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  • 中東のニュースを読むための地図:3話

    第9章 現在の中東

    20世紀に作られた国家の枠組みは、その後の戦争、革命、石油、外国との関係によって、それぞれ異なる形へ変化していった。現在の中東では、サウジアラビア、イラン、イスラエルが大きな位置を占めている。それぞれがそこへ至った歴史は異なる。

    その周囲では、イラクやシリアのように複数の力が交差する国家があり、国家の外で独自の政治力や軍事力を持つ勢力も活動している。

    第1節 サウジアラビア

    第一次世界大戦後、オスマン帝国の支配が消えたアラビア半島では、各地の勢力が地域の支配を争った。現在も王家として続くサウード家が勢力を広げ、1932年に現在のサウジアラビア王国が成立した。

    サウジアラビアは、アラブ文化圏に属し、スンニ派を中心とする王政国家である。国内にはメッカとメディナがあり、イスラム世界の二つの聖地を抱えている。さらに20世紀に大規模な石油開発が進むと、石油収入を使って国家を整備し、軍事や外交にも大きな力を持つようになった。

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    石油は、サウジアラビアとアメリカを結びつける大きな要素にもなった。サウジアラビアは世界市場へ石油を供給し、アメリカとの安全保障関係を深めていった。一方、地域では1979年のイラン革命以降、シーア派を中心とする革命体制となったイランが周辺への影響力を広げ、サウジアラビアとイランは湾岸地域や周辺国への影響をめぐって競争するようになった。

    近年は、イランとの競争を続けながら、両国が関係を調整する動きも進んだ。2026年にイランとアメリカ、イスラエルの軍事的な対立が湾岸地域へ広がると、石油輸送と自国の安全保障を安定させることが、サウジアラビアにとって改めて大きな課題となった。

    サウジアラビアの位置は、アラブ文化圏、スンニ派、王政、二つの聖地、石油という要素が重なって作られている。宗教上の中心地、石油輸出国、アメリカと長く関係を持つ王政国家という複数の位置を持ちながら、中東の大きな勢力の一つとなっている。

    第2節 イラン

    イランは、アラブ世界とは異なるペルシャ文化圏を基盤とし、シーア派が多数を占める国家である。16世紀のサファヴィー朝以来、ペルシャ文化圏とシーア派の結びつきが国家の大きな特徴となってきた。

    20世紀には王政のもとで近代化が進み、石油を通じてイギリスやアメリカとの関係も深まった。その体制は1979年のイラン革命によって大きく変わった。革命後にはイスラム共和国が成立し、宗教指導者を頂点とする政治体制と革命防衛隊が国家の中心に組み込まれた。

    革命後のイランは、周辺地域のシーア派共同体やイスラムを掲げる政治運動との関係を広げていった。レバノンのヒズボラ、イラクのシーア派民兵、イエメンのフーシ派などとの関係は、その代表的な例である。それぞれの組織には独自の政治基盤や目的がある。その一方で、イランからの資金、武器、訓練などの支援によって、イランは自国の国境を越えて地域の安全保障に影響を与える手段を持つようになった。この関係は、イスラエルやアメリカ、湾岸のアラブ諸国との対立とも結びついていった。

    さらに、現在のイランをめぐる大きな問題として核開発がある。イランは原子力の平和利用を自国の権利として進めてきた一方、ウラン濃縮を拡大し、高い濃縮度のウランを蓄積するようになった。そのため、アメリカやイスラエルなどは、イランが核兵器を持つ能力へ近づく可能性を強く警戒してきた。国際社会との交渉によって核開発を制限する合意も作られたが、その後制限は崩れ、イランの核開発は再び大きな争点となった。

    2024年には、イランとイスラエルが互いの領土への直接攻撃を行った。それまで周辺の武装勢力やシリアなどを介して表れることが多かった両国の対立に、国家同士の直接攻撃が加わった。2025年にはイスラエルがイランの核施設や軍事施設を攻撃し、その後アメリカもイランの核施設を直接攻撃した。

    2026年2月には、アメリカとイスラエルがイランへの大規模な軍事攻撃を始めた。その攻撃の中で最高指導者が死亡し、その後、前最高指導者の息子が新しい最高指導者に選ばれた。

    革命体制の頂点では大きな交代が起きたが、イスラム共和国と革命防衛隊を中心とする国家体制は、2026年8月時点では維持されている。

    イランもイスラエルや湾岸地域のアメリカ軍拠点などへの攻撃で応じ、戦闘は湾岸地域全体へ広がった。ホルムズ海峡を通る船舶や石油輸送も大きな影響を受け、中東の安全保障と世界のエネルギー供給が再び直接結びついた。その後、アメリカとイランの間では戦闘を止めるための合意が作られたが、その枠組みは安定せず、2026年8月現在もホルムズ海峡、経済制裁、軍事行動をめぐる交渉と緊張が続いている。

    核開発をめぐって始まった対立は、イスラエルとアメリカによるイラン本土への攻撃、イランによる地域への反撃、石油輸送をめぐる問題へ広がった。現在のイランには、ペルシャ文化圏、シーア派、革命体制、革命防衛隊、周辺の非国家勢力とのネットワーク、核開発という要素が重なっている。

    サウジアラビアが、アラブ文化圏、スンニ派、王政、石油、アメリカとの安全保障関係を基盤として地域に位置してきたのに対し、イランはペルシャ文化圏、シーア派、革命体制を基盤として独自の地域的な影響力を築いてきた。この違いが、湾岸地域だけでなく、イラク、レバノン、イエメン、イスラエルをめぐる対立にもつながっている。

    第3節 イスラエル

    古代のユダヤ人共同体は、パレスチナを中心とする地域に形成された。ローマ帝国の時代以降、ユダヤ人の離散は広がり、中東、ヨーロッパ、北アフリカなど各地に共同体が作られた。それぞれの地域で長く暮らしながら、宗教や伝統を通じてユダヤ人としてのまとまりが維持されていった。

    19世紀末になると、ユダヤ人が自らの国家を持つことを目指すシオニズムが広がり、歴史的、宗教的に結びつきの深いパレスチナへの移住が進んだ。第二次世界大戦後の1948年にイスラエルが建国されると、周辺のアラブ諸国との戦争が続いた。この時期の大きな対立は、イスラエルとアラブ諸国という国家同士の形を取っていた。

    1967年の第三次中東戦争では、イスラエルが周辺の広い地域を占領した。その後、エジプトやヨルダンはイスラエルとの和平へ進み、シナイ半島もエジプトへ返還された。国家同士の戦争が減っていく一方で、パレスチナをめぐる問題は残った。ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区、難民、入植地、パレスチナ国家をめぐる問題が続き、イスラエルとパレスチナ人との対立が前面に出るようになった。

    1990年代には、イスラエルとパレスチナ側の間で相互承認が進み、パレスチナ人による自治の枠組みが作られた。ヨルダン川西岸とガザ地区の一部では、パレスチナ側の自治機関が行政を担うようになった。その後、和平交渉は停滞し、パレスチナ側の政治も分裂した。ヨルダン川西岸ではパレスチナ自治政府が中心となり、ガザ地区ではハマスが実権を握る形が続くようになった。パレスチナをめぐる問題には、イスラエルとの関係だけでなく、パレスチナ側の政治的な分立も重なるようになった。

    北側のレバノンでは、イラン革命後に形成されたヒズボラがイスラエルへの抵抗を掲げて成長した。イランがヒズボラなどへの支援を広げるにつれて、イスラエルにとってイランとの対立は、周辺の武装勢力を通じた安全保障の問題にもなっていった。

    2023年10月、ハマスがイスラエル南部を大規模に攻撃した。イスラエルはガザ地区への大規模な軍事作戦を始め、戦闘は長期化した。2025年10月には停戦が成立し、その後はイスラエル軍の撤退、ハマスの武装解除、ガザ地区の統治をどのような形へ移すかが大きな争点となった。2026年に入ってもハマスは警察や行政組織を通じてガザ地区で影響力を維持し、新しい統治機構への移行と武装解除をめぐる交渉が続いている。停戦後も攻撃は続いており、2026年8月現在も安定した政治秩序が作られた状態には至っていない。

    レバノンでは、2024年の大規模な戦闘を経てヒズボラが軍事的な打撃を受け、その後は停戦と武装解除が大きな争点となった。2026年にはイスラエルとヒズボラの戦闘が再び拡大した後、イスラエル軍の段階的な撤退と、レバノン軍による南部の統治、ヒズボラなど非国家勢力の武装解除を結びつける枠組みが作られた。ヒズボラは武装解除を受け入れておらず、2026年8月現在もイスラエル軍の駐留とヒズボラの武装をめぐる対立が続いている。

