4節.台湾出兵
1871年(明治4年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件が発生した。生存者の一部は現地住民や清の官吏の手を経て救助され、のちに福建へ送られる。一報を受け取った政府が最初に突き当たったのは、法的・外交的な問いだった。犠牲となった人々を誰の保護下にある者とみなすのか、そして台湾南部で起きた出来事に誰が責任を負うのか、という点である。
被害者は琉球の人々だった。琉球は清の冊封体制に組み込まれる一方、薩摩藩の支配も受けてきた経緯があり、その位置づけは単純に決まるものではなかった。しかも事件の起きた台湾南部は、すでにローバー号事件をめぐってアメリカ領事ル・ジャンドルらが対応に乗り出したことのある地域であり、清朝の統治がどこまで及んでいるのかそれ自体が争点になりうる場所だった。こうした条件が重なっていたため、事件は単純な漂着民保護の問題には収まらなかった。
政府内部では、この事件を対外問題として処理すべきだという議論が強まっていく。武力による責任追及を求める声が出る一方で、政府はル・ジャンドルを顧問として迎え、台湾南部の統治の空白をどのような論理で扱いうるかを検討した。ル・ジャンドルは、ローバー号事件で清朝が台湾南部の先住民地域への責任を曖昧にした経験から、そこを清の実効支配が及ばない地域として扱い、「無主地」に近い発想で外部からの介入を正当化しうると見ていた。日本政府はその論理を、台湾出兵を国際法的に説明するための材料として利用しようとした。さらに、別の日本船が台湾に漂着して被害を受ける事件も起き、台湾南部をめぐる危険は一度きりの出来事ではないという認識が強まっていった。
日本政府は清に対して、事件について責任ある対応を求めた。しかし清側は、被害者の送還には応じながらも、事件を起こした台湾南部の住民については、自らの統治の外にある者たちだという立場を示した。清にとって台湾南部は、領土の外ではないが、行政が一様に及ぶ場所でもなかった。清朝はこうした地域を「化外」の民が住む場として捉えており、そのため日本の介入は認められないが、事件の責任を国家として全面的に引き受けることも避けようとした。日本側から見れば、それは領土を主張しながら、その内部で起きた殺害事件の責任は引き受けないというものに映った。
もっとも、出兵論が政府内外でそのまま受け入れられたわけではない。木戸孝允らは、いま優先されるべきは国家の内側を固めることだとして台湾出兵に反対した。琉球の位置づけがなお揺れている以上、清との関係を不必要に悪化させるべきではないという判断もそこにはあった。出兵をめぐる政府内部の対立は深く、外征を急ぐことは、内治優先の方針とも衝突していた。それでも大久保利通らは、清が責任を曖昧にしたままでは琉球の保護主体としての日本の立場も曖昧になると見て、最終的に出兵を押し進める側へ傾いていく。
国外でもイギリス公使パークスらが強い警戒を示した。パークスにとって問題だったのは、日本の大義そのものより、その結果として清国内の英国の権益が損なわれ、英国人に被害が及ぶおそれがあることだった。日本の出兵は、清との局地的な問題にとどまらず、列強の通商秩序にも波及しうるものとして見られていた。
それでも出兵を現実の選択肢として押し進めようとする動きは止まらず、1874年、日本政府は台湾への出兵を実行に移した。日本にとって重要だったのは、琉球の人々を自らが保護し代表すべき存在として、清朝と国際社会に認めさせることだった。清が台湾南部の事件について責任を曖昧にしたことは、その主張を押し出す材料にもなっていた。
