カテゴリー: 世界史世界史

  • 中東のニュースを読むための地図:3話

    第9章 現在の中東

    20世紀に作られた国家の枠組みは、その後の戦争、革命、石油、外国との関係によって、それぞれ異なる形へ変化していった。現在の中東では、サウジアラビア、イラン、イスラエルが大きな位置を占めている。それぞれがそこへ至った歴史は異なる。

    その周囲では、イラクやシリアのように複数の力が交差する国家があり、国家の外で独自の政治力や軍事力を持つ勢力も活動している。

    第1節 サウジアラビア

    第一次世界大戦後、オスマン帝国の支配が消えたアラビア半島では、各地の勢力が地域の支配を争った。現在も王家として続くサウード家が勢力を広げ、1932年に現在のサウジアラビア王国が成立した。

    サウジアラビアは、アラブ文化圏に属し、スンニ派を中心とする王政国家である。国内にはメッカとメディナがあり、イスラム世界の二つの聖地を抱えている。さらに20世紀に大規模な石油開発が進むと、石油収入を使って国家を整備し、軍事や外交にも大きな力を持つようになった。

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    石油は、サウジアラビアとアメリカを結びつける大きな要素にもなった。サウジアラビアは世界市場へ石油を供給し、アメリカとの安全保障関係を深めていった。一方、地域では1979年のイラン革命以降、シーア派を中心とする革命体制となったイランが周辺への影響力を広げ、サウジアラビアとイランは湾岸地域や周辺国への影響をめぐって競争するようになった。

    近年は、イランとの競争を続けながら、両国が関係を調整する動きも進んだ。2026年にイランとアメリカ、イスラエルの軍事的な対立が湾岸地域へ広がると、石油輸送と自国の安全保障を安定させることが、サウジアラビアにとって改めて大きな課題となった。

    サウジアラビアの位置は、アラブ文化圏、スンニ派、王政、二つの聖地、石油という要素が重なって作られている。宗教上の中心地、石油輸出国、アメリカと長く関係を持つ王政国家という複数の位置を持ちながら、中東の大きな勢力の一つとなっている。

    第2節 イラン

    イランは、アラブ世界とは異なるペルシャ文化圏を基盤とし、シーア派が多数を占める国家である。16世紀のサファヴィー朝以来、ペルシャ文化圏とシーア派の結びつきが国家の大きな特徴となってきた。

    20世紀には王政のもとで近代化が進み、石油を通じてイギリスやアメリカとの関係も深まった。その体制は1979年のイラン革命によって大きく変わった。革命後にはイスラム共和国が成立し、宗教指導者を頂点とする政治体制と革命防衛隊が国家の中心に組み込まれた。

    革命後のイランは、周辺地域のシーア派共同体やイスラムを掲げる政治運動との関係を広げていった。レバノンのヒズボラ、イラクのシーア派民兵、イエメンのフーシ派などとの関係は、その代表的な例である。それぞれの組織には独自の政治基盤や目的がある。その一方で、イランからの資金、武器、訓練などの支援によって、イランは自国の国境を越えて地域の安全保障に影響を与える手段を持つようになった。この関係は、イスラエルやアメリカ、湾岸のアラブ諸国との対立とも結びついていった。

    さらに、現在のイランをめぐる大きな問題として核開発がある。イランは原子力の平和利用を自国の権利として進めてきた一方、ウラン濃縮を拡大し、高い濃縮度のウランを蓄積するようになった。そのため、アメリカやイスラエルなどは、イランが核兵器を持つ能力へ近づく可能性を強く警戒してきた。国際社会との交渉によって核開発を制限する合意も作られたが、その後制限は崩れ、イランの核開発は再び大きな争点となった。

    2024年には、イランとイスラエルが互いの領土への直接攻撃を行った。それまで周辺の武装勢力やシリアなどを介して表れることが多かった両国の対立に、国家同士の直接攻撃が加わった。2025年にはイスラエルがイランの核施設や軍事施設を攻撃し、その後アメリカもイランの核施設を直接攻撃した。

    2026年2月には、アメリカとイスラエルがイランへの大規模な軍事攻撃を始めた。その攻撃の中で最高指導者が死亡し、その後、前最高指導者の息子が新しい最高指導者に選ばれた。

    革命体制の頂点では大きな交代が起きたが、イスラム共和国と革命防衛隊を中心とする国家体制は、2026年8月時点では維持されている。

    イランもイスラエルや湾岸地域のアメリカ軍拠点などへの攻撃で応じ、戦闘は湾岸地域全体へ広がった。ホルムズ海峡を通る船舶や石油輸送も大きな影響を受け、中東の安全保障と世界のエネルギー供給が再び直接結びついた。その後、アメリカとイランの間では戦闘を止めるための合意が作られたが、その枠組みは安定せず、2026年8月現在もホルムズ海峡、経済制裁、軍事行動をめぐる交渉と緊張が続いている。

    核開発をめぐって始まった対立は、イスラエルとアメリカによるイラン本土への攻撃、イランによる地域への反撃、石油輸送をめぐる問題へ広がった。現在のイランには、ペルシャ文化圏、シーア派、革命体制、革命防衛隊、周辺の非国家勢力とのネットワーク、核開発という要素が重なっている。

    サウジアラビアが、アラブ文化圏、スンニ派、王政、石油、アメリカとの安全保障関係を基盤として地域に位置してきたのに対し、イランはペルシャ文化圏、シーア派、革命体制を基盤として独自の地域的な影響力を築いてきた。この違いが、湾岸地域だけでなく、イラク、レバノン、イエメン、イスラエルをめぐる対立にもつながっている。

    第3節 イスラエル

    古代のユダヤ人共同体は、パレスチナを中心とする地域に形成された。ローマ帝国の時代以降、ユダヤ人の離散は広がり、中東、ヨーロッパ、北アフリカなど各地に共同体が作られた。それぞれの地域で長く暮らしながら、宗教や伝統を通じてユダヤ人としてのまとまりが維持されていった。

    19世紀末になると、ユダヤ人が自らの国家を持つことを目指すシオニズムが広がり、歴史的、宗教的に結びつきの深いパレスチナへの移住が進んだ。第二次世界大戦後の1948年にイスラエルが建国されると、周辺のアラブ諸国との戦争が続いた。この時期の大きな対立は、イスラエルとアラブ諸国という国家同士の形を取っていた。

    1967年の第三次中東戦争では、イスラエルが周辺の広い地域を占領した。その後、エジプトやヨルダンはイスラエルとの和平へ進み、シナイ半島もエジプトへ返還された。国家同士の戦争が減っていく一方で、パレスチナをめぐる問題は残った。ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区、難民、入植地、パレスチナ国家をめぐる問題が続き、イスラエルとパレスチナ人との対立が前面に出るようになった。

    1990年代には、イスラエルとパレスチナ側の間で相互承認が進み、パレスチナ人による自治の枠組みが作られた。ヨルダン川西岸とガザ地区の一部では、パレスチナ側の自治機関が行政を担うようになった。その後、和平交渉は停滞し、パレスチナ側の政治も分裂した。ヨルダン川西岸ではパレスチナ自治政府が中心となり、ガザ地区ではハマスが実権を握る形が続くようになった。パレスチナをめぐる問題には、イスラエルとの関係だけでなく、パレスチナ側の政治的な分立も重なるようになった。

    北側のレバノンでは、イラン革命後に形成されたヒズボラがイスラエルへの抵抗を掲げて成長した。イランがヒズボラなどへの支援を広げるにつれて、イスラエルにとってイランとの対立は、周辺の武装勢力を通じた安全保障の問題にもなっていった。