    ハマスやヒズボラなど周辺の武装勢力との対立に加えて、2024年以降はイランとの国家間の直接攻撃も始まった。さらにアメリカもイランへの軍事行動に加わり、イスラエルの安全保障上の焦点は、周辺の武装勢力との戦闘から、イランを含む国家間の直接的な軍事対立へ広がった。

    こうしてイスラエルをめぐる対立には、パレスチナ問題、ハマスやヒズボラなどの非国家勢力、イランとの国家間対立、アメリカとの安全保障関係が重なっている。

    第4節 イラクとシリアという交差点

    イラクとシリアは、中東を形作る複数の線が重なる場所となった。イラクでは、2003年のアメリカによる侵攻でサダム・フセイン政権が崩壊した。それまで政治の中心にいたスンニ派の旧支配層に代わり、シーア派の政治勢力が大きな力を持つようになった。北部ではクルド人の自治が強まり、国内ではシーア派民兵やスンニ派の武装勢力も活動した。そこへアメリカとイランの影響も重なった。

    イラクでは、シーア派とスンニ派、アラブ人とクルド人、アメリカとイラン、国家と武装勢力という複数の関係が同じ国境の内側に存在するようになった。

    隣接するシリアでは、2011年に反政府運動が広がり、その後内戦へ進んだ。シリアではスンニ派が人口の多数を占めていた。一方、アサド政権では、スンニ派とも、シーア派の主流とも異なる独自の教義を持つアラウィー派の人々が、軍や治安機関などで大きな位置を占めていた。

    政権はイランと長く協力関係を築き、ロシアからも軍事・外交面で支援を受けてきた。一方、反政府勢力にはトルコや湾岸諸国などが関わった。北東部では、内戦とISとの戦いの中でクルド人勢力が独自の軍事組織と行政機構を作り、アメリカの支援を受けながら支配地域を広げた。イスラエルとの間にはゴラン高原をめぐる問題も残っていた。

    さらに、イラクで成長したアルカイダ系の勢力はシリア内戦にも入り込み、その一部からIS、イスラム国が拡大した。ISはイラクとシリアの国境を越えて広い地域を支配し、20世紀に引かれた国境の内側で国家の統治が弱まった場所を利用して勢力を広げた。その後、各国や現地勢力による軍事作戦によってISの支配地域は縮小した。

    シリアではさらに大きな変化が起きた。2024年末、反政府勢力が急速に攻勢を広げ、12月8日にアサド政権が崩壊した。その後、旧反政府勢力を中心とする新しい体制が作られ、国家の再編が進められた。

    アサド政権の崩壊によって、長く続いてきたシリアとイランの強い関係は大きく後退した。イランにとってシリアは、レバノンのヒズボラへつながる重要な地域でもあり、政権崩壊によってイランがシリアを通じて地域へ影響を及ぼす力も弱まった。アサド政権を支えてきたロシアの影響も以前より小さくなり、反政府勢力との関係を持ってきたトルコの存在感が相対的に大きくなった。

    一方、北東部ではクルド人勢力とそれを支援してきたアメリカの関与が残り、南西部ではイスラエルが自国の安全保障を理由に軍事的な関与を強めた。2026年には、新しい中央政府とクルド人勢力の間で統合の枠組みが作られ、北東部で独自の軍事力と行政を持ってきた勢力を、国家の軍や行政へ組み込む作業が進められている。

    シリアでは、イランとロシアの影響が強かったアサド政権の時代から、トルコ、アメリカ、イスラエル、クルド人勢力、新しい中央政府の関係を組み替える段階へ移っている。

    イラクとシリアでは、20世紀に作られた国境そのものは残りながら、その内側で宗派、民族、政権、武装勢力、外国との関係が何度も組み替えられてきた。この二つの国には、宗派、文化や民族、国家の国境に加えて、外国の介入と国家以外の政治主体が同じ場所に重なっている。

    第5節 国家以外の政治主体

    イラクやシリア、パレスチナ、レバノンでは、国家の外にありながら、独自の軍事力や政治的な影響力を持つ勢力が大きな役割を果たしている。その中には、一定の地域を実際に統治する力まで持つ勢力もある。大きく分けると、二つの形がある。

    地域を統治する力も持つ勢力

    ハマスは、パレスチナの政治勢力であると同時に武装組織を持ち、長くガザ地区の統治を担ってきた。2025年の停戦後も警察や行政組織を通じて一定の統治機能を維持しており、2026年現在は新しい統治機構への移行と武装解除をめぐる交渉の対象となっている。

    ヒズボラは、レバノンで独自の軍事力を持ちながら、政党として政治に参加し、社会サービスも担ってきた。2024年以降の戦闘で軍事的な打撃を受け、現在はレバノン政府による国家の軍事力の一元化と武装解除をめぐる交渉の中に置かれている。独自の武装を維持するヒズボラと、それを国家の管理へ戻そうとするレバノン政府との関係が、現在の大きな争点となっている。

    フーシ派は、イエメン北部の宗教共同体を基盤として成長した政治・武装勢力である。その共同体は、シーア派の中でもイランで多数を占める宗派とは異なる系統に属する。イエメン内戦の中で首都サヌアを含む広い地域を支配するようになり、その過程でイランとの関係も深まった。現在は行政や治安を担いながら、独自の軍事力を持つ勢力となっている。

    シリア北東部のクルド人勢力は、内戦とISとの戦いの中で独自の軍事組織と行政機構を形成し、アメリカの支援を受けながら一定の地域を統治してきた。2026年には新しい中央政府との統合が進み、その位置は独立した統治主体から国家制度の一部へ移りつつある。

    かつてイラクとシリアで勢力を広げたIS、イスラム国も、支配地域で税を集め、行政や治安を運営し、自らを国家として位置づけた。イラク北部のクルド人自治政府は、イラクという国家の枠内にありながら、独自の行政機構や治安組織を持つ自治地域として存在している。

    成立の経緯や法的な位置はそれぞれ異なり、その位置も固定されていない。独自の統治地域を広げる勢力もあれば、国家の制度へ組み込まれていく勢力もある。

    主として独自の軍事力を持つ勢力

    中東には、領域の統治よりも軍事活動を中心とする武装組織や民兵も存在する。パレスチナではイスラム聖戦、イラクでは複数のシーア派民兵が活動している。シリア内戦ではさまざまな反政府武装勢力が生まれ、アルカイダにつながる組織も活動してきた。

    こうした勢力と国家との関係も一様ではない。政府と戦う勢力もあれば、政府と協力する勢力、国家の制度の一部に組み込まれながら独自の武力を残す勢力もある。さらに、イランのように国外の武装勢力を支援する国家もあり、非国家勢力を通じて別の国家へ影響を及ぼす関係も作られている。

    現在の中東では、国家、統治する力まで持つ非国家勢力、主として独自の軍事力を持つ武装勢力が同じ地域の政治と安全保障に関わっている。国家の国境だけを見ても、実際に誰が地域を支配し、誰が軍事力を持ち、どの国家と結びついているのかまでは分からない。宗派、文化圏、国境という三つの線の上で、こうした国家以外の政治主体も動いている。

    おわりに

    中東の歴史をたどると、現在の複雑さは、いくつもの線が重なった結果として見えてくる。

    第一に、宗派がある。スンニ派とシーア派の違いは、イスラム共同体の指導者をめぐる問題から始まり、長い歴史の中で宗教的な意味を持つようになった。国家同士の競争や国内政治によって、その違いが強く政治化される時代も生まれた。

    第二に、文化圏がある。中東では、アラブ文化圏とペルシャ文化圏が大きな位置を占め、その北側にはトルコ系の世界も広がっている。クルド人やユダヤ人の歴史を見ると、民族や文化の分布も現在の国家の国境だけでは整理できない。

    第三に、国境がある。第一次世界大戦後、オスマン帝国の秩序が崩れ、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど現在につながる国家の枠組みが作られた。その国境は、宗派、民族、文化圏の分布と一致していない。

    こうして、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が異なる場所を通る中東の地図ができた。

    その地図の上では、石油を中心とする資源と、地域外の大国との関係が力関係を動かしてきた。さらに現在では、国家の外で活動する政治勢力や武装組織も大きな力を持っている。そのため中東の対立は、国家と国家、国家と非国家勢力、国家と結びついた非国家勢力と別の国家、非国家勢力同士という複数の形を取る。

