第6章 イラン革命
20世紀のイランでは、王政のもとで近代化が進められた。石油は国家に大きな収入をもたらし、イランはイギリスやアメリカとの関係を深めていった。1951年には石油産業の国有化(注18)が進められ、イギリスとの対立が強まった。1953年にはアメリカとイギリスが関与した政変(注19)が起こり、その後王政の力が強まった。
王政は西側諸国との関係を深めながら、土地改革、教育の拡大、工業化、都市化(注20)を進めた。石油収入もその変化を支えた。一方、政治権力は王政へ集中し、軍や治安機関が体制を支えた。急速な社会変化の中で、宗教指導者、学生、商人、知識人、都市労働者など、さまざまな層に不満が広がった。経済発展の利益にも偏りがあり、社会の変化そのものが大きな負担となる人々もいた。
革命前年から抗議運動が急速に広がり(注I)、1979年に王政は崩壊し、イスラム共和国が成立した。新しい国家では、宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ(注21)(注J)、革命によって生まれた新しい組織も国家の中に組み込まれた。その一つが革命防衛隊(注22)だった。
ペルシャ文化圏とシーア派の結びつきの上に革命体制が成立し、現在のイランにつながる、ペルシャ文化圏 × シーア派 × 革命体制という組み合わせが形作られた。
革命後のイランは、周辺地域のシーア派共同体やイスラムを掲げる政治運動との関係を広げていった。その動きが具体的な形を取った場所の一つが、内戦の続いていたレバノンだった。1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻(注23)すると、イランの革命防衛隊はレバノンのシーア派勢力への支援や訓練に関わった。そこから形成されていった組織の一つが、後のヒズボラである。
ヒズボラはレバノンのシーア派社会を基盤とし、イラン革命の思想的な影響とイランからの支援を受けながら、イスラエルへの抵抗を掲げて成長していった。イラン革命によって生まれた政治体制と革命防衛隊は、こうして国境を越えた政治勢力との関係を築いていった。
第7章 イラン・イラク戦争
1979年のイラン革命は、周辺国にも大きな衝撃を与えた。その影響を強く警戒した国の一つがイラクだった。イラクではシーア派が人口の大きな割合を占めていたが、国家や政治の中心ではスンニ派を基盤とする政権が強い力を持っていた。イラン革命がイラク国内のシーア派にも影響を与える可能性は、政権にとって大きな不安となった。
両国の間には国境をめぐる対立(注24)や、地域の主導権をめぐる競争もあった。さらに革命直後のイランでは、旧体制の軍や国家機構が大きく揺れていた。イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した(注K)。
1980年、イラク軍がイランへ侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。イランは侵攻を押し返したが、その後も戦争は終わらず、約8年間にわたる消耗戦へ進んだ。国境地帯では激しい戦闘が続き、都市への攻撃、ミサイル攻撃、石油輸送をめぐる攻撃なども行われた。外国から攻撃を受けたことで、革命によって生まれた新しい体制と国家防衛が結びつき、その中で革命防衛隊も大きな軍事組織へ成長した。
1988年、停戦が成立した(注25)。国境は大きく変わらなかったが、両国には多数の犠牲と大きな経済的負担が残った。イラクには、戦争を支えるために湾岸諸国から借りた多額の債務も残った。戦争後、イラクは復興のために大きな石油収入を必要としていた。
一方、クウェートなど湾岸の産油国が高い生産量を維持すると、石油価格は低い水準にとどまった。イラクはこれを、自国の復興を妨げる問題として受け止めた。クウェートとの間には、債務、石油生産、国境や油田をめぐる対立も重なり、1990年、イラクはクウェートへ侵攻した。
これに対してアメリカを中心とする多国籍軍が軍事介入し、1991年にイラク軍はクウェートから撤退した。湾岸戦争の敗北後、イラクには長期の経済制裁(注26)が課された。
