― 宗派・文化圏・国境から見る中東の歴史 ―
中東(注1)のニュースには、宗教、民族、国家、戦争、石油、大国の介入、武装組織など、多くの要素が同時に登場する。一つひとつの出来事は理解できても、それぞれがどのようにつながっているのかは見えにくい。
その関係を整理するとき、三つの線を重ねると中東の地図が見えやすくなる。
宗派
文化圏
20世紀に引かれた国境
この三つの線は、同じ場所を通っているわけではない。
第0章 中東のニュースを読むための三つの軸
この記事では、歴史的、文化的な意味での中東を中心に扱う。そのうえで、中東の政治や安全保障と強く関わる周辺の国や地域も必要に応じて登場する。現在の情勢については、2026年8月時点までを扱う。
軸1 宗派
イスラム教徒の多数を占めるのがスンニ派である。アラブ諸国の多くやトルコでは、スンニ派が多数を占めている。シーア派はイスラム世界全体では少数派だが、イランやイラクでは大きな位置を占める。
この違いの起点は、イスラム教の預言者ムハンマドの死後、誰がイスラム共同体を率いるのかという問題にあった。共同体の合意によって指導者を選ぶ流れと、ムハンマドの一族に特別な正統性を認める流れが分かれ、後のスンニ派とシーア派につながっていった。その違いは長い歴史の中で宗教的な意味も持つようになる。
スンニ派とシーア派は、イスラム教の中で特に大きな二つのグループとなっている。他にもイスラム教には、さまざまな宗派や共同体(注2)がある。
スンニ派とシーア派は長いあいだ同じ地域で暮らしてきた。宗派の違いがどれほど政治的な意味を持つかは、国家同士の関係や国内政治によって変化する。現在の中東を見るとき、宗派は一つの重要な線となっている。
軸2 文化圏
中東には、宗派とは別に大きな文化圏が存在する。まず押さえておきたいのが、アラブ文化圏とペルシャ文化圏である。
アラブ文化圏は、アラビア半島、シリア、イラク、エジプトなどに広がっている。アラビア語を中心とし、共通する歴史や文化を持つ地域である。ペルシャ文化圏は、現在のイランを中心として広がってきた。その歴史的な影響は、アフガニスタン、中央アジア、コーカサスなどにも及んでいる。現在の中東の中では、イランがこのペルシャ文化圏を基盤とする大きな国家となっている。
このほか、中東の北側にはトルコを中心とするトルコ系の世界も広がっている。トルコはペルシャ文化やアラブ・イスラム文化の影響を受けながら、独自の言語と歴史を持つ地域を形成してきた。
文化圏と民族も完全に一致するわけではない。クルド人は、言語や文化的なルーツではペルシャ文化圏、つまりイラン系の世界(注3)に非常に近い。宗派ではスンニ派が多数を占め、現在はトルコ、イラク、イラン、シリアにまたがって暮らしている。ユダヤ人とアラブ人も、言語的に近い文化的な系統(注4)を持ち、宗教の歴史でも共通する部分がある。ユダヤ人の離散はローマ帝国の時代以降に広がり、中東各地のユダヤ人共同体は、アラブ社会やペルシャ社会の中で暮らしながら、ユダヤ教を中心とする独自の文化を維持してきた。
宗派、文化、民族は、一つの線にはならない。
軸3 国境
現在の中東の国境の多くは、20世紀に形作られた。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリスやフランスが中東の新しい政治秩序に強く関わった。その中で、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど、現在につながる国家の枠組みが作られていった。
この国境は、宗派、民族、文化圏の分布と必ずしも一致していない。イラクでは、北部にクルド人、中部にスンニ派アラブ人、南部にシーア派アラブ人が多く暮らしている。クルド人が暮らす地域も、トルコ、イラク、イラン、シリアに分かれている。
ここで、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が、それぞれ違う場所を通る中東の地図が見えてくる。
三つの軸の上で動く二つの力
この三つの線が、中東を見るための基本的な地図となる。その地図の上では、さらに二つの大きな力が動いてきた。一つが石油を中心とする資源(注A)である。石油は国家に大きな収入をもたらし、中東を世界経済の重要な地域にした。
もう一つが、地域外の大国との関係である。イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、その後のロシアなどは、中東の国家、政権、戦争、安全保障に長く関わってきた。この二つは新しい国境や文化圏を作る線ではなく、宗派、文化圏、国境という地図の上で、地域の力関係を動かす要素である。