    その下には、今も三つの線がある。宗派、文化圏、国境である。同じ宗派だから、同じ政治的な立場になるとは限らない。同じ文化圏だから、国家の利益が一致するとも限らない。一つの国家の中に、異なる宗派、民族、政治勢力が存在する場合もある。

    その上を、石油などの資源、地域外の大国との関係、国境を越えて活動する非国家勢力が動いている。

    中東のニュースを見るとき、まず出来事の主体をこの地図の上に置く。どの宗派に属するのか。どの文化圏に位置するのか。どの国境の内側で起きているのか。国家なのか、地域を統治する非国家勢力なのか、主として軍事力を持つ武装組織なのか。そして、どの国家や大国と結びついているのか。

    一つずつ分けていけば、複雑に見える中東の出来事も、どの線とどの線が交差しているのかが見えてくる。

    中東のニュースを読むために必要なのは、すべての国名や組織名を覚えることではない。

    出来事を置くための地図を持っていることである。

  • 中東のニュースを読むための地図:2話


    第6章 イラン革命

    20世紀のイランでは、王政のもとで近代化が進められた。石油は国家に大きな収入をもたらし、イランはイギリスやアメリカとの関係を深めていった。1951年には石油産業の国有化(注18)が進められ、イギリスとの対立が強まった。1953年にはアメリカとイギリスが関与した政変(注19)が起こり、その後王政の力が強まった。

    王政は西側諸国との関係を深めながら、土地改革、教育の拡大、工業化、都市化(注20)を進めた。石油収入もその変化を支えた。一方、政治権力は王政へ集中し、軍や治安機関が体制を支えた。急速な社会変化の中で、宗教指導者、学生、商人、知識人、都市労働者など、さまざまな層に不満が広がった。経済発展の利益にも偏りがあり、社会の変化そのものが大きな負担となる人々もいた。

    革命前年から抗議運動が急速に広がり(注I)、1979年に王政は崩壊し、イスラム共和国が成立した。新しい国家では、宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ(注21)(注J)、革命によって生まれた新しい組織も国家の中に組み込まれた。その一つが革命防衛隊(注22)だった。

    ペルシャ文化圏とシーア派の結びつきの上に革命体制が成立し、現在のイランにつながる、ペルシャ文化圏 × シーア派 × 革命体制という組み合わせが形作られた。

    革命後のイランは、周辺地域のシーア派共同体やイスラムを掲げる政治運動との関係を広げていった。その動きが具体的な形を取った場所の一つが、内戦の続いていたレバノンだった。1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻(注23)すると、イランの革命防衛隊はレバノンのシーア派勢力への支援や訓練に関わった。そこから形成されていった組織の一つが、後のヒズボラである。

    ヒズボラはレバノンのシーア派社会を基盤とし、イラン革命の思想的な影響とイランからの支援を受けながら、イスラエルへの抵抗を掲げて成長していった。イラン革命によって生まれた政治体制と革命防衛隊は、こうして国境を越えた政治勢力との関係を築いていった。

    第7章 イラン・イラク戦争

    1979年のイラン革命は、周辺国にも大きな衝撃を与えた。その影響を強く警戒した国の一つがイラクだった。イラクではシーア派が人口の大きな割合を占めていたが、国家や政治の中心ではスンニ派を基盤とする政権が強い力を持っていた。イラン革命がイラク国内のシーア派にも影響を与える可能性は、政権にとって大きな不安となった。

    両国の間には国境をめぐる対立(注24)や、地域の主導権をめぐる競争もあった。さらに革命直後のイランでは、旧体制の軍や国家機構が大きく揺れていた。イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した(注K)

    1980年、イラク軍がイランへ侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。イランは侵攻を押し返したが、その後も戦争は終わらず、約8年間にわたる消耗戦へ進んだ。国境地帯では激しい戦闘が続き、都市への攻撃、ミサイル攻撃、石油輸送をめぐる攻撃なども行われた。外国から攻撃を受けたことで、革命によって生まれた新しい体制と国家防衛が結びつき、その中で革命防衛隊も大きな軍事組織へ成長した。

    1988年、停戦が成立した(注25)。国境は大きく変わらなかったが、両国には多数の犠牲と大きな経済的負担が残った。イラクには、戦争を支えるために湾岸諸国から借りた多額の債務も残った。戦争後、イラクは復興のために大きな石油収入を必要としていた。

    一方、クウェートなど湾岸の産油国が高い生産量を維持すると、石油価格は低い水準にとどまった。イラクはこれを、自国の復興を妨げる問題として受け止めた。クウェートとの間には、債務、石油生産、国境や油田をめぐる対立も重なり、1990年、イラクはクウェートへ侵攻した。

    これに対してアメリカを中心とする多国籍軍が軍事介入し、1991年にイラク軍はクウェートから撤退した。湾岸戦争の敗北後、イラクには長期の経済制裁(注26)が課された。

    同じころ、中東の別の場所では、国家の外で活動する政治・武装組織も形を取り始めていた。パレスチナでは、イスラエルの占領が長期化する中で、住民による抗議や抵抗が広がり、その中からパレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された(注27)。それまでパレスチナの民族運動では世俗的な勢力が大きな位置を占めていたが、イスラムを政治や社会の中心に置きながら、イスラエルの占領と国家に対抗する勢力も力を持つようになった。

    同じ時期、アフガニスタンではソ連軍との戦争(注28)が続き、国外からもイスラムを掲げる戦闘員が集まっていた。長い戦争の中で、国籍の異なる戦闘員や支援者を結ぶ人的なつながりが作られ、その中からアルカイダが形成された。

    ハマスはパレスチナから生まれ、イスラエルの占領に対抗した。一方アルカイダは、アフガニスタン戦争から生まれ、湾岸戦争でアラビア半島に外国の軍が展開したことなどを契機として、アメリカを中心とする外部勢力の介入へ対抗の矛先を向けていった。両者は、活動する地域も目的も異なっていた。

    こうして1980年代の終わりから1990年代にかけて、国家の軍隊とは別に、宗教を政治的なよりどころとしながら独自の組織と武力を持つ勢力が、中東とその周辺で存在感を強めていった。

    制裁の下に置かれたイラクと、国家の外で力を持ち始めた武装勢力。この二つの流れが、2000年代の中東を大きく動かしていくことになる。

    第8章 アメリカのイラク侵攻

    制裁下のイラクに対し、国連は大量破壊兵器の廃棄や査察(注29)を求めた。イラクは湾岸戦争以前に化学兵器や生物兵器(注30)を保有し、核兵器につながる計画も進めていた。湾岸戦争後、その多くは査察や廃棄の対象となった。それでも、査察、制裁、湾岸地域の安全保障をめぐってイラクとアメリカの対立は続き、国内経済も大きく弱っていった。

    第1節 同時多発テロ後のアメリカ

    2001年、アメリカで同時多発テロが起きた。この出来事は、アメリカの安全保障政策を大きく変えた。イラクは、それまでにイランとクウェートへ戦争を仕掛け、湾岸戦争後も制裁と査察を受けていた。核兵器につながる計画を進めた過去もあった。

    湾岸戦争後のイラクには、もう一つの事情があった。大量破壊兵器を失ったことを明確に示せば、長く戦ってきたイランや国内の反対勢力に軍事的な弱さを見せることにもなる。そのためイラク政権は、自国の軍事能力をどこまで失ったのかについて曖昧さを残した。

    周辺への牽制として残された曖昧さは、同時多発テロ後のアメリカから見ると別の意味を持った。イラク側が弱さを隠すために残した不確実さを、アメリカ側は大量破壊兵器を再び保有する可能性として強く警戒した。アメリカは、追い詰められた独裁政権が大量破壊兵器を再び持つことを、将来の大きな危険として捉えた。

    「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ(注L)を最悪の事態として警戒し、十分な確認を待つより先に軍事力によって体制そのものを取り除く。2003年のイラク侵攻には、こうした同時多発テロ後のアメリカの安全保障判断が強く表れていた。アメリカを中心とする軍がイラクへ侵攻し、サダム・フセイン政権は崩壊した。

    第2節 侵攻の根拠をめぐる問題

    アメリカが侵攻の大きな理由として挙げたのが、大量破壊兵器だった。しかし、政権崩壊後の調査では、侵攻前に想定されていた大量破壊兵器の備蓄は確認されなかった。湾岸戦争後に核兵器開発を再開した証拠も確認されなかった。

    そのため、侵攻前の脅威評価や情報の扱いには大きな批判が向けられた。アメリカが大量破壊兵器を中心的な危険として本当に認識していたのか、あるいは体制転換を進めるために危険を強く示したのかについては、現在まで議論が続いている。アメリカには、イラクの体制を変え、新しい政治秩序を作るという構想もあった。