同じころ、中東の別の場所では、国家の外で活動する政治・武装組織も形を取り始めていた。パレスチナでは、イスラエルの占領が長期化する中で、住民による抗議や抵抗が広がり、その中からパレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された(注27)。それまでパレスチナの民族運動では世俗的な勢力が大きな位置を占めていたが、イスラムを政治や社会の中心に置きながら、イスラエルの占領と国家に対抗する勢力も力を持つようになった。
同じ時期、アフガニスタンではソ連軍との戦争(注28)が続き、国外からもイスラムを掲げる戦闘員が集まっていた。長い戦争の中で、国籍の異なる戦闘員や支援者を結ぶ人的なつながりが作られ、その中からアルカイダが形成された。
ハマスはパレスチナから生まれ、イスラエルの占領に対抗した。一方アルカイダは、アフガニスタン戦争から生まれ、湾岸戦争でアラビア半島に外国の軍が展開したことなどを契機として、アメリカを中心とする外部勢力の介入へ対抗の矛先を向けていった。両者は、活動する地域も目的も異なっていた。
こうして1980年代の終わりから1990年代にかけて、国家の軍隊とは別に、宗教を政治的なよりどころとしながら独自の組織と武力を持つ勢力が、中東とその周辺で存在感を強めていった。
制裁の下に置かれたイラクと、国家の外で力を持ち始めた武装勢力。この二つの流れが、2000年代の中東を大きく動かしていくことになる。
第8章 アメリカのイラク侵攻
制裁下のイラクに対し、国連は大量破壊兵器の廃棄や査察(注29)を求めた。イラクは湾岸戦争以前に化学兵器や生物兵器(注30)を保有し、核兵器につながる計画も進めていた。湾岸戦争後、その多くは査察や廃棄の対象となった。それでも、査察、制裁、湾岸地域の安全保障をめぐってイラクとアメリカの対立は続き、国内経済も大きく弱っていった。
第1節 同時多発テロ後のアメリカ
2001年、アメリカで同時多発テロが起きた。この出来事は、アメリカの安全保障政策を大きく変えた。イラクは、それまでにイランとクウェートへ戦争を仕掛け、湾岸戦争後も制裁と査察を受けていた。核兵器につながる計画を進めた過去もあった。
湾岸戦争後のイラクには、もう一つの事情があった。大量破壊兵器を失ったことを明確に示せば、長く戦ってきたイランや国内の反対勢力に軍事的な弱さを見せることにもなる。そのためイラク政権は、自国の軍事能力をどこまで失ったのかについて曖昧さを残した。
周辺への牽制として残された曖昧さは、同時多発テロ後のアメリカから見ると別の意味を持った。イラク側が弱さを隠すために残した不確実さを、アメリカ側は大量破壊兵器を再び保有する可能性として強く警戒した。アメリカは、追い詰められた独裁政権が大量破壊兵器を再び持つことを、将来の大きな危険として捉えた。
「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ(注L)を最悪の事態として警戒し、十分な確認を待つより先に軍事力によって体制そのものを取り除く。2003年のイラク侵攻には、こうした同時多発テロ後のアメリカの安全保障判断が強く表れていた。アメリカを中心とする軍がイラクへ侵攻し、サダム・フセイン政権は崩壊した。
第2節 侵攻の根拠をめぐる問題
アメリカが侵攻の大きな理由として挙げたのが、大量破壊兵器だった。しかし、政権崩壊後の調査では、侵攻前に想定されていた大量破壊兵器の備蓄は確認されなかった。湾岸戦争後に核兵器開発を再開した証拠も確認されなかった。
そのため、侵攻前の脅威評価や情報の扱いには大きな批判が向けられた。アメリカが大量破壊兵器を中心的な危険として本当に認識していたのか、あるいは体制転換を進めるために危険を強く示したのかについては、現在まで議論が続いている。アメリカには、イラクの体制を変え、新しい政治秩序を作るという構想もあった。
イラクには周辺国から警戒されるだけの過去があり、アメリカにも脅威を警戒する論理があった。フセイン政権が弱さを隠そうとして残した曖昧さと、同時多発テロ後のアメリカが最悪の可能性を先に排除しようとした判断が重なった。その論理から軍事侵攻へ進む際に使われた事実認識は、戦後に大きく崩れることになった。
第3節 国家を支えていた組織の解体
政権崩壊後、アメリカを中心とする占領当局(注31)は旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した(注32)(注M)。軍人、官僚、治安機関の人々が一度に国家の外へ押し出された。
新しい政治制度を作る一方で、行政や治安を支えていた能力も失われた。国家の統治が弱まった地域では、武装組織や民兵が活動する余地が広がった。