さらに現在では、国家の仕組みの違いや、国家の外で独自の軍事力や統治する力を持つ勢力も、中東の政治を動かしている。この三つの線を重ねると、同じ中東の中でも国や地域によって異なる組み合わせが見えてくる。宗派と文化圏が重なる場所もあれば、一つの国境の中に複数の宗派や民族が暮らす場所もある。その違いが、長い歴史の中で現在の中東につながってきた。
第1章 イスラムの誕生と宗派の分裂
7世紀、アラビア半島でイスラム教が生まれた。ムハンマドは宗教者であり、イスラム共同体を率いる政治的な指導者でもあった。そのため、ムハンマドが亡くなると、誰がイスラム共同体を率いるのかという問題が生まれた。
共同体の合意によって指導者を選ぶ流れが形成され、その後スンニ派につながっていく。一方、ムハンマドの家族や血統に特別な正統性を認める人々もいた。この流れが後のシーア派につながる。
政治的な指導者をめぐる違いは、時間とともに宗教的な意味も持つようになった。680年には、ムハンマドの孫フサインがカルバラー(注5)で殺害された。この出来事はシーア派の歴史の中で大きな意味を持つようになる。フサインは、不正な権力に抵抗して命を失った人物として記憶され、殉教や追悼の文化が形成された。
イスラム世界ではスンニ派が多数を占めるようになり、シーア派も独自の宗教思想や制度を発展させていった。両者は長いあいだ同じ地域で暮らしてきた。国家間の競争や国内政治の変化によって、宗派の違いが政治的に強く意識される時代(注B)も生まれた。
ここで、中東を見るための最初の線が引かれる。スンニ派とシーア派という宗派の線である。
第2章 ペルシャのシーア派国家化
現在のイランがシーア派を中心とする国家となった背景には、16世紀の大きな変化がある。それ以前のペルシャ地域では、イスラム教徒の多くがスンニ派だった。
16世紀初頭、この地域にサファヴィー朝が成立する。その西側には、スンニ派を中心とする大国オスマン帝国が存在していた。両国は国境や勢力圏をめぐって競争するようになる。
サファヴィー朝は、シーア派を国家の宗教として広めた(注C)。宗派は国内をまとめる力となり、同時にオスマン帝国との違いを示すものにもなった。宗教制度や学者の組織(注6)も整えられ、ペルシャ地域では国家の力によってシーア派が広がっていった。
ペルシャ文化圏とシーア派という二つの線は、この時代から重なっていった。現在まで続く、ペルシャ文化圏 × シーア派という組み合わせは、この時代に成立した。
第3章 オスマン帝国
13世紀末、アナトリアで成立したオスマン帝国は、その後急速に勢力を広げた。16世紀には、アナトリア、バルカン半島、シリア、イラク、エジプト、アラビア半島の一部まで支配する大帝国となった。
支配する王朝はトルコ系で、国家はスンニ派を中心としていた。その領域には、トルコ人、アラブ人、クルド人など多くの民族が暮らし、宗教もスンニ派、シーア派、キリスト教徒、ユダヤ教徒などさまざまだった。
オスマン帝国は、それぞれの地域や宗教共同体に一定の自治(注7)を認めながら、税、治安、軍事を通じて広大な領域を統治した。東側ではサファヴィー朝と競争し、西側ではヨーロッパ諸国と向き合った。サファヴィー朝との競争は、国家同士の対立と宗派の違いを結びつけ、オスマン帝国のスンニ派国家としての性格を強めていった。
19世紀になると、ヨーロッパ諸国の軍事力や経済力が強くなる。帝国は軍事や行政の改革(注8)を進めたが、国防や財政の負担も大きくなった。バルカン半島では民族運動が広がり、独立する地域も増えていく。帝国の内側と外側の圧力(注D)が強まる中で、オスマン帝国は第一次世界大戦へ入り、戦争に敗れると、長く中東を包んでいた帝国の秩序は崩壊した。
第4章 第一次世界大戦と中東の地図
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、中東の政治地図は大きく変わった。イギリスとフランスは、旧オスマン領の新しい政治秩序に強く関わった。その中で、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど、現在につながる国家の枠組み(注E)が作られていった。