    イラクには周辺国から警戒されるだけの過去があり、アメリカにも脅威を警戒する論理があった。フセイン政権が弱さを隠そうとして残した曖昧さと、同時多発テロ後のアメリカが最悪の可能性を先に排除しようとした判断が重なった。その論理から軍事侵攻へ進む際に使われた事実認識は、戦後に大きく崩れることになった。

    第3節 国家を支えていた組織の解体

    政権崩壊後、アメリカを中心とする占領当局(注31)は旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した(注32)(注M)。軍人、官僚、治安機関の人々が一度に国家の外へ押し出された。

    新しい政治制度を作る一方で、行政や治安を支えていた能力も失われた。国家の統治が弱まった地域では、武装組織や民兵が活動する余地が広がった。

    第4節 権力構造の転換

    旧体制では、スンニ派を中心とする政治エリートが国家の中心にいた。政権崩壊後に選挙制度が導入される(注33)と、人口の多いシーア派の政党が政治の中心へ進んだ。北部ではクルド人の自治も強まった。

    イラクの政治構造は、スンニ派中心の旧体制から、シーア派を中心とする新しい政治勢力とクルド人の自治地域が大きな位置を占める形へ変わった。国境そのものは残ったまま、その内側の宗派と権力の関係が大きく組み替えられた。

    第5節 イランとの距離

    新しいイラク政治の中心となったシーア派勢力の中には、旧政権時代に国外へ逃れ、イランとの関係を持っていた勢力もあった。イラクのシーア派すべてがイランの影響下に入ったわけではなく、それぞれ独自の政治基盤を持ち、イランとの距離にも違いがある。

    それでも、長くイランの地域的な競争相手だったフセイン政権が崩壊したことで、中東の力関係はイランに有利な方向へ動いた。

    第6節 武装組織の拡大

    国家の統治が弱まる中で、旧政権の軍人、民兵、国外から入ってきたイスラム武装勢力などが活動を広げた。スンニ派側では、アルカイダにつながる勢力が成長し、イラクのアルカイダ(注34)と呼ばれる組織が大きな力を持った。シーア派側でも、マフディー軍など複数の武装勢力が活動した。

    旧体制の崩壊によって政治的な地位を失ったスンニ派の一部では、新しい政治秩序への反発が強まった。そこへ宗派を利用する武装勢力が入り込み、シーア派とスンニ派の武装勢力による攻撃と報復が拡大した。長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった(注N)

    イラクのアルカイダにつながる勢力は、その後シリア内戦にも入り込み、後のIS、イスラム国へつながっていく。シーア派の武装勢力の一部はイランとの関係を深めた。

    第7節 中東の力関係が変わる

    2003年のイラク侵攻は、一つの政権を崩壊させただけで終わらなかった。シーア派勢力の政治的な上昇、イランの影響力の拡大、民兵や武装組織の成長、国境を越えて活動する武装勢力の拡大が進み、イラク国家の内部構造が変わることで、中東全体の力関係も変化した。

    政権崩壊後の混乱は長期化し、武装勢力による攻撃や治安の悪化によって、多くの人々の生活や地域社会も大きな影響を受けた。国家の再建には長い時間がかかり、政治制度を作り直すことと、治安や行政を立て直すことが別の課題として残った。

    この変化は、その後のシリア内戦やISの拡大にもつながっていく。



    注釈一覧

    (注18)

    石油産業の国有化 イランは1951年、イギリス系の石油会社が持っていた施設と権益を国有化した。イギリスは国際的な販売網を通じてイラン産原油の取引を締め出し、輸出は大きく落ち込んだ。

    (注19)

    アメリカとイギリスが関与した政変 1953年、両国の情報機関が資金や工作を通じて関与し、国有化を進めた首相が失脚した。アメリカでは後年、政府文書の公開などを通じて、この政変への関与が明らかにされている。

    (注20)

    土地改革、教育の拡大、工業化、都市化 1960年代に王政が進めた一連の改革を指し、「白色革命」と呼ばれた。農地改革、女性参政権、教育の拡大などを含み、地主層の利益や宗教組織の社会的・経済的な基盤にも影響を与え、反発を招いた。

    (注21)

    宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 最高指導者と呼ばれる地位で、国家の基本方針に大きな権限を持ち、軍の統帥権も握る。大統領や議会は選挙で選ばれるが、立候補資格の審査などを通じて宗教的な制度による制約も働く。

    (注22)

    革命防衛隊 1979年、革命体制を守るために創設された軍事組織。正規軍とは別系統で、陸海空の部隊のほか、国外の勢力との連携を担う部門や、建設・エネルギーなどの関連企業群も持つ。

    (注23)

    1982年にイスラエル軍がレバノンへ侵攻 内戦下のレバノンに拠点を置いていたパレスチナ武装組織の排除を目的とし、南部から進んで首都ベイルートに達した。イスラエル軍はその後も南部に長く駐留した。

    (注24)

    国境をめぐる対立 両国の南部で国境をなす河川の境界をめぐる対立を指す。1975年の合意でいったん収まったが、イラクは1980年にこの合意の破棄を宣言した。

    (注25)

    1988年、停戦が成立した 前年に国連安全保障理事会が採択した停戦要求の決議に、イランが受諾を表明したことで成立した。8年の戦闘による死者は、両国を合わせて数十万人規模と推計されている。

    (注26)

    長期の経済制裁 国連による包括的な制裁で、石油輸出と物資の輸入が広く制限された。後に、食料や医薬品の購入に充てる範囲で石油輸出を認める枠組みが設けられたが、国内の生活水準は大きく低下した。

    (注27)

    パレスチナのイスラム運動を基盤としてハマスが形成された 1987年末に始まった占領地の民衆蜂起(インティファーダ)のなかで結成された。母体は、エジプトで生まれ各地に広がったイスラム社会運動の系譜に連なる。

    (注28)

    アフガニスタンではソ連軍との戦争 1979年のソ連軍侵攻から1989年の撤退まで続いた。抵抗勢力にはアメリカや湾岸諸国からの資金と武器が流れ、各地から義勇兵が集まった。

    (注29)

    大量破壊兵器の廃棄や査察 国連は湾岸戦争後に査察機関を置き、施設の調査と兵器の廃棄を進めた。しかし1998年末に査察団が現地を離れ、以後4年近く、現地での査察が行われない期間が続いた。2002年末に新しい機関のもとで再開されたが、翌年の侵攻によって終了した。

    (注30)

    化学兵器や生物兵器 イラクはイラン・イラク戦争中に化学兵器を実際に使用し、1988年には自国北部のクルド人が暮らす町への攻撃にも用いた。この経緯が、後の周辺国と国際社会の警戒の強さにつながった。

    (注31)

    アメリカを中心とする占領当局 2003年に設置された連合国暫定当局を指す。行政、治安、経済の各分野で命令を発する権限を持ち、2004年にイラク側へ主権を移譲するまで統治にあたった。

    (注32)

    旧支配政党の関係者を国家機構から排除した 「脱バアス化」と呼ばれる政策で、政権を担っていた政党の党員資格を基準に公職から外した。対象の範囲が広く、行政の実務を担っていた技術者や教員も含まれた。

    (注33)

    選挙制度が導入される 2005年1月に暫定議会の選挙、10月に憲法の国民投票、12月に本格議会の選挙が行われた。旧体制の崩壊から2年余りの間に、選挙を基礎とする制度への移行が進んだ。

    (注34)

    イラクのアルカイダ 2004年にアルカイダへの忠誠を表明した武装組織の通称。占領軍への攻撃に加え、シーア派の宗教施設や市場への攻撃も繰り返した。

    (注I)

    革命前年から抗議運動が急速に広がり 1979年の革命をどう説明するかについては、複数の見方が併存している。急速な近代化が社会の慣習や職業のあり方を壊したことを重視する説明、石油収入によって国家が社会から自立し、政治参加の回路が細ったことを重視する説明、宗教組織が持っていた全国的な人的ネットワークの役割を重視する説明などがある。いずれも一つで全体を説明するには足りず、宗教指導者、学生、商人、都市労働者という異なる立場が一時的に結びついた点に注目する見方が有力である。

    (注J)

    宗教指導者が政治体制の頂点に置かれ 宗教学者が国家の統治にあたるという構想は、シーア派の伝統のなかで自明のものだったわけではない。宗教界は世俗の権力と距離を保つべきだという立場も長く存在し、現在も有力である。イラン革命は、宗教学者自身が国家統治の中心に立つ体制を成立させた点で、大きな転換となった。イラクを含むシーア派社会でも、宗教学者の政治への関わり方について立場は一様ではない。