    2023年10月、ハマスがイスラエル南部を大規模に攻撃した。イスラエルはガザ地区への大規模な軍事作戦を始め、戦闘は長期化した。2025年10月には停戦が成立し、その後はイスラエル軍の撤退、ハマスの武装解除、ガザ地区の統治をどのような形へ移すかが大きな争点となった。2026年に入ってもハマスは警察や行政組織を通じてガザ地区で影響力を維持し、新しい統治機構への移行と武装解除をめぐる交渉が続いている。停戦後も攻撃は続いており、2026年8月現在も安定した政治秩序が作られた状態には至っていない。

    レバノンでは、2024年の大規模な戦闘を経てヒズボラが軍事的な打撃を受け、その後は停戦と武装解除が大きな争点となった。2026年にはイスラエルとヒズボラの戦闘が再び拡大した後、イスラエル軍の段階的な撤退と、レバノン軍による南部の統治、ヒズボラなど非国家勢力の武装解除を結びつける枠組みが作られた。ヒズボラは武装解除を受け入れておらず、2026年8月現在もイスラエル軍の駐留とヒズボラの武装をめぐる対立が続いている。

    ハマスやヒズボラなど周辺の武装勢力との対立に加えて、2024年以降はイランとの国家間の直接攻撃も始まった。さらにアメリカもイランへの軍事行動に加わり、イスラエルの安全保障上の焦点は、周辺の武装勢力との戦闘から、イランを含む国家間の直接的な軍事対立へ広がった。

    こうしてイスラエルをめぐる対立には、パレスチナ問題、ハマスやヒズボラなどの非国家勢力、イランとの国家間対立、アメリカとの安全保障関係が重なっている。

    第4節 イラクとシリアという交差点

    イラクとシリアは、中東を形作る複数の線が重なる場所となった。イラクでは、2003年のアメリカによる侵攻でサダム・フセイン政権が崩壊した。それまで政治の中心にいたスンニ派の旧支配層に代わり、シーア派の政治勢力が大きな力を持つようになった。北部ではクルド人の自治が強まり、国内ではシーア派民兵やスンニ派の武装勢力も活動した。そこへアメリカとイランの影響も重なった。

    イラクでは、シーア派とスンニ派、アラブ人とクルド人、アメリカとイラン、国家と武装勢力という複数の関係が同じ国境の内側に存在するようになった。

    隣接するシリアでは、2011年に反政府運動が広がり、その後内戦へ進んだ。シリアではスンニ派が人口の多数を占めていた。一方、アサド政権では、スンニ派とも、シーア派の主流とも異なる独自の教義を持つアラウィー派の人々が、軍や治安機関などで大きな位置を占めていた。

    政権はイランと長く協力関係を築き、ロシアからも軍事・外交面で支援を受けてきた。一方、反政府勢力にはトルコや湾岸諸国などが関わった。北東部では、内戦とISとの戦いの中でクルド人勢力が独自の軍事組織と行政機構を作り、アメリカの支援を受けながら支配地域を広げた。イスラエルとの間にはゴラン高原をめぐる問題も残っていた。

    さらに、イラクで成長したアルカイダ系の勢力はシリア内戦にも入り込み、その一部からIS、イスラム国が拡大した。ISはイラクとシリアの国境を越えて広い地域を支配し、20世紀に引かれた国境の内側で国家の統治が弱まった場所を利用して勢力を広げた。その後、各国や現地勢力による軍事作戦によってISの支配地域は縮小した。

    シリアではさらに大きな変化が起きた。2024年末、反政府勢力が急速に攻勢を広げ、12月8日にアサド政権が崩壊した。その後、旧反政府勢力を中心とする新しい体制が作られ、国家の再編が進められた。

    アサド政権の崩壊によって、長く続いてきたシリアとイランの強い関係は大きく後退した。イランにとってシリアは、レバノンのヒズボラへつながる重要な地域でもあり、政権崩壊によってイランがシリアを通じて地域へ影響を及ぼす力も弱まった。アサド政権を支えてきたロシアの影響も以前より小さくなり、反政府勢力との関係を持ってきたトルコの存在感が相対的に大きくなった。

    一方、北東部ではクルド人勢力とそれを支援してきたアメリカの関与が残り、南西部ではイスラエルが自国の安全保障を理由に軍事的な関与を強めた。2026年には、新しい中央政府とクルド人勢力の間で統合の枠組みが作られ、北東部で独自の軍事力と行政を持ってきた勢力を、国家の軍や行政へ組み込む作業が進められている。

    シリアでは、イランとロシアの影響が強かったアサド政権の時代から、トルコ、アメリカ、イスラエル、クルド人勢力、新しい中央政府の関係を組み替える段階へ移っている。

    イラクとシリアでは、20世紀に作られた国境そのものは残りながら、その内側で宗派、民族、政権、武装勢力、外国との関係が何度も組み替えられてきた。この二つの国には、宗派、文化や民族、国家の国境に加えて、外国の介入と国家以外の政治主体が同じ場所に重なっている。

    第5節 国家以外の政治主体

    イラクやシリア、パレスチナ、レバノンでは、国家の外にありながら、独自の軍事力や政治的な影響力を持つ勢力が大きな役割を果たしている。その中には、一定の地域を実際に統治する力まで持つ勢力もある。大きく分けると、二つの形がある。

    地域を統治する力も持つ勢力

    ハマスは、パレスチナの政治勢力であると同時に武装組織を持ち、長くガザ地区の統治を担ってきた。2025年の停戦後も警察や行政組織を通じて一定の統治機能を維持しており、2026年現在は新しい統治機構への移行と武装解除をめぐる交渉の対象となっている。

    ヒズボラは、レバノンで独自の軍事力を持ちながら、政党として政治に参加し、社会サービスも担ってきた。2024年以降の戦闘で軍事的な打撃を受け、現在はレバノン政府による国家の軍事力の一元化と武装解除をめぐる交渉の中に置かれている。独自の武装を維持するヒズボラと、それを国家の管理へ戻そうとするレバノン政府との関係が、現在の大きな争点となっている。

    フーシ派は、イエメン北部の宗教共同体を基盤として成長した政治・武装勢力である。その共同体は、シーア派の中でもイランで多数を占める宗派とは異なる系統に属する。イエメン内戦の中で首都サヌアを含む広い地域を支配するようになり、その過程でイランとの関係も深まった。現在は行政や治安を担いながら、独自の軍事力を持つ勢力となっている。

    シリア北東部のクルド人勢力は、内戦とISとの戦いの中で独自の軍事組織と行政機構を形成し、アメリカの支援を受けながら一定の地域を統治してきた。2026年には新しい中央政府との統合が進み、その位置は独立した統治主体から国家制度の一部へ移りつつある。

    かつてイラクとシリアで勢力を広げたIS、イスラム国も、支配地域で税を集め、行政や治安を運営し、自らを国家として位置づけた。イラク北部のクルド人自治政府は、イラクという国家の枠内にありながら、独自の行政機構や治安組織を持つ自治地域として存在している。

    成立の経緯や法的な位置はそれぞれ異なり、その位置も固定されていない。独自の統治地域を広げる勢力もあれば、国家の制度へ組み込まれていく勢力もある。

    主として独自の軍事力を持つ勢力

    中東には、領域の統治よりも軍事活動を中心とする武装組織や民兵も存在する。パレスチナではイスラム聖戦、イラクでは複数のシーア派民兵が活動している。シリア内戦ではさまざまな反政府武装勢力が生まれ、アルカイダにつながる組織も活動してきた。

