでもあった。したがって改正に向けた課題は、単に条約文言を書き換えることではなく、欧米との交渉と通商を運用しうる国家へ自らを作り替えていくことにあった。その作業は法制度や行政機構の整備にとどまらず、工業化と軍備の拡充を含む国家の外形と実力の組み替えとして、次第に前面へ出てくることになる。

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