    (注K)

    イラクは、この時期を自国に有利な条件と判断した 開戦の要因については、比重の置き方に幅がある。イラン革命の思想が国内のシーア派に及ぶことへの警戒を重視する見方は早くから示されてきた。一方、近年の研究では、地域の主導権をめぐる競争、国境と河川の権益、そして革命直後の混乱を機会と見た判断を重視する説明が加わっている。宗派の要因を出発点に置くと、両国とも国内に相手側の宗派の住民を抱えながら国家として戦った事実が説明しにくくなる。

    (注L)

    「敗北して追い詰められた独裁者」と「大量破壊兵器」の組み合わせ イラク側が能力の不確実さを意図的に残していたという理解は、政権崩壊後に確保された内部文書や関係者の証言をもとに整理されたものであり、抑止の対象として周辺国と国内の反対勢力の双方が意識されていたとされる。他方、この整理は事後の資料に基づくため、当時の意思決定を単一の合理的な戦略として描きすぎるという批判もある。またアメリカ側の判断についても、脅威認識を中心に見る説明と、中東の政治秩序を作り替える構想を中心に見る説明がある。いずれの説明が中心かについては、現在も見方が分かれている。

    (注M)

    旧イラク軍を解体し、旧支配政党の関係者を国家機構から排除した この二つの政策を、その後の混乱の主要な原因と見る評価は広く共有されている。武装したまま職を失った人々が反政府勢力に加わり、行政の実務を知る層が失われたという説明である。一方で、これを過大に見ることへの反論もある。旧体制の統治機構はすでに戦争と制裁で弱っており、占領統治の具体的な決定を変えても、権力配分をめぐる争いと治安の悪化は避けにくかったとする見方である。

    (注N)

    長く存在していた宗派の違いが、国家の崩壊と新しい権力配分によって政治的に強く動かされるようになった 2003年以降のイラクで宗派が政治の前面に出た経緯については、いくつかの要因が指摘されている。人口比を反映しやすい選挙制度と、宗派や民族を単位とする役職の配分が、集団としての帰属を政治的な資源に変えた点。国家の治安機能が失われ、身の安全を地域や宗派の組織に頼らざるを得なくなった点。そして、宗派間の対立をあえて拡大させることを戦略とした武装勢力が存在した点である。宗派の違いが古くからあったことと、それが政治的な境界として作動することとは別の問題である。

    1.参考資料

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    URL:http://www.isc.meiji.ac.jp/~tomyam/topics/topics07.html

    1. 日本国際問題研究所「第2章 イラン革命、在テヘラン米国大使館人質事件、イラン・イラク戦争」『アフガニスタン、イランの安全保障・危機管理』(2006年、平成17年度外務省委託研究、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h17_afghanistan/h17_afgahanistan04_Chapter2.pdf

    1. 日本経済新聞「CIA、53年のイラン政変を主導 米で関与認める公文書初公開」(2013年、日本経済新聞)

    URL:https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM20017_Q3A820C1000000/

    1. 佐藤秀信「用語解説」『イラン情勢』(2010年、平成21年度外務省委託研究、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h21_iran/11_yougo.pdf

    1. 清水雅子「ハマース結成の理念――『イスラーム抵抗運動「ハマース」憲章』」『イスラーム世界研究』第4巻1・2号(2011年、441–475頁、京都大学イスラーム地域研究センター)

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    1. 外務省「イラクを巡る情勢の経緯及び現状――2003年5月1日まで」(2003年、外務省)

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    1. 外務省「イラク情勢と日本の対応」(外務省)

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    1. 国際連合広報センター「イラク」(国際連合広報センター)

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    1. 外務省「外務報道官談話――イラク問題に関する国連査察団による安保理報告について」(2003年1月28日、外務省)

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    1. 防衛研究所「イラク戦争と情報操作」『防衛研究所ニュース』2006年12月号(2006年、防衛省防衛研究所)

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    1. 防衛省「第3節 米国などによるイラクに対する軍事作戦」『日本の防衛――防衛白書』平成15年版(2003年、防衛省)

    URL:http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2003/2003/html/15113000.html

    1. 外務省「イラク再建に向けた動き」(外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/saiken.html

    1. 参議院事務局企画調整室「深刻化するイラク情勢と復興の可能性――イラク戦争と復興の過程における諸問題を踏まえて」『立法と調査』No.274(2007年10月、参議院事務局)

    URL:https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20071026027.pdf

    1. 森山央朗「第2章 スンナ派の宗派形成とイスラーム主義の系譜」『中東地域の現状と日本の外交』(平成27年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H27_Middle_East/02_moriyama.pdf

    2.深掘りするための一般書

    1. 桜井啓子『シーア派――台頭するイスラーム少数派』(中公新書、2006年)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121018664

    1. 黒田賢治『イラン現代史――イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで』(中公新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/B0G2RFV2LW

    1. ハンス・ブリクス(納家政嗣監訳、伊藤真訳)『イラク大量破壊兵器査察の真実』(明石書店、2004年)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4887243685

  • 中東のニュースを読むための地図:1話

    ― 宗派・文化圏・国境から見る中東の歴史 ―

    中東(注1)のニュースには、宗教、民族、国家、戦争、石油、大国の介入、武装組織など、多くの要素が同時に登場する。一つひとつの出来事は理解できても、それぞれがどのようにつながっているのかは見えにくい。

    その関係を整理するとき、三つの線を重ねると中東の地図が見えやすくなる。

    宗派

    文化圏

    20世紀に引かれた国境

    この三つの線は、同じ場所を通っているわけではない。


    第0章 中東のニュースを読むための三つの軸

    この記事では、歴史的、文化的な意味での中東を中心に扱う。そのうえで、中東の政治や安全保障と強く関わる周辺の国や地域も必要に応じて登場する。現在の情勢については、2026年8月時点までを扱う。

    軸1 宗派

    イスラム教徒の多数を占めるのがスンニ派である。アラブ諸国の多くやトルコでは、スンニ派が多数を占めている。シーア派はイスラム世界全体では少数派だが、イランやイラクでは大きな位置を占める。

    この違いの起点は、イスラム教の預言者ムハンマドの死後、誰がイスラム共同体を率いるのかという問題にあった。共同体の合意によって指導者を選ぶ流れと、ムハンマドの一族に特別な正統性を認める流れが分かれ、後のスンニ派とシーア派につながっていった。その違いは長い歴史の中で宗教的な意味も持つようになる。

    スンニ派とシーア派は、イスラム教の中で特に大きな二つのグループとなっている。他にもイスラム教には、さまざまな宗派や共同体(注2)がある。

    スンニ派とシーア派は長いあいだ同じ地域で暮らしてきた。宗派の違いがどれほど政治的な意味を持つかは、国家同士の関係や国内政治によって変化する。現在の中東を見るとき、宗派は一つの重要な線となっている。

    軸2 文化圏

    中東には、宗派とは別に大きな文化圏が存在する。まず押さえておきたいのが、アラブ文化圏とペルシャ文化圏である。

    アラブ文化圏は、アラビア半島、シリア、イラク、エジプトなどに広がっている。アラビア語を中心とし、共通する歴史や文化を持つ地域である。ペルシャ文化圏は、現在のイランを中心として広がってきた。その歴史的な影響は、アフガニスタン、中央アジア、コーカサスなどにも及んでいる。現在の中東の中では、イランがこのペルシャ文化圏を基盤とする大きな国家となっている。

    このほか、中東の北側にはトルコを中心とするトルコ系の世界も広がっている。トルコはペルシャ文化やアラブ・イスラム文化の影響を受けながら、独自の言語と歴史を持つ地域を形成してきた。

    文化圏と民族も完全に一致するわけではない。クルド人は、言語や文化的なルーツではペルシャ文化圏、つまりイラン系の世界(注3)に非常に近い。宗派ではスンニ派が多数を占め、現在はトルコ、イラク、イラン、シリアにまたがって暮らしている。ユダヤ人とアラブ人も、言語的に近い文化的な系統(注4)を持ち、宗教の歴史でも共通する部分がある。ユダヤ人の離散はローマ帝国の時代以降に広がり、中東各地のユダヤ人共同体は、アラブ社会やペルシャ社会の中で暮らしながら、ユダヤ教を中心とする独自の文化を維持してきた。

    宗派、文化、民族は、一つの線にはならない。

    軸3 国境

    現在の中東の国境の多くは、20世紀に形作られた。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリスやフランスが中東の新しい政治秩序に強く関わった。その中で、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど、現在につながる国家の枠組みが作られていった。