    こうした勢力と国家との関係も一様ではない。政府と戦う勢力もあれば、政府と協力する勢力、国家の制度の一部に組み込まれながら独自の武力を残す勢力もある。さらに、イランのように国外の武装勢力を支援する国家もあり、非国家勢力を通じて別の国家へ影響を及ぼす関係も作られている。

    現在の中東では、国家、統治する力まで持つ非国家勢力、主として独自の軍事力を持つ武装勢力が同じ地域の政治と安全保障に関わっている。国家の国境だけを見ても、実際に誰が地域を支配し、誰が軍事力を持ち、どの国家と結びついているのかまでは分からない。宗派、文化圏、国境という三つの線の上で、こうした国家以外の政治主体も動いている。

    おわりに

    中東の歴史をたどると、現在の複雑さは、いくつもの線が重なった結果として見えてくる。

    第一に、宗派がある。スンニ派とシーア派の違いは、イスラム共同体の指導者をめぐる問題から始まり、長い歴史の中で宗教的な意味を持つようになった。国家同士の競争や国内政治によって、その違いが強く政治化される時代も生まれた。

    第二に、文化圏がある。中東では、アラブ文化圏とペルシャ文化圏が大きな位置を占め、その北側にはトルコ系の世界も広がっている。クルド人やユダヤ人の歴史を見ると、民族や文化の分布も現在の国家の国境だけでは整理できない。

    第三に、国境がある。第一次世界大戦後、オスマン帝国の秩序が崩れ、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど現在につながる国家の枠組みが作られた。その国境は、宗派、民族、文化圏の分布と一致していない。

    こうして、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が異なる場所を通る中東の地図ができた。

    その地図の上では、石油を中心とする資源と、地域外の大国との関係が力関係を動かしてきた。さらに現在では、国家の外で活動する政治勢力や武装組織も大きな力を持っている。そのため中東の対立は、国家と国家、国家と非国家勢力、国家と結びついた非国家勢力と別の国家、非国家勢力同士という複数の形を取る。

    その下には、今も三つの線がある。宗派、文化圏、国境である。同じ宗派だから、同じ政治的な立場になるとは限らない。同じ文化圏だから、国家の利益が一致するとも限らない。一つの国家の中に、異なる宗派、民族、政治勢力が存在する場合もある。

    その上を、石油などの資源、地域外の大国との関係、国境を越えて活動する非国家勢力が動いている。

    中東のニュースを見るとき、まず出来事の主体をこの地図の上に置く。どの宗派に属するのか。どの文化圏に位置するのか。どの国境の内側で起きているのか。国家なのか、地域を統治する非国家勢力なのか、主として軍事力を持つ武装組織なのか。そして、どの国家や大国と結びついているのか。

    一つずつ分けていけば、複雑に見える中東の出来事も、どの線とどの線が交差しているのかが見えてくる。

    中東のニュースを読むために必要なのは、すべての国名や組織名を覚えることではない。

    出来事を置くための地図を持っていることである。

  • 日本人から見たイランー変化の中身ではなく、変化の主語を問うー

    Ⅰ.「宗教か世俗か」では捉えきれないもの

    イラン情勢は、宗教、独裁、デモ、アメリカ、イスラエルといった強い言葉で語られやすい。そのため議論もつい、「宗教か世俗か」「親米か反米か」「民主化か独裁か」といった分かりやすい対立に整理されがちである。

    もちろん、そうした軸も重要であり、政治の構図を捉える手がかりになる。その奥には、人びとが長い時間をかけて積み重ねてきた感覚の層がある。

    本稿で人文科学的視点を重視するのは、歴史を制度や事件の断片としてではなく、その社会を生きる人びとが積み重ねてきた長い物語として読むためである。政権が変わり、制度が変わり、登場人物が入れ替わっても、人びとは同じ社会が積み重ねてきた物語の続きを生きている。社会の深い部分にある記憶(注A)、価値観、信仰、誇り、屈辱の感覚が人びとの中に沈殿し続けるからこそ、歴史は断絶と連続の両方から読むことができる。

    ページは変わる。だが、人びとが何を侮辱と感じ、何を正統と感じ、何を守ろうとするのかという深い部分は、長い時間を通じて持続する。この視点を入れることで、革命、反発、制度の硬直、外圧への拒絶は、ばらばらの事件ではなく、人びとが生きてきた同じ歴史の別の場面として読み直すことができる。この視点が弱いと、歴史は点の集まりに崩れ、制度だけが動くか、感情だけが騒ぐかのどちらかに傾きやすい。

    イランを考えるうえでは、何を選ぶかと同時に、その変化を誰の手で選ぶのかが重要になる。この問いを置くことで、イラン革命も、現在の抗議も、体制への反発も、一つの歴史の流れとして見えてくる。本稿では、イランをめぐる問題を、宗教と世俗、西洋化と反西洋化といった対立軸を越えて、主体性と正統性(注B)の問題として考えてみたい。そこに見えてくるのは、制度の中身以上に、変化の主語そのもの(注C)が問われているという構図である。


    Ⅱ.1979年革命が拒絶したもの

    1979年のイラン革命は、しばしば「反西洋」や「近代化への反動」として語られてきた。しかし、その見方だけでは革命に集まった不満の広がりを捉えきれない。

    革命前のパフラヴィー体制(注1)は、アメリカを中心とする西側諸国との関係を深めながら、国家主導で急速な近代化を進めていた。経済、教育、産業、生活のあり方まで大きく組み替えられ、その変化は都市化や産業化を進める一方で、イラン社会が長い時間をかけて育んできた価値の配置や生活の感覚との摩擦も生んだ。さらに、アメリカとの強い結びつきは、自分たちの国がどこへ向かうのかという大きな選択が、人びとの生活や言葉から離れたところで決められているという感覚を強めていった。

    人びとの反発は、まず近代化の内容に向かった。しかしその根底には、自分たちの社会がどのように変わるのか、その方向を誰が決めるのかという問題があった。急速な変化によって生活の形が組み替えられるなかで、社会の主導権そのものが問われるようになったのである。そこから、自分たちの歴史、自分たちの言葉、自分たちの価値の配置の中から、次の秩序を選び直そうとする動きが広がっていった。

    だからこそ、革命には様々な立場の人たちが参加した。宗教勢力に加え、自由主義者、民族主義者、左派、学生、商人など、それぞれ異なる思想や利害を持つ人びとが王政に反発していた。その先に思い描く国家の姿には大きな違いがあったが、自分たちの国のあり方を自分たちの手に取り戻したいという要求が、異なる勢力を一つの革命へ集める力になった。

    革命が成功すると、問いは次の段階へ移った。取り戻した「自分たち」という主語を、誰が代表するのかという問題である。革命後の政治過程では宗教政治勢力が次第に主導権を握り、憲法制定を通じて宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み(注2)が制度化された。宗教法学者が国家統治の中心に立つこの仕組みは、シーア派の長い歴史の中でも大きな転換を伴う、新しい統治の設計だった。革命後に創設された革命防衛隊(注3)も、新しい体制を守る組織として力を持つようになった。

    こうして、外部との関係のなかで失われたと感じられていた主導権を取り戻す運動は、革命後には、誰が「イラン」を語り、誰が「革命」を語り、誰が「国民」を代表するのかという国内の問題へ移っていった。革命が取り戻そうとした「自分たち」という主語が、誰の手に集まり、どのような形で社会全体を代表するようになったのかという問いは、その後のイスラム共和国の統治と、現在の反発を考えるうえでも重要になる。