その国境は、宗派、民族、文化圏の分布をそのまま国家にしたものではなかった。イラクとなる地域には、北部にクルド人、中部にスンニ派アラブ人、南部にシーア派アラブ人が多く暮らしていた。イギリスの強い影響(注9)のもとで、これらの地域は一つのイラク国家にまとめられた。人口ではシーア派が大きな割合を占めたが、国家や政治、軍ではスンニ派の有力層が強い位置を占めるようになった。
クルド人が暮らす地域(注10)も、トルコ、イラク、イラン、シリアへ分かれた。オスマン帝国の中で暮らしていた多様な人々は、それぞれ新しい国民国家の枠組みに入ることになった。一つの国家の中に複数の宗派や民族が入り、同じ民族が複数の国家へ分かれる構造も生まれた。
こうして、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が異なる場所を通る、現在の中東につながる地図が形作られていった。
第5章 イスラエル建国とアラブ民族主義
第1節 アラブ民族主義が広がる
アラブ民族主義(注G)の流れは、イスラエル建国より前から始まっていた。オスマン帝国の末期には、アラビア語を使い、共通する歴史や文化を持つ人々を「アラブ人」として捉える意識が広がっていた。
第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、アラブ地域には新しい国家が作られ、その多くではイギリスやフランスが強い政治的、軍事的な影響を残した。第二次世界大戦後には植民地支配からの独立が進み、外国の影響から離れ、アラブ人自身の力で国家と地域の秩序を作ろうとする動きが各地で広がっていった。
その中で大きな力を持ったのが、アラブ民族主義だった。アラビア半島からシリア、イラク、エジプトまで広がるアラブ世界を、一つの言語や歴史、文化を共有する社会として捉える。宗派の違いよりもアラブ人としてのまとまりを前に出し、外国の影響を減らしながら、自分たちの国家と地域秩序を作ろうとする考え方である。
この時期の中東では、スンニ派とシーア派という宗派の違いよりも、外国の影響からどう離れるか、アラブ諸国をどうまとめるか、強い国家をどう作るかという問題が政治の前面に出ていた。
第2節 イスラエル建国
パレスチナをめぐる動きは、第一次世界大戦の時期から別の流れをたどっていた。第一次世界大戦の中で、イギリスはオスマン帝国との戦いを進めるため、アラブ側との協力(注11)を求めた。同じ時期には、パレスチナにユダヤ人の民族的な拠点を作ることへの支持も示した。戦争後の地域秩序をめぐって、アラブ側とユダヤ側にはそれぞれ異なる期待が生まれていた。
第一次世界大戦後のパレスチナはイギリスの統治下に置かれていた。この地域にはアラブ人社会が存在し、ユダヤ人共同体も暮らしていた。19世紀末から20世紀にかけて、ユダヤ人が自らの国家を持つことを目指すシオニズム(注12)が広がる。その建設地としてパレスチナが重視されたのは、古代のユダヤ人国家やエルサレムと結びつく土地であり、ユダヤ教の歴史と宗教の中で長く特別な場所とされてきたためだった。
第二次世界大戦中のヨーロッパでは、ユダヤ人に対する大規模な迫害と虐殺(注13)が行われた。戦後には、行き場を失った人々の受け入れとユダヤ人国家の建設が国際的な課題として強く意識されるようになった。
パレスチナへのユダヤ人移住はさらに進み、土地や政治をめぐってアラブ人社会との緊張も強まっていった。1947年、国際連合はパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分ける案を示した。ユダヤ側は分割案を受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した(注F)。
パレスチナでは双方の武力衝突が広がり、将来の国家と領土をめぐる合意が作られないまま、イギリスによる統治の終了が近づいていった。1948年5月14日、ユダヤ側はイスラエルの建国を宣言した。周辺のアラブ社会との政治的な合意を作ってから新しい国家が成立したというより、対立が続く中で国家の成立を宣言する形となった。
イスラエル建国は、すでに広がっていたアラブ民族主義にも新しい共通課題を与えることになった。
第3節 中東戦争と冷戦
イスラエルの建国宣言の翌日、周辺のアラブ諸国が軍事介入し、第一次中東戦争が始まった。イスラエル側から見れば、新しく成立した国家を守るための独立戦争だった。一方、パレスチナ人にとっては、多くの人々が故郷を追われ、土地と生活の場を失った出来事であり、後にナクバ(大災厄)(注14)と呼ばれるようになる。