第4節 権力構造の転換
旧体制では、スンニ派を中心とする政治エリートが国家の中心にいた。政権崩壊後に選挙制度が導入される(注33)と、人口の多いシーア派の政党が政治の中心へ進んだ。北部ではクルド人の自治も強まった。
イラクの政治構造は、スンニ派中心の旧体制から、シーア派を中心とする新しい政治勢力とクルド人の自治地域が大きな位置を占める形へ変わった。国境そのものは残ったまま、その内側の宗派と権力の関係が大きく組み替えられた。
第5節 イランとの距離
新しいイラク政治の中心となったシーア派勢力の中には、旧政権時代に国外へ逃れ、イランとの関係を持っていた勢力もあった。イラクのシーア派すべてがイランの影響下に入ったわけではなく、それぞれ独自の政治基盤を持ち、イランとの距離にも違いがある。
それでも、長くイランの地域的な競争相手だったフセイン政権が崩壊したことで、中東の力関係はイランに有利な方向へ動いた。
第6節 武装組織の拡大
国家の統治が弱まる中で、旧政権の軍人、民兵、国外から入ってきたイスラム武装勢力などが活動を広げた。スンニ派側では、アルカイダにつながる勢力が成長し、イラクのアルカイダ(注34)と呼ばれる組織が大きな力を持った。シーア派側でも、マフディー軍など複数の武装勢力が活動した。
旧体制の崩壊によって政治的な地位を失ったスンニ派の一部では、新しい政治秩序への反発が強まった。そこへ宗派を利用する武装勢力が入り込み、シーア派とスンニ派の武装勢力による攻撃と報復が拡大した。長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった(注N)。
イラクのアルカイダにつながる勢力は、その後シリア内戦にも入り込み、後のIS、イスラム国へつながっていく。シーア派の武装勢力の一部はイランとの関係を深めた。
第7節 中東の力関係が変わる
2003年のイラク侵攻は、一つの政権を崩壊させただけで終わらなかった。シーア派勢力の政治的な上昇、イランの影響力の拡大、民兵や武装組織の成長、国境を越えて活動する武装勢力の拡大が進み、イラク国家の内部構造が変わることで、中東全体の力関係も変化した。
政権崩壊後の混乱は長期化し、武装勢力による攻撃や治安の悪化によって、多くの人々の生活や地域社会も大きな影響を受けた。国家の再建には長い時間がかかり、政治制度を作り直すことと、治安や行政を立て直すことが別の課題として残った。
この変化は、その後のシリア内戦やISの拡大にもつながっていく。
注釈一覧
(注18)
石油産業の国有化 イランは1951年、イギリス系の石油会社が持っていた施設と権益を国有化した。イギリスは国際的な販売網を通じてイラン産原油の取引を締め出し、輸出は大きく落ち込んだ。
(注19)
アメリカとイギリスが関与した政変 1953年、両国の情報機関が資金や工作を通じて関与し、国有化を進めた首相が失脚した。アメリカでは後年、政府文書の公開などを通じて、この政変への関与が明らかにされている。
(注20)
土地改革、教育の拡大、工業化、都市化 1960年代に王政が進めた一連の改革を指し、「白色革命」と呼ばれた。農地改革、女性参政権、教育の拡大などを含み、地主層の利益や宗教組織の社会的・経済的な基盤にも影響を与え、反発を招いた。
(注21)
宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 最高指導者と呼ばれる地位で、国家の基本方針に大きな権限を持ち、軍の統帥権も握る。大統領や議会は選挙で選ばれるが、立候補資格の審査などを通じて宗教的な制度による制約も働く。
(注22)
革命防衛隊 1979年、革命体制を守るために創設された軍事組織。正規軍とは別系統で、陸海空の部隊のほか、国外の勢力との連携を担う部門や、建設・エネルギーなどの関連企業群も持つ。
(注23)
1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻 内戦下のレバノンに拠点を置いていたパレスチナ武装組織の排除を目的とし、南部から進んで首都ベイルートに達した。イスラエル軍はその後も南部に長く駐留した。
(注24)
国境をめぐる対立 両国の南部で国境をなす河川の境界をめぐる対立を指す。1975年の合意でいったん収まったが、イラクは1980年にこの合意の破棄を宣言した。
(注25)