    Ⅲ.生活に染み込んだシーア派と、国家による「正しい形」

    この構図は、現在のイラン国内で噴き出している不満や抗議にも通じている。今日の反発を単純に「宗教が嫌だ」という話として理解すると、本質を外す。

    人びとの反発が強く向かっているのは、国家が唯一の正解として固定し、上から塗り固めた価値体系の方ではないか。問題の中心には、宗教そのものよりも、宗教が統治技術として硬化したことがある。

    シーア派は、人びとの生活に深く溶け込んできた。それは共同体の記憶、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた、生きられた文化の一部(注D)でもある。人びとの暮らしの中に浸透し、心の芯に触れるような層を持っている。そこでは宗教は、生活と不可分な精神の織物として人びとの日常に存在してきた。

    この点は、日本人にもある程度感覚的に理解しやすいかもしれない。日本における神社や祭礼、祖先観、年中行事の多くは、厳格な教義として信じられる以前に、生活の一部として息づいている。それは思想として切り分けられる前に、暮らしの中に編み込まれている。

    イランにおけるシーア派にも、そうした生活に染み込んだ文明的基盤としての側面がある。だからこそ、それが国家によって「正しい形」に固定され、統治の道具として管理されたとき、人びとは政治的な息苦しさに加えて、自分たちの生活世界(注E)そのものを奪われる感覚を抱く。ここに、現在の反発の深い根があるように思える。

    この問題を「宗教と世俗の対立」として処理すると、かなり見誤る。焦点は宗教の有無よりも、生活に根ざしていた価値の体系が、国家によって独占的に定義され管理されることへの拒否にある。イランで起きていることは、他者によって固定された生き方への拒否として捉えることで、その深い部分が見えてくる。


    Ⅳ.国家の変化は「発展段階」ではなく「自己更新の様式」である

    この視点から見ると、イランの問題は「西洋化するか否か」という問いを越えて広がっている。問われているのは、外部との接触の中で、自らの文明的連続性を保ちながら、次の秩序を誰の手で選び直すのかという点である。

    西洋文明を上位に置き、地域文明がそこへ追いつくという構図(注F)よりも、どの社会にも固有の歴史の厚みと価値の配置があり、それをどう再編するかという視点の方が重要になる。

    その意味で、国家の変化は「成長の段階」よりも、自己更新の様式として見る方がいい。社会は、それぞれ異なる歴史の上で、外圧や技術や市場や軍事環境の変化に応じながら、自らの過去との連続性を保ちつつ、自らを組み替えていく。そこでは、何を採用したか以上に、誰の言葉で採用したかが決定的になる。

    特にイランやシーア派においてこの感覚が強く見えるのは、長い歴史と、イスラーム世界の中で少数派であり続けてきたシーア派としての記憶と、外部世界との深い接触が重なっているからだろう。外と関わり続けてきた社会は、傷も多くなるが、自画像もまた濃くなる。自分たちは何者かという問いを、他者と向き合うたびに更新してきたからである。

    だからこそ、未来の内容そのもの以上に、その未来を誰の手で始めるのかという問題が重くなる。


    Ⅴ.生活と身体から「誰が決めるのか」という問いへ

    デモや革命の核心も、おそらくここにある。人びとは最初から、自分たちの怒りの核心を明瞭に言葉にしているわけではない。多くの場合、先にあるのは息苦しさや屈辱や違和感であり、その正体はあとからようやく言葉になる。

    生活の苦しさも、その一つである。物価が上がり、通貨の価値が落ち、仕事や将来への不安が続けば、人びとはまず目の前の生活に苦しむ。その生活苦には、国内の政策や資源配分とともに、長年にわたるアメリカを中心とした経済制裁も重なってきた。金融取引や石油輸出などへの制約は外貨の獲得や通貨の価値に影響し、輸入品の価格や物価を通じて人びとの日常生活にまで及ぶ。その一方で、体制が選んできた対外政策や国内の資源配分も、生活の条件を左右してきた。外から加えられる圧力と国内で積み重ねられた選択が、同じ物価高や通貨安の中で重なって現れるのである。

    その状態が長く続くにつれて、問いは生活の結果から、その生活を生み出している社会のあり方へ向かっていく。なぜ自分たちはこのような生活をしているのか。この苦しさは外国から加えられたものなのか、それとも体制が選んできた政策から生まれたものなのか。この国は何を優先し、その負担を誰が引き受けているのか。苦しさの原因を誰に求めるのかという判断そのものが、社会のあり方を誰の言葉で理解するのかという問題につながっていく。

    ここで、1979年革命から積み重なってきた時間も別の意味を持ち始める。革命後、革命を守るために生まれた革命防衛隊は、イラン・イラク戦争(注4)後の復興事業を足場として経済活動を広げ、その建設部門であるハタム・アル・アンビヤ建設司令部(注5)は、建設やエネルギーなどの大規模事業を担う巨大な経済主体へ成長した。また、革命後に接収された資産などを基礎に拡大したボンヤド(注6)と呼ばれる財団群も、革命や宗教の大義と最高指導者の権威を背景に多くの企業を抱え、国家の経済資源の配分に大きな影響力を持つようになった。

    1979年には、自分たちの国を自分たちの手に取り戻すという要求が、多くの人びとを革命へ向かわせた。しかし四十年以上が過ぎるなかで、その革命を守り、革命後の再分配を担った組織が、経済の中枢にも位置するようになった。生活が苦しくなるほど、人びとの目には革命の意味も違った色で映り始める。自分たちが取り戻したはずの国家で、誰が資源を配り、誰が利益を受け、誰が負担を引き受けているのか。こうして生活苦は、「この国家は誰のために動いているのか」を人びとに意識させるようになる。

    2025年末に広がった抗議も、通貨の下落や物価高など生活に直接かかわる不満から始まった。その後、抗議は各地へ広がり、体制そのものへの批判を含む動きへ発展した。これに対して体制側は、治安部隊による発砲や大規模な逮捕などによって抗議を抑え込み、インターネットも広範に遮断した。生活の苦しさから始まった抗議は、やがて国のあり方や、人びとの異議をどう扱うのかを争う動きへ変わっていった。

    これとは異なる形で、2022年には、女性の服装規制をめぐる問題から大きな抗議が広がった。そこには服装の自由への要求とともに、国家が個人の身体や生活の細部にまで、宗教的に「正しい」と定めた形を求めることへの拒否も含まれていたように見える。信仰は人びとの暮らしの中に長く存在してきた。しかし、その信仰をどのように表すべきかまで国家が一つの形に固定すれば、問いは宗教の有無から、宗教を誰が定義するのかへ移っていく。なぜ身体の見え方の細部にまで、国家が正解を定めなければならないのか。服装をめぐる規制は、その問いがもっとも身近な身体の上に現れたものでもある。

    生活苦と服装規制は、表面上はまったく異なる問題である。一方では、制裁と国内の政策や資源配分が重なって日々の生活に及び、もう一方では国家による宗教の定義が身体の見え方の細部にまで及ぶ。二つに共通するのは、自分たちの生活を誰が決め、自分たちの生き方を誰が定義するのかという問題である。

    実際の抗議には、経済への不満、汚職への怒り、女性の権利、宗教強制への反発など、様々な要求がある。参加する人びとの立場も、望んでいる将来も一つではない。それでも、それぞれの苦しさや違和感を振り返っていくなかで、これ以上、自分たちの生を他者に定義されたくないという感覚が姿を現すことがある。