同じ1948年の戦争は、イスラエル側には国家成立の戦争として、パレスチナ側には社会と生活の基盤を失った出来事として記憶されていった。戦争の結果、イスラエルは国連の分割案より広い地域を支配するようになった。多くのパレスチナ人が難民となり、その問題は周辺のアラブ社会にも広がっていった。イスラエルへの対抗は、アラブ諸国をまとめる政治的な課題の一つとなった。
1950年代になると、エジプトを中心にアラブ民族主義がさらに大きな政治的な力を持つようになった。国家が経済や軍事を強化し、外国の影響を減らし、アラブ諸国が協力することで、イスラエルや西側諸国に対抗できる地域を作ろうとした。王政を倒して共和国を作る動きも各地で起こり、アラブ民族主義は新しい国家建設の思想にもなっていった。イスラエルとの対立が続く中で、アラブ民族主義は、外国の影響から地域を自立させるという考えと、イスラエルに対抗するという課題を結びつけていった。
そこへアメリカとソ連の冷戦が重なった。アメリカは石油資源や湾岸地域の安全保障を重視し、サウジアラビアやイラン王政などとの関係を深めた。アメリカは1948年の建国直後にイスラエルを承認しており、その後、冷戦が中東にも広がる中で、イスラエルとの安全保障上の関係を強めていった。
一方、ソ連はエジプト、シリア、イラクなどのアラブ民族主義を掲げる政権との軍事・経済関係を広げていった。この関係によって、中東の国家は武器、資金、技術、外交支援を大国から得るようになった。地域内の対立には米ソ双方の支援が流れ込み、軍備の拡大も進んだ。アラブ民族主義を掲げる政権にとって、軍事力の強化とイスラエルへの対抗は、自分たちが外国の影響からアラブ世界を守り、地域を率いる力を持っていることを示すものにもなった。
イスラエルと周辺のアラブ諸国との戦争は、その後も続いた。その中でも1967年の第三次中東戦争は、大きな転換点となった。エジプト、シリア、ヨルダンはイスラエルに敗れ、イスラエルは短期間の戦闘で、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレム、エジプトからガザ地区とシナイ半島、シリアからゴラン高原を占領した(注15)。
このうちシナイ半島は後にエジプトへ返還されたが、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区、ゴラン高原をめぐる問題は、その後の中東政治に長く残ることになる。軍事力を整え、アラブ諸国が連帯すればイスラエルに対抗できるという期待は、この敗北によって大きな打撃を受けた。外国の影響を退け、強い国家を作り、アラブ世界をまとめるという政治構想にも疑問が向けられるようになった。
1973年には第四次中東戦争が起きた。エジプトとシリアは、1967年に失った地域の回復を目指してイスラエルへ攻撃した。戦争の中では、アラブの産油国が石油を政治的な手段として使った(注16)。石油の供給が絞られ、価格が急上昇すると、その影響は中東を越えて世界経済へ広がった。中東の石油が、地域の国家に収入をもたらすだけでなく、地域外の国々の経済や外交にも大きな影響を与える力を持つことがはっきり表れた。
戦争を経て、エジプトは失った領土を外交によって取り戻す方向へ進み、アラブ世界全体でイスラエルに対抗する構図も変わっていった。
第4節 戦争後に変わった中東
1970年代に入ると、アラブ諸国は地域全体の統一よりも、それぞれの国家の利益や安全保障を強く意識するようになった。その変化がはっきり表れたのがエジプトだった。エジプトはソ連との距離を広げ、アメリカへ接近していった。その後、イスラエルとの和平(注17)へ進み、シナイ半島はエジプトへ返還された。アラブ諸国が一つになってイスラエルに対抗するという構図は、大きく変わった。
一方、パレスチナ問題は残った。ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区は、その後もパレスチナ問題の中心となった。国境、安全保障、入植地、難民、パレスチナ国家の問題が重なっていく。
イスラエルとパレスチナをめぐる対立には、ユダヤ人とパレスチナ人という文化・民族的な違い、20世紀に作られた国家と領土、イスラエルの安全保障、パレスチナ人の国家と生活の場、周辺のアラブ諸国、アメリカをはじめとする大国という複数の線が同じ土地の上に重なっていた。
文化や民族の線と国家の国境線が、この土地で直接ぶつかることになった。