1988年、停戦が成立した 前年に国連安全保障理事会が採択した停戦要求の決議に、イランが受諾を表明したことで成立した。8年の戦闘による死者は、両国を合わせて数十万人規模と推計されている。
(注26)
長期の経済制裁 国連による包括的な制裁で、石油輸出と物資の輸入が広く制限された。後に、食料や医薬品の購入に充てる範囲で石油輸出を認める枠組みが設けられたが、国内の生活水準は大きく低下した。
(注27)
パレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された 1987年末に始まった占領地の民衆蜂起(インティファーダ)のなかで結成された。母体は、エジプトで生まれ各地に広がったイスラム社会運動の系譜に連なる。
(注28)
アフガニスタンではソ連軍との戦争 1979年のソ連軍侵攻から1989年の撤退まで続いた。抵抗勢力にはアメリカや湾岸諸国からの資金と武器が流れ、各地から義勇兵が集まった。
(注29)
大量破壊兵器の廃棄や査察 国連は湾岸戦争後に査察機関を置き、施設の調査と兵器の廃棄を進めた。しかし1998年末に査察団が現地を離れ、以後4年近く、現地での査察が行われない期間が続いた。2002年末に新しい機関のもとで再開されたが、翌年の侵攻によって終了した。
(注30)
化学兵器や生物兵器 イラクはイラン・イラク戦争中に化学兵器を実際に使用し、1988年には自国北部のクルド人が暮らす町への攻撃にも用いた。この経緯が、後の周辺国と国際社会の警戒の強さにつながった。
(注31)
アメリカを中心とする占領当局 2003年に設置された連合国暫定当局を指す。行政、治安、経済の各分野で命令を発する権限を持ち、2004年にイラク側へ主権を移譲するまで統治にあたった。
(注32)
旧支配政党の関係者を国家機構から排除した 「脱バアス化」と呼ばれる政策で、政権を担っていた政党の党員資格を基準に公職から外した。対象の範囲が広く、行政の実務を担っていた技術者や教員も含まれた。
(注33)
選挙制度が導入される 2005年1月に暫定議会の選挙、10月に憲法の国民投票、12月に本格議会の選挙が行われた。旧体制の崩壊から2年余りの間に、選挙を基礎とする制度への移行が進んだ。
(注34)
イラクのアルカイダ 2004年にアルカイダへの忠誠を表明した武装組織の通称。占領軍への攻撃に加え、シーア派の宗教施設や市場への攻撃も繰り返した。
(注I)
革命前年から抗議運動が急速に広がり 1979年の革命をどう説明するかについては、複数の見方が併存している。急速な近代化が社会の慣習や職業のあり方を壊したことを重視する説明、石油収入によって国家が社会から自立し、政治参加の回路が細ったことを重視する説明、宗教組織が持っていた全国的な人的ネットワークの役割を重視する説明などがある。いずれも一つで全体を説明するには足りず、宗教指導者、学生、商人、都市労働者という異なる立場が一時的に結びついた点に注目する見方が有力である。
(注J)
宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 宗教学者が国家の統治にあたるという構想は、シーア派の伝統のなかで自明のものだったわけではない。宗教界は世俗の権力と距離を保つべきだという立場も長く存在し、現在も有力である。イラン革命は、宗教学者自身が国家統治の中心に立つ体制を成立させた点で、大きな転換となった。イラクを含むシーア派社会でも、宗教学者の政治への関わり方について立場は一様ではない。
(注K)
イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した 開戦の要因については、比重の置き方に幅がある。イラン革命の思想が国内のシーア派に及ぶことへの警戒を重視する見方は早くから示されてきた。一方、近年の研究では、地域の主導権をめぐる競争、国境と河川の権益、そして革命直後の混乱を機会と見た判断を重視する説明が加わっている。宗派の要因を出発点に置くと、両国とも国内に相手側の宗派の住民を抱えながら国家として戦った事実が説明しにくくなる。
(注L)