出兵に対して列強への根回しは十分ではなく、パークスはその手続きの欠落を紛争拡大の危険として受け取った。ル・ジャンドルの知見は出兵論に材料を与えたが、それはアメリカ政府が日本の行動を確実に支えることを意味しなかった。和議の形成において大きな役割を果たしたのは、東アジアの通商秩序の維持を自国の利益とするイギリスだった。出兵前には日本の行動を警戒していたイギリスも、出兵後には紛争の拡大を防ぐため、清と日本のあいだを調整する側へ回った。和議の結果、清は日本に対して見舞金・償費の支払いに応じ、日本はそれを受けて撤兵する。清が日本の立場を全面的に認めたわけではなかった。だが、清が宮古島島民を含む「日本国属民」への加害に対する出兵という日本側の論理を受け入れ、賠償に応じたことは、日本にとって決定的に大きかった。日本はこれを、琉球住民を自らの保護対象として扱いうる根拠として用い、その後の琉球処分を進める外交的足場としていく。この決着は、琉球をめぐる日本の主張を対外的に一歩前へ進めるものだった。
5節.朝鮮問題と対外認識の転換
琉球をめぐって清との境界線を押し出していく一方で、日本は朝鮮との関係でも、旧来の交隣秩序をそのまま続けようとはしなかった。明治新政府は、欧米から受け入れた新しい外交の形式で朝鮮と向き合おうとした。日本側には、開国し、欧米の制度や技術を取り入れることが、自国の安全保障につながるという経験があった。そのため、朝鮮にも同じように開国と制度改革を促すことが、東アジア全体の危機に備える道だという発想が生まれていた。
だが朝鮮側から見れば、日本の働きかけはそのまま受け入れられるものではなかった。対馬を通じて維持されてきた従来の交渉手順を外し、天皇を前面に出した国書で関係を結び直そうとすることは、朝鮮側の王朝間秩序の中では大きな意味を持った。朝鮮には宗主国である清との関係があり、日本の新しい形式を受け入れることは、単に日本との手続き変更にとどまらず、清を中心とする秩序の中での自らの位置を揺らすことにもなりえた。日本のように、旧来の対外関係を一気に切り替えて欧米型の外交形式へ進むことは難しかった。朝鮮にとって、清との関係を維持することにも安全保障上の意味があり、従来の秩序を捨てることは容易ではなかった。明治新政府の国書を朝鮮が受け取らなかった問題は、このずれの中で起きた。
征韓論政変によって即時強硬策はいったん退けられたが、朝鮮問題そのものは残った。1875年の江華島事件で、日本は雲揚号を朝鮮沿岸に接近させ、表向きには測量や航行の名目を取りながら、朝鮮側の現地部隊から強硬な反応を引き出す行動に出た。ここで日本が用いたのは、かつてペリーが日本に対して用いたやり方に近かった。軍事的圧力を背景に、閉ざされた外交の入口を開かせる。国書では開かなかった入口を、軍艦で開けに行ったのである。
その延長に、1876年の日朝修好条規があった。条約では、朝鮮は「自主の邦」と記された。日本は、朝鮮を清との旧来秩序から切り離し、新しい条約外交の形式へ引き出そうとしたのである。だが、この文言がただちに朝鮮と清との関係を消し去ったわけではない。朝鮮はその後も清への朝貢と典礼を続け、現実には従来の秩序をなお残していた。朝鮮は、条約上は新しい外交形式に応じながら、清との関係も維持するという両面の対応を取ることになる。この両面外交は、外から見ればダブルスタンダードにも映りうるものだったが、朝鮮にとっては安全保障と国内秩序の両方を崩さないための対応でもあった。ただ、その曖昧さは、朝鮮内部の国論をまとめにくくし、のちに二つの事変へとつながる不安定さを残していく。
日朝修好条規によって新しい関係は開かれたが、それだけで日本の影響力が朝鮮に安定して定着したわけではなかった。修信使の来日、通商章程交渉、釜山港での実務などを通じて、日朝関係は継続的に運用される段階へ入っていく。だが、その運用は滑らかには進まなかった。朝鮮は清との関係を残し、国内でも新しい外交関係をどう受け止めるかをめぐって揺れていた。日本にとって、条約で入口を開いただけでは足りなかった。朝鮮内部で自らに近い勢力を支え、影響力を増していく必要があると見られるようになっていく。