    この国境は、宗派、民族、文化圏の分布と必ずしも一致していない。イラクでは、北部にクルド人、中部にスンニ派アラブ人、南部にシーア派アラブ人が多く暮らしている。クルド人が暮らす地域も、トルコ、イラク、イラン、シリアに分かれている。

    ここで、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が、それぞれ違う場所を通る中東の地図が見えてくる。

    三つの軸の上で動く二つの力

    この三つの線が、中東を見るための基本的な地図となる。その地図の上では、さらに二つの大きな力が動いてきた。一つが石油を中心とする資源(注A)である。石油は国家に大きな収入をもたらし、中東を世界経済の重要な地域にした。

    もう一つが、地域外の大国との関係である。イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、その後のロシアなどは、中東の国家、政権、戦争、安全保障に長く関わってきた。この二つは新しい国境や文化圏を作る線ではなく、宗派、文化圏、国境という地図の上で、地域の力関係を動かす要素である。

    さらに現在では、国家の仕組みの違いや、国家の外で独自の軍事力や統治する力を持つ勢力も、中東の政治を動かしている。この三つの線を重ねると、同じ中東の中でも国や地域によって異なる組み合わせが見えてくる。宗派と文化圏が重なる場所もあれば、一つの国境の中に複数の宗派や民族が暮らす場所もある。その違いが、長い歴史の中で現在の中東につながってきた。


    第1章 イスラムの誕生と宗派の分裂

    7世紀、アラビア半島でイスラム教が生まれた。ムハンマドは宗教者であり、イスラム共同体を率いる政治的な指導者でもあった。そのため、ムハンマドが亡くなると、誰がイスラム共同体を率いるのかという問題が生まれた。

    共同体の合意によって指導者を選ぶ流れが形成され、その後スンニ派につながっていく。一方、ムハンマドの家族や血統に特別な正統性を認める人々もいた。この流れが後のシーア派につながる。

    政治的な指導者をめぐる違いは、時間とともに宗教的な意味も持つようになった。680年には、ムハンマドの孫フサインがカルバラー(注5)で殺害された。この出来事はシーア派の歴史の中で大きな意味を持つようになる。フサインは、不正な権力に抵抗して命を失った人物として記憶され、殉教や追悼の文化が形成された。

    イスラム世界ではスンニ派が多数を占めるようになり、シーア派も独自の宗教思想や制度を発展させていった。両者は長いあいだ同じ地域で暮らしてきた。国家間の競争や国内政治の変化によって、宗派の違いが政治的に強く意識される時代(注B)も生まれた。

    ここで、中東を見るための最初の線が引かれる。スンニ派とシーア派という宗派の線である。


    第2章 ペルシャのシーア派国家化

    現在のイランがシーア派を中心とする国家となった背景には、16世紀の大きな変化がある。それ以前のペルシャ地域では、イスラム教徒の多くがスンニ派だった。

    16世紀初頭、この地域にサファヴィー朝が成立する。その西側には、スンニ派を中心とする大国オスマン帝国が存在していた。両国は国境や勢力圏をめぐって競争するようになる。

    サファヴィー朝は、シーア派を国家の宗教として広めた(注C)。宗派は国内をまとめる力となり、同時にオスマン帝国との違いを示すものにもなった。宗教制度や学者の組織(注6)も整えられ、ペルシャ地域では国家の力によってシーア派が広がっていった。

    ペルシャ文化圏とシーア派という二つの線は、この時代から重なっていった。現在まで続く、ペルシャ文化圏 × シーア派という組み合わせは、この時代に成立した。


    第3章 オスマン帝国

    13世紀末、アナトリアで成立したオスマン帝国は、その後急速に勢力を広げた。16世紀には、アナトリア、バルカン半島、シリア、イラク、エジプト、アラビア半島の一部まで支配する大帝国となった。

    支配する王朝はトルコ系で、国家はスンニ派を中心としていた。その領域には、トルコ人、アラブ人、クルド人など多くの民族が暮らし、宗教もスンニ派、シーア派、キリスト教徒、ユダヤ教徒などさまざまだった。

    オスマン帝国は、それぞれの地域や宗教共同体に一定の自治(注7)を認めながら、税、治安、軍事を通じて広大な領域を統治した。東側ではサファヴィー朝と競争し、西側ではヨーロッパ諸国と向き合った。サファヴィー朝との競争は、国家同士の対立と宗派の違いを結びつけ、オスマン帝国のスンニ派国家としての性格を強めていった。

    19世紀になると、ヨーロッパ諸国の軍事力や経済力が強くなる。帝国は軍事や行政の改革(注8)を進めたが、国防や財政の負担も大きくなった。バルカン半島では民族運動が広がり、独立する地域も増えていく。帝国の内側と外側の圧力(注D)が強まる中で、オスマン帝国は第一次世界大戦へ入り、戦争に敗れると、長く中東を包んでいた帝国の秩序は崩壊した。


    第4章 第一次世界大戦と中東の地図

    第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、中東の政治地図は大きく変わった。イギリスとフランスは、旧オスマン領の新しい政治秩序に強く関わった。その中で、イラク、シリア、ヨルダン、レバノンなど、現在につながる国家の枠組み(注E)が作られていった。

    その国境は、宗派、民族、文化圏の分布をそのまま国家にしたものではなかった。イラクとなる地域には、北部にクルド人、中部にスンニ派アラブ人、南部にシーア派アラブ人が多く暮らしていた。イギリスの強い影響(注9)のもとで、これらの地域は一つのイラク国家にまとめられた。人口ではシーア派が大きな割合を占めたが、国家や政治、軍ではスンニ派の有力層が強い位置を占めるようになった。

    クルド人が暮らす地域(注10)も、トルコ、イラク、イラン、シリアへ分かれた。オスマン帝国の中で暮らしていた多様な人々は、それぞれ新しい国民国家の枠組みに入ることになった。一つの国家の中に複数の宗派や民族が入り、同じ民族が複数の国家へ分かれる構造も生まれた。

    こうして、宗派の線、文化や民族の線、国家の国境線が異なる場所を通る、現在の中東につながる地図が形作られていった。


    第5章 イスラエル建国とアラブ民族主義

    第1節 アラブ民族主義が広がる

    アラブ民族主義(注G)の流れは、イスラエル建国より前から始まっていた。オスマン帝国の末期には、アラビア語を使い、共通する歴史や文化を持つ人々を「アラブ人」として捉える意識が広がっていた。

    第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、アラブ地域には新しい国家が作られ、その多くではイギリスやフランスが強い政治的、軍事的な影響を残した。第二次世界大戦後には植民地支配からの独立が進み、外国の影響から離れ、アラブ人自身の力で国家と地域の秩序を作ろうとする動きが各地で広がっていった。

    その中で大きな力を持ったのが、アラブ民族主義だった。アラビア半島からシリア、イラク、エジプトまで広がるアラブ世界を、一つの言語や歴史、文化を共有する社会として捉える。宗派の違いよりもアラブ人としてのまとまりを前に出し、外国の影響を減らしながら、自分たちの国家と地域秩序を作ろうとする考え方である。

    この時期の中東では、スンニ派とシーア派という宗派の違いよりも、外国の影響からどう離れるか、アラブ諸国をどうまとめるか、強い国家をどう作るかという問題が政治の前面に出ていた。

    第2節 イスラエル建国

    パレスチナをめぐる動きは、第一次世界大戦の時期から別の流れをたどっていた。第一次世界大戦の中で、イギリスはオスマン帝国との戦いを進めるため、アラブ側との協力(注11)を求めた。同じ時期には、パレスチナにユダヤ人の民族的な拠点を作ることへの支持も示した。戦争後の地域秩序をめぐって、アラブ側とユダヤ側にはそれぞれ異なる期待が生まれていた。

    第一次世界大戦後のパレスチナはイギリスの統治下に置かれていた。この地域にはアラブ人社会が存在し、ユダヤ人共同体も暮らしていた。19世紀末から20世紀にかけて、ユダヤ人が自らの国家を持つことを目指すシオニズム(注12)が広がる。その建設地としてパレスチナが重視されたのは、古代のユダヤ人国家やエルサレムと結びつく土地であり、ユダヤ教の歴史と宗教の中で長く特別な場所とされてきたためだった。

    第二次世界大戦中のヨーロッパでは、ユダヤ人に対する大規模な迫害と虐殺(注13)が行われた。戦後には、行き場を失った人々の受け入れとユダヤ人国家の建設が国際的な課題として強く意識されるようになった。