「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ イラク側が能力の不確実さを意図的に残していたという理解は、政権崩壊後に確保された内部文書や関係者の証言をもとに整理されたものであり、抑止の対象として周辺国と国内の反対勢力の双方が意識されていたとされる。他方、この整理は事後の資料に基づくため、当時の意思決定を単一の合理的な戦略として描きすぎるという批判もある。またアメリカ側の判断についても、脅威認識を中心に見る説明と、中東の政治秩序を作り替える構想を中心に見る説明がある。いずれの説明が中心かについては、現在も見方が分かれている。
(注M)
旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した この二つの政策を、その後の混乱の主要な原因と見る評価は広く共有されている。武装したまま職を失った人々が反政府勢力に加わり、行政の実務を知る層が失われたという説明である。一方で、これを過大に見ることへの反論もある。旧体制の統治機構はすでに戦争と制裁で弱っており、占領統治の具体的な決定を変えても、権力配分をめぐる争いと治安の悪化は避けにくかったとする見方である。
(注N)
長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった 2003年以降のイラクで宗派が政治の前面に出た経緯については、いくつかの要因が指摘されている。人口比を反映しやすい選挙制度と、宗派や民族を単位とする役職の配分が、集団としての帰属を政治的な資源に変えた点。国家の治安機能が失われ、身の安全を地域や宗派の組織に頼らざるを得なくなった点。そして、宗派間の対立をあえて拡大させることを戦略とした武装勢力が存在した点である。宗派の違いが古くからあったことと、それが政治的な境界として作動することとは別の問題である。
1.参考資料
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- 佐藤秀信「用語解説」『イラン情勢』(2010年、平成21年度外務省委託研究、日本国際問題研究所)
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- 清水雅子「ハマース結成の理念――『イスラーム抵抗運動「ハマース」憲章』」『イスラーム世界研究』第4巻1・2号(2011年、441–475頁、京都大学イスラーム地域研究センター)
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- 外務省「イラクを巡る情勢の経緯及び現状――2003年5月1日まで」(2003年、外務省)
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- 外務省「イラク再建に向けた動き」(外務省)
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- 参議院事務局企画調整室「深刻化するイラク情勢と復興の可能性――イラク戦争と復興の過程における諸問題を踏まえて」『立法と調査』No.274(2007年10月、参議院事務局)
URL:https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20071026027.pdf
- 森山央朗「第2章 スンナ派の宗派形成とイスラーム主義の系譜」『中東地域の現状と日本の外交』(平成27年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)
URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H27_Middle_East/02_moriyama.pdf
2.深掘りするための一般書
- 桜井啓子『シーア派――台頭するイスラーム少数派』(中公新書、2006年)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121018664
- 黒田賢治『イラン現代史――イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで』(中公新書)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/B0G2RFV2LW
- ハンス・ブリクス(納家政嗣監訳、伊藤真訳)『イラク大量破壊兵器査察の真実』(明石書店、2004年)
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