さらに、外国の影響を退け、強い国家を作り、アラブ世界をまとめるという政治への期待が揺らぐ中で、別の政治運動が広がる余地も生まれた。その一つが、イスラムを政治や社会の中心に置こうとする運動(注H)だった。パレスチナでは、当初は民族解放を掲げる世俗的な組織が中心だったが、後には宗教を掲げる勢力も力を持つようになる。イランでは、王政と西側諸国との強い関係に対する不満が、宗教勢力を含む広い反体制運動へ集まっていった。
1950年代から1960年代にかけて中東の政治を大きく動かしたアラブ民族主義は、中東戦争と各国の利害の変化を経て求心力を失っていった。その中で、宗教を政治の中心に置こうとする動きが次第に大きな力を持つようになっていく。
注釈一覧
(注1)
中東という呼び方 もともとはヨーロッパから見た地理区分に由来する呼称で、含まれる範囲は使う人や時代によって変わる。本記事では、アラビア半島、シリア、イラク、レバノン、ヨルダン、イスラエルとパレスチナ、エジプト、イラン、トルコを中心に扱う。
(注2)
さまざまな宗派や共同体 スンニ派とシーア派の内部にも複数の流れがあり、どちらにも単純に収まらない共同体も存在する。イエメンやシリアの政治に関わってきた集団の中にも、こうした共同体を基盤とするものがある。
(注3)
イラン系の世界 言語の系統についての分類で、クルド語はペルシャ語と同じイラン系の言語に属する。言語が近いことと、政治的な立場や国家への帰属が一致するわけではない。
(注4)
言語的に近い文化的な系統 ヘブライ語とアラビア語は、ともにセム語派に属し、文法や語彙にも共通点がある。また、ユダヤ教とイスラム教の伝承では、アブラハムが重要な祖先として位置づけられている。
(注5)
カルバラー 現在のイラク中部にあたる地。フサインは少数の同行者とともに当時の王朝の軍に囲まれ、殺害された。この日はアーシューラーと呼ばれ、現在もシーア派社会では追悼の行事が行われている。
(注6)
宗教制度や学者の組織 サファヴィー朝は、他地域からシーア派の学者を招くなどして宗教教育や法の運用を担う層を育てた。この宗教学者の層が、後にイランの社会と政治で大きな役割を持つことになる。
(注7)
一定の自治 宗教共同体ごとに、宗教指導者を通じて信徒の身分や宗教上の事柄を扱わせる仕組みがあった。ミッレト制と呼ばれるが、制度として整理されたのは19世紀に入ってからで、それ以前は慣行に近い形で運用されていた。
(注8)
軍事や行政の改革 19世紀半ば、オスマン帝国は軍制、法制、税制、教育などを西欧の制度を参考に改める大規模な改革を進めた。タンジマートと呼ばれ、宗教による法的な区別を減らし、帝国の臣民を等しく扱う方向も打ち出された。
(注9)
イギリスの強い影響 第一次世界大戦後、旧オスマン領の多くは、国際連盟の下でイギリスとフランスが統治を委ねられる委任統治という形式に置かれた。将来の独立を前提とする建前だったが、実際には両国の影響が長く残った。
(注10)
クルド人が暮らす地域 第一次世界大戦の直後に結ばれた講和条約では、クルド人地域の自治や独立の可能性が示されていた。しかしその後の情勢の変化により、この条項を含まない条約が改めて結ばれ、実現しなかった。
(注11)
アラブ側との協力/ユダヤ人の拠点への支持 前者はフサイン=マクマホン書簡、後者は1917年のバルフォア宣言を指す。同じ時期には、イギリスとフランスの間で戦後の勢力範囲を分けるサイクス=ピコ協定も結ばれていた。三者は完全には整合していなかった。
(注12)
シオニズム 19世紀末のヨーロッパで、各地の民族運動が広がる一方、ユダヤ人への差別や迫害も強まった。そうした状況の中で、ユダヤ人が自らの国家を持つべきだという主張が組織的な運動として形をとった。
(注13)
大規模な迫害と虐殺 ナチス政権下のドイツと占領地域で行われた組織的な迫害と殺害を指し、犠牲者は約600万人と推計されている。ホロコーストと呼ばれる。
(注14)
ナクバ アラビア語で「大惨事」を意味する。1948年前後に故郷を離れた人の数は70万人前後と推計され、その帰還をどう扱うかは現在も交渉上の主要な論点の一つとなっている。
(注15)
占領した地域 戦争後の1967年、国連安全保障理事会は決議242号を採択し、イスラエル軍の占領地からの撤退と、地域の各国が安全な境界の中で生存する権利を含む原則を示した。撤退の範囲をどう読むかについては、その後も解釈が分かれてきた。この決議は後の和平交渉で繰り返し参照されることになる。
(注16)
石油を政治的な手段として使った 産油国が輸出の制限や停止を打ち出したことで、原油価格は数か月のうちに数倍へ上昇した。日本でも物価の急上昇や品不足が起き、オイルショックと呼ばれた。