    パレスチナへのユダヤ人移住はさらに進み、土地や政治をめぐってアラブ人社会との緊張も強まっていった。1947年、国際連合はパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分ける案を示した。ユダヤ側は分割案を受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した(注F)

    パレスチナでは双方の武力衝突が広がり、将来の国家と領土をめぐる合意が作られないまま、イギリスによる統治の終了が近づいていった。1948年5月14日、ユダヤ側はイスラエルの建国を宣言した。周辺のアラブ社会との政治的な合意を作ってから新しい国家が成立したというより、対立が続く中で国家の成立を宣言する形となった。

    イスラエル建国は、すでに広がっていたアラブ民族主義にも新しい共通課題を与えることになった。

    第3節 中東戦争と冷戦

    イスラエルの建国宣言の翌日、周辺のアラブ諸国が軍事介入し、第一次中東戦争が始まった。イスラエル側から見れば、新しく成立した国家を守るための独立戦争だった。一方、パレスチナ人にとっては、多くの人々が故郷を追われ、土地と生活の場を失った出来事であり、後にナクバ(大災厄)(注14)と呼ばれるようになる。

    同じ1948年の戦争は、イスラエル側には国家成立の戦争として、パレスチナ側には社会と生活の基盤を失った出来事として記憶されていった。戦争の結果、イスラエルは国連の分割案より広い地域を支配するようになった。多くのパレスチナ人が難民となり、その問題は周辺のアラブ社会にも広がっていった。イスラエルへの対抗は、アラブ諸国をまとめる政治的な課題の一つとなった。

    1950年代になると、エジプトを中心にアラブ民族主義がさらに大きな政治的な力を持つようになった。国家が経済や軍事を強化し、外国の影響を減らし、アラブ諸国が協力することで、イスラエルや西側諸国に対抗できる地域を作ろうとした。王政を倒して共和国を作る動きも各地で起こり、アラブ民族主義は新しい国家建設の思想にもなっていった。イスラエルとの対立が続く中で、アラブ民族主義は、外国の影響から地域を自立させるという考えと、イスラエルに対抗するという課題を結びつけていった。

    そこへアメリカとソ連の冷戦が重なった。アメリカは石油資源や湾岸地域の安全保障を重視し、サウジアラビアやイラン王政などとの関係を深めた。アメリカは1948年の建国直後にイスラエルを承認しており、その後、冷戦が中東にも広がる中で、イスラエルとの安全保障上の関係を強めていった。

    一方、ソ連はエジプト、シリア、イラクなどのアラブ民族主義を掲げる政権との軍事・経済関係を広げていった。この関係によって、中東の国家は武器、資金、技術、外交支援を大国から得るようになった。地域内の対立には米ソ双方の支援が流れ込み、軍備の拡大も進んだ。アラブ民族主義を掲げる政権にとって、軍事力の強化とイスラエルへの対抗は、自分たちが外国の影響からアラブ世界を守り、地域を率いる力を持っていることを示すものにもなった。

    イスラエルと周辺のアラブ諸国との戦争は、その後も続いた。その中でも1967年の第三次中東戦争は、大きな転換点となった。エジプト、シリア、ヨルダンはイスラエルに敗れ、イスラエルは短期間の戦闘で、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレム、エジプトからガザ地区とシナイ半島、シリアからゴラン高原を占領した(注15)

    このうちシナイ半島は後にエジプトへ返還されたが、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区、ゴラン高原をめぐる問題は、その後の中東政治に長く残ることになる。軍事力を整え、アラブ諸国が連帯すればイスラエルに対抗できるという期待は、この敗北によって大きな打撃を受けた。外国の影響を退け、強い国家を作り、アラブ世界をまとめるという政治構想にも疑問が向けられるようになった。

    1973年には第四次中東戦争が起きた。エジプトとシリアは、1967年に失った地域の回復を目指してイスラエルへ攻撃した。戦争の中では、アラブの産油国が石油を政治的な手段として使った(注16)。石油の供給が絞られ、価格が急上昇すると、その影響は中東を越えて世界経済へ広がった。中東の石油が、地域の国家に収入をもたらすだけでなく、地域外の国々の経済や外交にも大きな影響を与える力を持つことがはっきり表れた。

    戦争を経て、エジプトは失った領土を外交によって取り戻す方向へ進み、アラブ世界全体でイスラエルに対抗する構図も変わっていった。

    第4節 戦争後に変わった中東

    1970年代に入ると、アラブ諸国は地域全体の統一よりも、それぞれの国家の利益や安全保障を強く意識するようになった。その変化がはっきり表れたのがエジプトだった。エジプトはソ連との距離を広げ、アメリカへ接近していった。その後、イスラエルとの和平(注17)へ進み、シナイ半島はエジプトへ返還された。アラブ諸国が一つになってイスラエルに対抗するという構図は、大きく変わった。

    一方、パレスチナ問題は残った。ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区は、その後もパレスチナ問題の中心となった。国境、安全保障、入植地、難民、パレスチナ国家の問題が重なっていく。

    イスラエルとパレスチナをめぐる対立には、ユダヤ人とパレスチナ人という文化・民族的な違い、20世紀に作られた国家と領土、イスラエルの安全保障、パレスチナ人の国家と生活の場、周辺のアラブ諸国、アメリカをはじめとする大国という複数の線が同じ土地の上に重なっていた。

    文化や民族の線と国家の国境線が、この土地で直接ぶつかることになった。

    さらに、外国の影響を退け、強い国家を作り、アラブ世界をまとめるという政治への期待が揺らぐ中で、別の政治運動が広がる余地も生まれた。その一つが、イスラムを政治や社会の中心に置こうとする運動(注H)だった。パレスチナでは、当初は民族解放を掲げる世俗的な組織が中心だったが、後には宗教を掲げる勢力も力を持つようになる。イランでは、王政と西側諸国との強い関係に対する不満が、宗教勢力を含む広い反体制運動へ集まっていった。

    1950年代から1960年代にかけて中東の政治を大きく動かしたアラブ民族主義は、中東戦争と各国の利害の変化を経て求心力を失っていった。その中で、宗教を政治の中心に置こうとする動きが次第に大きな力を持つようになっていく。



    注釈一覧

    (注1)

    中東という呼び方 もともとはヨーロッパから見た地理区分に由来する呼称で、含まれる範囲は使う人や時代によって変わる。本記事では、アラビア半島、シリア、イラク、レバノン、ヨルダン、イスラエルとパレスチナ、エジプト、イラン、トルコを中心に扱う。

    (注2)

    さまざまな宗派や共同体 スンニ派とシーア派の内部にも複数の流れがあり、どちらにも単純に収まらない共同体も存在する。イエメンやシリアの政治に関わってきた集団の中にも、こうした共同体を基盤とするものがある。

    (注3)

    イラン系の世界 言語の系統についての分類で、クルド語はペルシャ語と同じイラン系の言語に属する。言語が近いことと、政治的な立場や国家への帰属が一致するわけではない。

    (注4)

    言語的に近い文化的な系統 ヘブライ語とアラビア語は、ともにセム語派に属し、文法や語彙にも共通点がある。また、ユダヤ教とイスラム教の伝承では、アブラハムが重要な祖先として位置づけられている。

    (注5)

    カルバラー 現在のイラク中部にあたる地。フサインは少数の同行者とともに当時の王朝の軍に囲まれ、殺害された。この日はアーシューラーと呼ばれ、現在もシーア派社会では追悼の行事が行われている。

    (注6)

    宗教制度や学者の組織 サファヴィー朝は、他地域からシーア派の学者を招くなどして宗教教育や法の運用を担う層を育てた。この宗教学者の層が、後にイランの社会と政治で大きな役割を持つことになる。

    (注7)

    一定の自治 宗教共同体ごとに、宗教指導者を通じて信徒の身分や宗教上の事柄を扱わせる仕組みがあった。ミッレト制と呼ばれるが、制度として整理されたのは19世紀に入ってからで、それ以前は慣行に近い形で運用されていた。

    (注8)

    軍事や行政の改革 19世紀半ば、オスマン帝国は軍制、法制、税制、教育などを西欧の制度を参考に改める大規模な改革を進めた。タンジマートと呼ばれ、宗教による法的な区別を減らし、帝国の臣民を等しく扱う方向も打ち出された。

    (注9)

    イギリスの強い影響 第一次世界大戦後、旧オスマン領の多くは、国際連盟の下でイギリスとフランスが統治を委ねられる委任統治という形式に置かれた。将来の独立を前提とする建前だったが、実際には両国の影響が長く残った。