    人間は、自分の怒りの本質を最初から完全には理解していない。社会もまた同じである。生活や身体に現れた個々の不満が積み重なり、それまで当然のものとして背景に退いていた国家と人びとの関係が問い直される。そのとき初めて、「自分たちはこの社会の主語なのか」という問いが言葉を持ち始める。イランの抗議行動には、その流れが繰り返し現れているように思える。


    Ⅵ.外圧は空白を作れても、正統性までは作れない

    抗議とその抑え込みによって国内が揺れるなか、2026年、この問題は仮定ではなく現実のものになった。核開発や対イスラエル政策をめぐる対立を背景に、2月末からアメリカとイスラエルによる軍事攻撃が始まり、最高指導者アリー・ハメネイ(注7)も死亡した。外部から加えられた力は、イランの軍事力や体制中枢そのものを大きく揺さぶるところまで進んだ。

    それに対して体制側が選んだのは、強い連続性だった。攻撃開始から約一週間後、後継の最高指導者には息子のモジュタバ・ハメネイ(注8)が選ばれた。革命防衛隊をはじめとする既存の体制を支える組織も、大きな役割を担い続けている。制度上は世襲制ではないが、父から息子への継承は強い世襲色を帯びており、外から体制そのものを揺さぶられた局面で、既存秩序を維持する意思を強く示すものとなった。

    ここで、イランの人びとは難しい位置に置かれることになる。外部からは、軍事力によって現在の体制を変える力が加えられる。一方、国内では、その外圧に対抗するかたちで体制の維持が優先される。その二つの大きな力が向き合うほど、本来その先の社会を生きる人びと自身が、次のイランをどうするのかを選ぶ場面は後ろへ押しやられていく。

    外から体制を壊すことと、イラン社会が新しい秩序を自ら選ぶことは同じではない。同時に、「外国から国を守る」という理由によって、国内の一つの勢力が社会全体の主語を独占することも、その社会自身の選択とは区別して考える必要がある。

    ここに、外圧が持つ限界がある。軍事力は指導者を倒し、施設を破壊し、既存の秩序を弱めることができる。それでも、そのあとに何をつくるのか、誰を自分たちの代表として認めるのか、その秩序を自分たちのものとして引き受けられるのかという問題までは決められない。外圧は空白を作ることはできても、その空白を正統性で満たすことはできない。

    正統性は、その社会の内側で、その社会を生きる人びとの言葉によって作られていく。制度がどれほど合理的であっても、それが誰の顔で、誰の言葉で、誰の名において現れるのかによって、人びとの受け止め方は変わる。


    Ⅶ.結語:問うもの

    「次の時代を誰の手で始めるのか」である。

    イランが求めているものは、西洋化でも反西洋化でもないのだろう。また、単純な意味での世俗化でも、神権体制の強化でもないのだろう。

    問われているのは、自らの文明的連続性を失わずに、次の秩序を自ら選び直せるかどうかである。つまり核心にあるのは、制度の名称ではなく、変化の主語なのである。

    外から体制を変える力が加わり、内側では体制を維持する力が強まる現在だからこそ、この問いは以前よりも重くなっている。

    この社会は、次の時代を誰の手で始めるのか。

    イランをめぐる問いは、結局この一点に集約されるように思える。そしてその問いは、イランだけのものではない。外圧の中で社会を組み替えようとした多くの国や地域に通じる、人文科学的にきわめて重要な論点でもある。

    ※本稿は2026年8月時点の状況をもとにしています。


    この論点を日本近代に移すと、また別の輪郭が見えてくる。補論では、明治維新、朝鮮併合、そしてGHQ占領政策をこの視点から考える。


    注釈一覧

    (注1)

    パフラヴィー体制 1925年から1979年まで続いたイランの王政。レザー・シャーが創始し、その子モハンマド・レザー・シャーの代に革命によって終わりを迎えた。

    (注2)

    宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み 1979年憲法で制度化された、イラン独自の統治の枠組み。宗教法学者による後見・統治を意味する語「ヴェラーヤテ・ファギーフ」で呼ばれ、最高指導者がこの仕組みの頂点に立つ。

    (注3)

    革命防衛隊 1979年の革命直後に、新体制を守る組織として創設された軍事組織。通常の国軍とは別に置かれ、のちに経済分野にも大きく活動を広げてきた。

    (注4)

    イラン・イラク戦争 1980年から1988年まで続いたイランとイラクの戦争。1979年の革命から間もない時期に始まり、8年間にわたって続いた。

    (注5)

    ハタム・アル・アンビヤ建設司令部 革命防衛隊の傘下にある建設部門。イラン・イラク戦争後の復興事業を足がかりに、建設やエネルギーなど幅広い分野へ事業を拡大してきた。

    (注6)

    ボンヤド 「財団」を意味する語。革命後に接収された旧体制関係者の資産などを基礎に設立され、宗教的・社会福祉的な大義を掲げながら、多様な企業や事業を抱える組織群を指す。

    (注7)

    アリー・ハメネイ 1989年から2026年までイランの最高指導者を務めた人物。ホメイニ師の後継として、革命体制の中心的な権威を担ってきた。

    (注8)

    モジュタバ・ハメネイ アリー・ハメネイの子。宗教指導者として活動し、革命防衛隊との強い関係を持つとされる。2026年3月、最高指導者を選出する専門家会議によって、父の後継となる最高指導者に選ばれた。

    (注A)

    社会の深い部分にある記憶 社会の記憶を、個人の頭の中に保存された過去としてではなく、人びとの関係や制度、儀礼、物語を通じて共有されるものとして捉える研究は、モーリス・アルヴァックスの「集合的記憶」の議論以来、社会学や歴史学で蓄積されてきた。集合的記憶は過去を保存するだけでなく、現在の社会が過去をどのように理解し、そこから自分たちをどう位置づけるかにも関わる。本稿が、誇りや屈辱、信仰、歴史の記憶を現在の政治的選択とつながるものとして見る視点も、この議論と接点を持つ。

    (注B)

    正統性 支配が強制力だけでなく、支配される側からその秩序を正当なものとして認められることによって成り立つという視点は、マックス・ヴェーバー以来、政治社会学の重要な論点であり続けている。その後も、制度が法的に成立していることと、人びとがその秩序を自らのものとして承認することは区別して論じられてきた。本稿でいう「誰の言葉で語られるか」「誰を代表として認めるか」という問いも、この正統性の問題と重なる。

    (注C)

    変化の主語 近代以降の自己決定をめぐる議論では、どのような制度を選ぶかだけでなく、その政治的決定を誰が行うのかが重要な問題とされてきた。とりわけ植民地支配からの独立や革命をめぐる議論では、外部から与えられた制度と、社会の内部から形成された政治秩序は、同じ制度内容であっても異なる意味を持つ。本稿で「変化の中身」より「変化の主語」を問うのは、この自己決定と政治的主体をめぐる問題意識と重なる。

    (注D)

    生きられた文化の一部 宗教研究では、宗教を教典や聖職者、制度だけから捉えるのではなく、人びとが日常生活のなかで実際にどのように信仰を経験し、儀礼や家族関係、身体感覚、記憶と結びつけているかを見る「生きられた宗教」という視点が発展してきた。ロバート・オーシーやメレディス・マクガイアらの研究は、この研究潮流の代表例として挙げられる。本稿でシーア派を教義だけでなく、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた生活文化として見る視点も、この研究と接点を持つ。

    (注E)