(注17)
イスラエルとの和平 1979年に条約が結ばれ、アラブ諸国の中で初めてイスラエルを国家として承認した。この決定に反発したアラブ諸国は、エジプトの地域機構での資格を一時停止した。
(注A)
石油を中心とする資源 資源の輸出収入が国家財政の大部分を占める国では、政府が国民への課税に依存せずに統治を維持できる。このため、財政と政治参加の関係が、税を基礎とする国家とは異なる形になりやすいという指摘がある。こうした見方はレンティア国家論と呼ばれ、湾岸の産油国を説明する際にしばしば用いられてきた。ただし、資源収入があれば必ず同じ政治のかたちになるわけではなく、資源が乏しい国にも同種の統治が見られる例があるため、説明の一つの角度として扱われている。
(注B)
宗派の違いが政治的に強く意識される時代 スンニ派とシーア派の対立を、7世紀の分裂から現在まで途切れなく続いてきたものとして描く語り方がある。一方、近年の研究では、両者が長く共存してきた時期の方が長く、宗派が政治的な境界として前面に出るのは、国家が競合する局面や、国内で権力の配分が争われる局面であることが多いと指摘されている。本文が「どれほど政治的な意味を持つかは、国家同士の関係や国内政治によって変化する」と書いているのは、この論点と接する。
(注C)
シーア派を国家の宗教として広めた 宗教を国家統合の軸に据える政策は、この時代のヨーロッパでも見られたもので、サファヴィー朝に固有の発想ではない。ただしその過程は一様ではなく、他地域からの学者の招請、聖地や儀礼の整備、既存の宗教勢力への圧力など、複数の手段が長期にわたって用いられた。改宗が社会の広い層に定着するまでには一世紀以上を要したとする見方が有力で、王朝の決定がそのまま社会の変化になったわけではない。
(注D)
帝国の内側と外側の圧力 オスマン帝国を長期の停滞と衰退の物語として描く見方は、かつて広く用いられた。近年の研究では、19世紀の帝国が財政、軍制、教育の再編を進め、中央の行政能力をむしろ高めていた面が重視されるようになっている。この見方に立つと、帝国の縮小は内部の衰えの結果というより、ヨーロッパ諸国との力の差の拡大と、民族単位の国家という新しい秩序の広がりの中で生じた変化として理解される。
(注E)
現在につながる国家の枠組み 中東の国境は、大戦中にイギリスとフランスが交わした一本の取り決めによって決まった、と説明されることがある。実際には、その取り決めは戦後の交渉の出発点の一つにすぎず、現在の国境は複数の会議、現地の抵抗、両国の利害調整を経て段階的に定まった。また、境界が外部から引かれたことを不安定さの原因とする議論に対しては、国境の由来だけでは各国のその後の違いを説明できないという反論もある。
(注F)
ユダヤ側は分割案を受け入れ、アラブ側は拒否した この対応の背景には、双方それぞれの判断があった。ユダヤ側には、国家として国際的な承認を得る機会として受け入れる判断があった。一方、アラブ側には、人口や土地所有の状況に対して分割案の配分が大きすぎることや、住民の同意なしに外部から分割されることへの反発があった。本文はどちらの評価にも立たず、対応の事実のみを記している。
(注G)
アラブ民族主義 言語や歴史の共有を基礎に一つの政治的なまとまりを構想する点で、19世紀以降のヨーロッパの民族運動と共通する発想を持つ。同時に、この思想には初めから緊張が含まれていた。アラブ世界全体を一つにまとめようとする方向と、それぞれの国家が独自の利益と制度を固めていく方向は、必ずしも両立しない。実際、統合の試みは長続きせず、各国は自国の軍と官僚機構を強化していった。
(注H)
イスラムを政治や社会の中心に置こうとする運動 こうした運動には、異なる複数の流れがある。イランで宗教学者を中心に形成された流れと、20世紀前半からアラブ諸国で社会運動として発達した流れは、思想的にも組織的にも異なる。後者の内部でも、既存国家の中で政治・社会活動を続ける勢力と、武装闘争へ向かう勢力に分かれていった。
1.参考資料
森山央朗「第2章 スンナ派の宗派形成とイスラーム主義の系譜」『中東地域の現状と日本の外交』(平成27年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)
URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H27_Middle_East/02_moriyama.pdf