その動きは、朝鮮内部の摩擦と結びついた。朝鮮では、王宮、政府、軍をめぐる対立が続き、軍の近代化も新式軍と旧式軍の分裂を生んでいた。やがて旧軍兵士の不満が爆発し、反乱は王宮と政権中枢を揺さぶり、日本公使館襲撃にまで及ぶ。これが1882年の壬午事変である。さらに1884年には、日本と結ぶ開化派が、現地の日本公使館の後押しを受けながら王宮を押さえ、新政府を立てようとしたが、清軍の介入によって短期間で崩れる。これが甲申事変だった。ここで見えるのは、日朝修好条規で開かれた新しい関係が、そのまま定着したのではなく、朝鮮内部の権力争いと日本の関与を通じて、より直接的な政治的・軍事的競合へ変わっていったということである。
そして朝鮮内部の摩擦は、容易に清の介入を可能にした。朝鮮は日本のように海で隔てられた位置にはなく、清と陸続きで、清の軍事介入を受けやすい地政学的条件に置かれていた。そのため、王宮や政府をめぐる事件は国内の政争にとどまらず、ただちに日清関係の問題へ変わってしまう。壬午事変では清が介入し、甲申事変でも日本と結ぶ開化派の試みは清軍の対応によって崩れた。二つの事変を経て、朝鮮問題は日朝二国間だけでは処理できない問題だと突き付けられ、日本と清が正面から向き合う舞台へ押し上げられていった。
この時点で、朝鮮をめぐる力関係では清が日本より優位に立っていた。清は朝鮮に対して宗主国としての立場を持ち、朝鮮と陸続きで、必要とあれば迅速に軍を送り込める条件を備えていた。これに対して日本は、海を越えて関与するほかなく、現地での影響力を維持するにも限界があった。日本は朝鮮を新しい条約外交の形式へ押し出そうとしていたが、現場ではむしろ清の力を避けて通れないことを思い知らされた。少なくとも朝鮮の現場では、日本は外交的に押し返された側だった。
ここで表面に現れる理屈は、防衛線、朝鮮の不安定、清の介入、さらには幕末以来続いていたロシアへの警戒といったものだった。これらは単なる飾りではなく、実際に政策を動かす現実の材料でもあった。日本にとって、朝鮮を清との旧来秩序の中に置いたままにすることは、安全保障上の不安を残すことでもあった。だから日本は、朝鮮を清との関係から引き離し、新しい条約外交の形式へ置き直そうとした。
しかし、その政策上の危機感と、国内で広がった対清感情とは、そのまま同じものではなかった。甲申事変ののち、国内では清に対する憤激が急速に高まった。政府は、現地の日本公使館と日本側の関与を前面には出さず、あくまで国王救援と公使館防衛の延長として事態を示しながら、日本人被害と清兵の行動を強く印象づける形で世論と向き合った。外交的に押し返された現実や、自らの関与の全体像は見えにくくなり、安全保障上の問題と、国内で受け取られる物語とのあいだにはずれが生まれていく。
このずれを抱えたまま、伊藤博文は天津で李鴻章との交渉に臨んだ。日本政府は清との全面衝突を避ける必要があったが、国内世論の前で譲歩だけの結果を持ち帰ることもできなかった。他方の清も、朝鮮では優位に立っていたとはいえ、フランスとの戦争を抱えており、日本との対立をさらに広げる余裕は限られていた。天津条約が、日清両国の撤兵と、今後朝鮮へ出兵する場合の相互通知という形を取ったのは、このためである。
条文だけを見れば、天津条約は比較的相互的な形を取っていた。だがその相互性は、純粋な対等の反映というより、それぞれ異なる制約と優先順位の中で作られた均衡の形式だった。天津条約は、朝鮮をめぐる日清の競合について、一旦時計の針を止めた。だが、それは解決ではなかった。止まった針は、条件が変わればまた動き出すことになる。
朝鮮問題はこうして、日朝関係の枠を超えた。日本が朝鮮を新しい外交形式へ押し出そうとするほど、朝鮮内部の不安定さと清の存在が前に出てくる。さらに国内では、外交現場の現実とは別に、新聞や世論を通じて対清感情が強まっていった。天津条約はその衝突をいったん止めたが、問題を解いたわけではない。朝鮮問題は、日本が何を目指し、現場で何に直面し、国内でどう語られたのかというずれを抱えたまま残った。
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