    生活世界 「生活世界」は、人びとが日常生活のなかで共有している常識、文化、慣習、意味のまとまりを捉えるために使われてきた概念である。ユルゲン・ハーバーマスは、人びとが共有された意味を通じて関係を築く領域として生活世界を捉え、行政や市場などのシステムの論理がそこへ過度に入り込む問題を論じた。本稿でいう、生活に根ざした信仰や価値が国家によって一つの「正しい形」に固定されることへの違和感も、制度と生活世界の関係をめぐる問題として読むことができる。

    (注F)

    地域文明がそこへ追いつくという構図 第二次世界大戦後の近代化論では、工業化や都市化、教育の普及などを通じて、諸社会が西欧型の近代へ近づいていくという見方が大きな影響力を持った。これに対し、S・N・アイゼンシュタットらの「複数近代性」は、近代化によって社会の違いが消えるのではなく、それぞれの宗教、歴史、政治文化との組み合わせによって異なる近代が形成されると考える。本稿が「何を取り入れたか」だけでなく「誰の言葉で取り入れたか」を重視する視点も、この問題意識と接点を持つ。

  • 中東のニュースを読むための地図:2話


    第6章 イラン革命

    20世紀のイランでは、王政のもとで近代化が進められた。石油は国家に大きな収入をもたらし、イランはイギリスやアメリカとの関係を深めていった。1951年には石油産業の国有化(注18)が進められ、イギリスとの対立が強まった。1953年にはアメリカとイギリスが関与した政変(注19)が起こり、その後王政の力が強まった。

    王政は西側諸国との関係を深めながら、土地改革、教育の拡大、工業化、都市化(注20)を進めた。石油収入もその変化を支えた。一方、政治権力は王政へ集中し、軍や治安機関が体制を支えた。急速な社会変化の中で、宗教指導者、学生、商人、知識人、都市労働者など、さまざまな層に不満が広がった。経済発展の利益にも偏りがあり、社会の変化そのものが大きな負担となる人々もいた。

    革命前年から抗議運動が急速に広がり(注I)、1979年に王政は崩壊し、イスラム共和国が成立した。新しい国家では、宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ(注21)(注J)、革命によって生まれた新しい組織も国家の中に組み込まれた。その一つが革命防衛隊(注22)だった。

    ペルシャ文化圏とシーア派の結びつきの上に革命体制が成立し、現在のイランにつながる、ペルシャ文化圏 × シーア派 × 革命体制という組み合わせが形作られた。

    革命後のイランは、周辺地域のシーア派共同体やイスラムを掲げる政治運動との関係を広げていった。その動きが具体的な形を取った場所の一つが、内戦の続いていたレバノンだった。1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻(注23)すると、イランの革命防衛隊はレバノンのシーア派勢力への支援や訓練に関わった。そこから形成されていった組織の一つが、後のヒズボラである。

    ヒズボラはレバノンのシーア派社会を基盤とし、イラン革命の思想的な影響とイランからの支援を受けながら、イスラエルへの抵抗を掲げて成長していった。イラン革命によって生まれた政治体制と革命防衛隊は、こうして国境を越えた政治勢力との関係を築いていった。

    第7章 イラン・イラク戦争

    1979年のイラン革命は、周辺国にも大きな衝撃を与えた。その影響を強く警戒した国の一つがイラクだった。イラクではシーア派が人口の大きな割合を占めていたが、国家や政治の中心ではスンニ派を基盤とする政権が強い力を持っていた。イラン革命がイラク国内のシーア派にも影響を与える可能性は、政権にとって大きな不安となった。

    両国の間には国境をめぐる対立(注24)や、地域の主導権をめぐる競争もあった。さらに革命直後のイランでは、旧体制の軍や国家機構が大きく揺れていた。イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した(注K)

    1980年、イラク軍がイランへ侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。イランは侵攻を押し返したが、その後も戦争は終わらず、約8年間にわたる消耗戦へ進んだ。国境地帯では激しい戦闘が続き、都市への攻撃、ミサイル攻撃、石油輸送をめぐる攻撃なども行われた。外国から攻撃を受けたことで、革命によって生まれた新しい体制と国家防衛が結びつき、その中で革命防衛隊も大きな軍事組織へ成長した。

    1988年、停戦が成立した(注25)。国境は大きく変わらなかったが、両国には多数の犠牲と大きな経済的負担が残った。イラクには、戦争を支えるために湾岸諸国から借りた多額の債務も残った。戦争後、イラクは復興のために大きな石油収入を必要としていた。

    一方、クウェートなど湾岸の産油国が高い生産量を維持すると、石油価格は低い水準にとどまった。イラクはこれを、自国の復興を妨げる問題として受け止めた。クウェートとの間には、債務、石油生産、国境や油田をめぐる対立も重なり、1990年、イラクはクウェートへ侵攻した。

    これに対してアメリカを中心とする多国籍軍が軍事介入し、1991年にイラク軍はクウェートから撤退した。湾岸戦争の敗北後、イラクには長期の経済制裁(注26)が課された。

    同じころ、中東の別の場所では、国家の外で活動する政治・武装組織も形を取り始めていた。パレスチナでは、イスラエルの占領が長期化する中で、住民による抗議や抵抗が広がり、その中からパレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された(注27)。それまでパレスチナの民族運動では世俗的な勢力が大きな位置を占めていたが、イスラムを政治や社会の中心に置きながら、イスラエルの占領と国家に対抗する勢力も力を持つようになった。

    同じ時期、アフガニスタンではソ連軍との戦争(注28)が続き、国外からもイスラムを掲げる戦闘員が集まっていた。長い戦争の中で、国籍の異なる戦闘員や支援者を結ぶ人的なつながりが作られ、その中からアルカイダが形成された。

    ハマスはパレスチナから生まれ、イスラエルの占領に対抗した。一方アルカイダは、アフガニスタン戦争から生まれ、湾岸戦争でアラビア半島に外国の軍が展開したことなどを契機として、アメリカを中心とする外部勢力の介入へ対抗の矛先を向けていった。両者は、活動する地域も目的も異なっていた。

    こうして1980年代の終わりから1990年代にかけて、国家の軍隊とは別に、宗教を政治的なよりどころとしながら独自の組織と武力を持つ勢力が、中東とその周辺で存在感を強めていった。

    制裁の下に置かれたイラクと、国家の外で力を持ち始めた武装勢力。この二つの流れが、2000年代の中東を大きく動かしていくことになる。

    第8章 アメリカのイラク侵攻

    制裁下のイラクに対し、国連は大量破壊兵器の廃棄や査察(注29)を求めた。イラクは湾岸戦争以前に化学兵器や生物兵器(注30)を保有し、核兵器につながる計画も進めていた。湾岸戦争後、その多くは査察や廃棄の対象となった。それでも、査察、制裁、湾岸地域の安全保障をめぐってイラクとアメリカの対立は続き、国内経済も大きく弱っていった。

    第1節 同時多発テロ後のアメリカ

    2001年、アメリカで同時多発テロが起きた。この出来事は、アメリカの安全保障政策を大きく変えた。イラクは、それまでにイランとクウェートへ戦争を仕掛け、湾岸戦争後も制裁と査察を受けていた。核兵器につながる計画を進めた過去もあった。

    湾岸戦争後のイラクには、もう一つの事情があった。大量破壊兵器を失ったことを明確に示せば、長く戦ってきたイランや国内の反対勢力に軍事的な弱さを見せることにもなる。そのためイラク政権は、自国の軍事能力をどこまで失ったのかについて曖昧さを残した。