    (注10)

    クルド人が暮らす地域 第一次世界大戦の直後に結ばれた講和条約では、クルド人地域の自治や独立の可能性が示されていた。しかしその後の情勢の変化により、この条項を含まない条約が改めて結ばれ、実現しなかった。

    (注11)

    アラブ側との協力/ユダヤ人の拠点への支持 前者はフサイン=マクマホン書簡、後者は1917年のバルフォア宣言を指す。同じ時期には、イギリスとフランスの間で戦後の勢力範囲を分けるサイクス=ピコ協定も結ばれていた。三者は完全には整合していなかった。

    (注12)

    シオニズム 19世紀末のヨーロッパで、各地の民族運動が広がる一方、ユダヤ人への差別や迫害も強まった。そうした状況の中で、ユダヤ人が自らの国家を持つべきだという主張が組織的な運動として形をとった。

    (注13)

    大規模な迫害と虐殺 ナチス政権下のドイツと占領地域で行われた組織的な迫害と殺害を指し、犠牲者は約600万人と推計されている。ホロコーストと呼ばれる。

    (注14)

    ナクバ アラビア語で「大惨事」を意味する。1948年前後に故郷を離れた人の数は70万人前後と推計され、その帰還をどう扱うかは現在も交渉上の主要な論点の一つとなっている。

    (注15)

    占領した地域 戦争後の1967年、国連安全保障理事会は決議242号を採択し、イスラエル軍の占領地からの撤退と、地域の各国が安全な境界の中で生存する権利を含む原則を示した。撤退の範囲をどう読むかについては、その後も解釈が分かれてきた。この決議は後の和平交渉で繰り返し参照されることになる。

    (注16)

    石油を政治的な手段として使った 産油国が輸出の制限や停止を打ち出したことで、原油価格は数か月のうちに数倍へ上昇した。日本でも物価の急上昇や品不足が起き、オイルショックと呼ばれた。

    (注17)

    イスラエルとの和平 1979年に条約が結ばれ、アラブ諸国の中で初めてイスラエルを国家として承認した。この決定に反発したアラブ諸国は、エジプトの地域機構での資格を一時停止した。

    (注A)

    石油を中心とする資源 資源の輸出収入が国家財政の大部分を占める国では、政府が国民への課税に依存せずに統治を維持できる。このため、財政と政治参加の関係が、税を基礎とする国家とは異なる形になりやすいという指摘がある。こうした見方はレンティア国家論と呼ばれ、湾岸の産油国を説明する際にしばしば用いられてきた。ただし、資源収入があれば必ず同じ政治のかたちになるわけではなく、資源が乏しい国にも同種の統治が見られる例があるため、説明の一つの角度として扱われている。

    (注B)

    宗派の違いが政治的に強く意識される時代 スンニ派とシーア派の対立を、7世紀の分裂から現在まで途切れなく続いてきたものとして描く語り方がある。一方、近年の研究では、両者が長く共存してきた時期の方が長く、宗派が政治的な境界として前面に出るのは、国家が競合する局面や、国内で権力の配分が争われる局面であることが多いと指摘されている。本文が「どれほど政治的な意味を持つかは、国家同士の関係や国内政治によって変化する」と書いているのは、この論点と接する。

    (注C)

    シーア派を国家の宗教として広めた 宗教を国家統合の軸に据える政策は、この時代のヨーロッパでも見られたもので、サファヴィー朝に固有の発想ではない。ただしその過程は一様ではなく、他地域からの学者の招請、聖地や儀礼の整備、既存の宗教勢力への圧力など、複数の手段が長期にわたって用いられた。改宗が社会の広い層に定着するまでには一世紀以上を要したとする見方が有力で、王朝の決定がそのまま社会の変化になったわけではない。

    (注D)

    帝国の内側と外側の圧力 オスマン帝国を長期の停滞と衰退の物語として描く見方は、かつて広く用いられた。近年の研究では、19世紀の帝国が財政、軍制、教育の再編を進め、中央の行政能力をむしろ高めていた面が重視されるようになっている。この見方に立つと、帝国の縮小は内部の衰えの結果というより、ヨーロッパ諸国との力の差の拡大と、民族単位の国家という新しい秩序の広がりの中で生じた変化として理解される。

    (注E)

    現在につながる国家の枠組み 中東の国境は、大戦中にイギリスとフランスが交わした一本の取り決めによって決まった、と説明されることがある。実際には、その取り決めは戦後の交渉の出発点の一つにすぎず、現在の国境は複数の会議、現地の抵抗、両国の利害調整を経て段階的に定まった。また、境界が外部から引かれたことを不安定さの原因とする議論に対しては、国境の由来だけでは各国のその後の違いを説明できないという反論もある。

    (注F)

    ユダヤ側は分割案を受け入れ、アラブ側は拒否した この対応の背景には、双方それぞれの判断があった。ユダヤ側には、国家として国際的な承認を得る機会として受け入れる判断があった。一方、アラブ側には、人口や土地所有の状況に対して分割案の配分が大きすぎることや、住民の同意なしに外部から分割されることへの反発があった。本文はどちらの評価にも立たず、対応の事実のみを記している。

    (注G)

    アラブ民族主義 言語や歴史の共有を基礎に一つの政治的なまとまりを構想する点で、19世紀以降のヨーロッパの民族運動と共通する発想を持つ。同時に、この思想には初めから緊張が含まれていた。アラブ世界全体を一つにまとめようとする方向と、それぞれの国家が独自の利益と制度を固めていく方向は、必ずしも両立しない。実際、統合の試みは長続きせず、各国は自国の軍と官僚機構を強化していった。

    (注H)

    イスラムを政治や社会の中心に置こうとする運動 こうした運動には、異なる複数の流れがある。イランで宗教学者を中心に形成された流れと、20世紀前半からアラブ諸国で社会運動として発達した流れは、思想的にも組織的にも異なる。後者の内部でも、既存国家の中で政治・社会活動を続ける勢力と、武装闘争へ向かう勢力に分かれていった。

    1.参考資料
    森山央朗「第2章 スンナ派の宗派形成とイスラーム主義の系譜」『中東地域の現状と日本の外交』(平成27年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H27_Middle_East/02_moriyama.pdf

    池端蕗子「現代中東における宗派対立とヨルダンの宗派和合戦略」(2017年、『日本中東学会年報』第33巻第1号)

    URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajames/33/1/33_39/_pdf/-char/en

    下中菜都子「トルコにおける新憲法制定をめぐる議論」(2014年、国立国会図書館『レファレンス』)

    URL:https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8436646_po_075803.pdf?contentNo=1

    日本国際問題研究所『グローバル戦略課題としての中東 ―2030年の見通しと対応―』(2015年、平成26年度外務省外交・安全保障調査研究事業、日本国際問題研究所)

    URL:https://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/H26_Middle_East_as_Global_Strategic_Challenge/H26_Middle_East_as_Global_Strategic_Challenge.pdf

    松尾昌樹「レンティア国家論と湾岸諸国の「民主化」」(2004年、アジア経済研究所『現代の中東』第37号)

    URL:https://ir.ide.go.jp/record/28903/files/ZME200407_005.pdf

    国際連合広報センター「中東」(国際連合広報センター)

    URL:https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/mideast/

    外務省「安全保障理事会」『外交青書』昭和49年版(1974年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1974_1/s49-2-3-2.htm

    外務省「第4次中東戦争および中東問題関係」『外交青書』昭和49年版 資料編(1974年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1974_2/s49-shiryou-4-1-14.htm

    資源エネルギー庁「1.1.1 「エネルギー安全保障」をめぐる主要消費国の動向」『エネルギー白書2010』(2010年、経済産業省資源エネルギー庁)

    URL:https://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2010html/1-1-1.html

    資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史④】2度のオイルショックを経て、エネルギー政策の見直しが進む」(2018年、経済産業省資源エネルギー庁)

    URL:https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history4shouwa2.html

    外務省「我が国の対パレスチナ支援」(2026年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000040724.pdf

    2.深掘りするための一般書
    小杉泰『イスラームとは何か——その宗教・社会・文化』(講談社現代新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4061492101

    小杉泰『興亡の世界史 イスラーム帝国のジハード』(講談社学術文庫)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4062923882

    宮田律『物語 イランの歴史——誇り高きペルシアの系譜』(中公新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121016602

    林佳世子『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/406292353X

    宮田律『中東イスラーム民族史——競合するアラブ、イラン、トルコ』(中公新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121018583

    臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4062881896

    高橋和夫『パレスチナ問題の展開』(放送大学叢書、左右社)

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4865280073