池端蕗子「現代中東における宗派対立とヨルダンの宗派和合戦略」(2017年、『日本中東学会年報』第33巻第1号)
URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/33/1/33_39/_pdf/-char/en
下中菜都子「トルコにおける新憲法制定をめぐる議論」(2014年、国立国会図書館『レファレンス』)
URL:https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8436646_po_075803.pdf?contentNo=1
日本国際問題研究所『グローバル戦略課題としての中東 ―2030年の見通しと対応―』(2015年、平成26年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)
松尾昌樹「レンティア国家論と湾岸諸国の「民主化」」(2004年、アジア経済研究所『現代の中東』第37号)
URL:https://ir.ide.go.jp/record/28903/files/ZME200407_005.pdf
国際連合広報センター「中東」(国際連合広報センター)
URL:https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/mideast/
外務省「安全保障理事会」『外交青書』昭和49年版(1974年、外務省)
URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1974_1/s49-2-3-2.htm
外務省「第4次中東戦争および中東問題関係」『外交青書』昭和49年版 資料編(1974年、外務省)
URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1974_2/s49-shiryou-4-1-14.htm
資源エネルギー庁「1.1.1 「エネルギー安全保障」をめぐる主要消費国の動向」『エネルギー白書2010』(2010年、経済産業省資源エネルギー庁)
URL:https://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2010html/1-1-1.html
資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史④】2度のオイルショックを経て、エネルギー政策の見直しが進む」(2018年、経済産業省資源エネルギー庁)
URL:https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history4shouwa2.html
外務省「我が国の対パレスチナ支援」(2026年、外務省)
URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000040724.pdf
2.深掘りするための一般書
小杉泰『イスラームとは何か——その宗教・社会・文化』(講談社現代新書)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4061492101
小杉泰『興亡の世界史 イスラーム帝国のジハード』(講談社学術文庫)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4062923882
宮田律『物語 イランの歴史——誇り高きペルシアの系譜』(中公新書)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121016602
林佳世子『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/406292353X
宮田律『中東イスラーム民族史——競合するアラブ、イラン、トルコ』(中公新書)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121018583
臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)
URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4062881896
高橋和夫『パレスチナ問題の展開』(放送大学叢書、左右社)