    周辺への牽制として残された曖昧さは、同時多発テロ後のアメリカから見ると別の意味を持った。イラク側が弱さを隠すために残した不確実さを、アメリカ側は大量破壊兵器を再び保有する可能性として強く警戒した。アメリカは、追い詰められた独裁政権が大量破壊兵器を再び持つことを、将来の大きな危険として捉えた。

    「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ(注L)を最悪の事態として警戒し、十分な確認を待つより先に軍事力によって体制そのものを取り除く。2003年のイラク侵攻には、こうした同時多発テロ後のアメリカの安全保障判断が強く表れていた。アメリカを中心とする軍がイラクへ侵攻し、サダム・フセイン政権は崩壊した。

    第2節 侵攻の根拠をめぐる問題

    アメリカが侵攻の大きな理由として挙げたのが、大量破壊兵器だった。しかし、政権崩壊後の調査では、侵攻前に想定されていた大量破壊兵器の備蓄は確認されなかった。湾岸戦争後に核兵器開発を再開した証拠も確認されなかった。

    そのため、侵攻前の脅威評価や情報の扱いには大きな批判が向けられた。アメリカが大量破壊兵器を中心的な危険として本当に認識していたのか、あるいは体制転換を進めるために危険を強く示したのかについては、現在まで議論が続いている。アメリカには、イラクの体制を変え、新しい政治秩序を作るという構想もあった。

    イラクには周辺国から警戒されるだけの過去があり、アメリカにも脅威を警戒する論理があった。フセイン政権が弱さを隠そうとして残した曖昧さと、同時多発テロ後のアメリカが最悪の可能性を先に排除しようとした判断が重なった。その論理から軍事侵攻へ進む際に使われた事実認識は、戦後に大きく崩れることになった。

    第3節 国家を支えていた組織の解体

    政権崩壊後、アメリカを中心とする占領当局(注31)は旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した(注32)(注M)。軍人、官僚、治安機関の人々が一度に国家の外へ押し出された。

    新しい政治制度を作る一方で、行政や治安を支えていた能力も失われた。国家の統治が弱まった地域では、武装組織や民兵が活動する余地が広がった。

    第4節 権力構造の転換

    旧体制では、スンニ派を中心とする政治エリートが国家の中心にいた。政権崩壊後に選挙制度が導入される(注33)と、人口の多いシーア派の政党が政治の中心へ進んだ。北部ではクルド人の自治も強まった。

    イラクの政治構造は、スンニ派中心の旧体制から、シーア派を中心とする新しい政治勢力とクルド人の自治地域が大きな位置を占める形へ変わった。国境そのものは残ったまま、その内側の宗派と権力の関係が大きく組み替えられた。

    第5節 イランとの距離

    新しいイラク政治の中心となったシーア派勢力の中には、旧政権時代に国外へ逃れ、イランとの関係を持っていた勢力もあった。イラクのシーア派すべてがイランの影響下に入ったわけではなく、それぞれ独自の政治基盤を持ち、イランとの距離にも違いがある。

    それでも、長くイランの地域的な競争相手だったフセイン政権が崩壊したことで、中東の力関係はイランに有利な方向へ動いた。

    第6節 武装組織の拡大

    国家の統治が弱まる中で、旧政権の軍人、民兵、国外から入ってきたイスラム武装勢力などが活動を広げた。スンニ派側では、アルカイダにつながる勢力が成長し、イラクのアルカイダ(注34)と呼ばれる組織が大きな力を持った。シーア派側でも、マフディー軍など複数の武装勢力が活動した。

    旧体制の崩壊によって政治的な地位を失ったスンニ派の一部では、新しい政治秩序への反発が強まった。そこへ宗派を利用する武装勢力が入り込み、シーア派とスンニ派の武装勢力による攻撃と報復が拡大した。長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった(注N)

    イラクのアルカイダにつながる勢力は、その後シリア内戦にも入り込み、後のIS、イスラム国へつながっていく。シーア派の武装勢力の一部はイランとの関係を深めた。

    第7節 中東の力関係が変わる

    2003年のイラク侵攻は、一つの政権を崩壊させただけで終わらなかった。シーア派勢力の政治的な上昇、イランの影響力の拡大、民兵や武装組織の成長、国境を越えて活動する武装勢力の拡大が進み、イラク国家の内部構造が変わることで、中東全体の力関係も変化した。

    政権崩壊後の混乱は長期化し、武装勢力による攻撃や治安の悪化によって、多くの人々の生活や地域社会も大きな影響を受けた。国家の再建には長い時間がかかり、政治制度を作り直すことと、治安や行政を立て直すことが別の課題として残った。

    この変化は、その後のシリア内戦やISの拡大にもつながっていく。



    注釈一覧

    (注18)

    石油産業の国有化 イランは1951年、イギリス系の石油会社が持っていた施設と権益を国有化した。イギリスは国際的な販売網を通じてイラン産原油の取引を締め出し、輸出は大きく落ち込んだ。

    (注19)

    アメリカとイギリスが関与した政変 1953年、両国の情報機関が資金や工作を通じて関与し、国有化を進めた首相が失脚した。アメリカでは後年、政府文書の公開などを通じて、この政変への関与が明らかにされている。

    (注20)

    土地改革、教育の拡大、工業化、都市化 1960年代に王政が進めた一連の改革を指し、「白色革命」と呼ばれた。農地改革、女性参政権、教育の拡大などを含み、地主層の利益や宗教組織の社会的・経済的な基盤にも影響を与え、反発を招いた。

    (注21)

    宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 最高指導者と呼ばれる地位で、国家の基本方針に大きな権限を持ち、軍の統帥権も握る。大統領や議会は選挙で選ばれるが、立候補資格の審査などを通じて宗教的な制度による制約も働く。

    (注22)

    革命防衛隊 1979年、革命体制を守るために創設された軍事組織。正規軍とは別系統で、陸海空の部隊のほか、国外の勢力との連携を担う部門や、建設・エネルギーなどの関連企業群も持つ。

    (注23)

    1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻 内戦下のレバノンに拠点を置いていたパレスチナ武装組織の排除を目的とし、南部から進んで首都ベイルートに達した。イスラエル軍はその後も南部に長く駐留した。

    (注24)

    国境をめぐる対立 両国の南部で国境をなす河川の境界をめぐる対立を指す。1975年の合意でいったん収まったが、イラクは1980年にこの合意の破棄を宣言した。

    (注25)

    1988年、停戦が成立した 前年に国連安全保障理事会が採択した停戦要求の決議に、イランが受諾を表明したことで成立した。8年の戦闘による死者は、両国を合わせて数十万人規模と推計されている。

    (注26)

    長期の経済制裁 国連による包括的な制裁で、石油輸出と物資の輸入が広く制限された。後に、食料や医薬品の購入に充てる範囲で石油輸出を認める枠組みが設けられたが、国内の生活水準は大きく低下した。

    (注27)

    パレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された 1987年末に始まった占領地の民衆蜂起(インティファーダ)のなかで結成された。母体は、エジプトで生まれ各地に広がったイスラム社会運動の系譜に連なる。

    (注28)

    アフガニスタンではソ連軍との戦争 1979年のソ連軍侵攻から1989年の撤退まで続いた。抵抗勢力にはアメリカや湾岸諸国からの資金と武器が流れ、各地から義勇兵が集まった。

    (注29)

    大量破壊兵器の廃棄や査察 国連は湾岸戦争後に査察機関を置き、施設の調査と兵器の廃棄を進めた。しかし1998年末に査察団が現地を離れ、以後4年近く、現地での査察が行われない期間が続いた。2002年末に新しい機関のもとで再開されたが、翌年の侵攻によって終了した。

    (注30)

    化学兵器や生物兵器 イラクはイラン・イラク戦争中に化学兵器を実際に使用し、1988年には自国北部のクルド人が暮らす町への攻撃にも用いた。この経緯が、後の周辺国と国際社会の警戒の強さにつながった。

    (注31)

    アメリカを中心とする占領当局 2003年に設置された連合国暫定当局を指す。行政、治安、経済の各分野で命令を発する権限を持ち、2004年にイラク側へ主権を移譲するまで統治にあたった。

    (注32)

    旧支配政党の関係者を国家機構から排除した 「脱バアス化」と呼ばれる政策で、政権を担っていた政党の党員資格を基準に公職から外した。対象の範囲が広く、行政の実務を担っていた技術者や教員も含まれた。

    (注33)

    選挙制度が導入される 2005年1月に暫定議会の選挙、10月に憲法の国民投票、12月に本格議会の選挙が行われた。旧体制の崩壊から2年余りの間に、選挙を基礎とする制度への移行が進んだ。

    (注34)

    イラクのアルカイダ 2004年にアルカイダへの忠誠を表明した武装組織の通称。占領軍への攻撃に加え、シーア派の宗教施設や市場への攻撃も繰り返した。

    (注I)

    革命前年から抗議運動が急速に広がり 1979年の革命をどう説明するかについては、複数の見方が併存している。急速な近代化が社会の慣習や職業のあり方を壊したことを重視する説明、石油収入によって国家が社会から自立し、政治参加の回路が細ったことを重視する説明、宗教組織が持っていた全国的な人的ネットワークの役割を重視する説明などがある。いずれも一つで全体を説明するには足りず、宗教指導者、学生、商人、都市労働者という異なる立場が一時的に結びついた点に注目する見方が有力である。

    (注J)

    宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 宗教学者が国家の統治にあたるという構想は、シーア派の伝統のなかで自明のものだったわけではない。宗教界は世俗の権力と距離を保つべきだという立場も長く存在し、現在も有力である。イラン革命は、宗教学者自身が国家統治の中心に立つ体制を成立させた点で、大きな転換となった。イラクを含むシーア派社会でも、宗教学者の政治への関わり方について立場は一様ではない。

    (注K)

    イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した 開戦の要因については、比重の置き方に幅がある。イラン革命の思想が国内のシーア派に及ぶことへの警戒を重視する見方は早くから示されてきた。一方、近年の研究では、地域の主導権をめぐる競争、国境と河川の権益、そして革命直後の混乱を機会と見た判断を重視する説明が加わっている。宗派の要因を出発点に置くと、両国とも国内に相手側の宗派の住民を抱えながら国家として戦った事実が説明しにくくなる。

    (注L)

    「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ イラク側が能力の不確実さを意図的に残していたという理解は、政権崩壊後に確保された内部文書や関係者の証言をもとに整理されたものであり、抑止の対象として周辺国と国内の反対勢力の双方が意識されていたとされる。他方、この整理は事後の資料に基づくため、当時の意思決定を単一の合理的な戦略として描きすぎるという批判もある。またアメリカ側の判断についても、脅威認識を中心に見る説明と、中東の政治秩序を作り替える構想を中心に見る説明がある。いずれの説明が中心かについては、現在も見方が分かれている。

    (注M)

    旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した この二つの政策を、その後の混乱の主要な原因と見る評価は広く共有されている。武装したまま職を失った人々が反政府勢力に加わり、行政の実務を知る層が失われたという説明である。一方で、これを過大に見ることへの反論もある。旧体制の統治機構はすでに戦争と制裁で弱っており、占領統治の具体的な決定を変えても、権力配分をめぐる争いと治安の悪化は避けにくかったとする見方である。

    (注N)

    長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった 2003年以降のイラクで宗派が政治の前面に出た経緯については、いくつかの要因が指摘されている。人口比を反映しやすい選挙制度と、宗派や民族を単位とする役職の配分が、集団としての帰属を政治的な資源に変えた点。国家の治安機能が失われ、身の安全を地域や宗派の組織に頼らざるを得なくなった点。そして、宗派間の対立をあえて拡大させることを戦略とした武装勢力が存在した点である。宗派の違いが古くからあったことと、それが政治的な境界として作動することとは別の問題である。

    1.参考資料

    1.山岸智子「イラン・イスラーム革命とホメイニー師」(明治大学)

    URL:http://www.isc.meiji.ac.jp/~tomyam/topics/topics07.html

    1. 日本国際問題研究所「第2章 イラン革命、在テヘラン米国大使館人質事件、イラン・イラク戦争」『アフガニスタン、イランの安全保障・危機管理』(2006年、平成17年度外務省委託研究、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h17_afghanistan/h17_afgahanistan04_Chapter2.pdf

    1. 日本経済新聞「CIA、53年のイラン政変を主導 米で関与認める公文書初公開」(2013年、日本経済新聞)

    URL:https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM20017_Q3A820C1000000/

    1. 佐藤秀信「用語解説」『イラン情勢』(2010年、平成21年度外務省委託研究、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h21_iran/11_yougo.pdf

    1. 清水雅子「ハマース結成の理念――『イスラーム抵抗運動「ハマース」憲章』」『イスラーム世界研究』第4巻1・2号(2011年、441–475頁、京都大学イスラーム地域研究センター)

    URL:https://kias.asafas.kyoto-u.ac.jp/kyodo/pdf/kb4_1and2/27shimizu.pdf

    1. 外務省「イラクを巡る情勢の経緯及び現状――2003年5月1日まで」(2003年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/98/kei.html

    1. 外務省「イラク情勢と日本の対応」(外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/98/taio.html

    1. 国際連合広報センター「イラク」(国際連合広報センター)

    URL:https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/iraq/

    1. 日本国際問題研究所「国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)」(日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/report/keyword/key_0212_yamada2.html

    1. 外務省「外務報道官談話――イラク問題に関する国連査察団による安保理報告について」(2003年1月28日、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/15/dga_0128b.html

    1. 防衛研究所「イラク戦争と情報操作」『防衛研究所ニュース』2006年12月号(2006年、防衛省防衛研究所)

    URL:https://www.nids.mod.go.jp/publication/briefing/pdf/2006/200612.pdf

    1. 防衛省「第3節 米国などによるイラクに対する軍事作戦」『日本の防衛――防衛白書』平成15年版(2003年、防衛省)

    URL:http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2003/2003/html/15113000.html

    1. 外務省「イラク再建に向けた動き」(外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/saiken.html

    1. 参議院事務局企画調整室「深刻化するイラク情勢と復興の可能性――イラク戦争と復興の過程における諸問題を踏まえて」『立法と調査』No.274(2007年10月、参議院事務局)

    URL:https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20071026027.pdf

    1. 森山央朗「第2章 スンナ派の宗派形成とイスラーム主義の系譜」『中東地域の現状と日本の外交』(平成27年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H27_Middle_East/02_moriyama.pdf

    2.深掘りするための一般書

    1. 桜井啓子『シーア派――台頭するイスラーム少数派』(中公新書、2006年)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121018664

    1. 黒田賢治『イラン現代史――イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで』(中公新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/B0G2RFV2LW

    1. ハンス・ブリクス(納家政嗣監訳、伊藤真訳)『イラク大量破壊兵器査察の真実』(明石書店、2004年)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4887243685