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  • 第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)②

    4節.台湾出兵

    1871年(明治4年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件が発生した。生存者の一部は現地住民や清の官吏の手を経て救助され、のちに福建へ送られる。一報を受け取った政府が最初に突き当たったのは、法的・外交的な問いだった。犠牲となった人々を誰の保護下にある者とみなすのか、そして台湾南部で起きた出来事に誰が責任を負うのか、という点である。

    被害者は琉球の人々だった。琉球は清の冊封体制に組み込まれる一方、薩摩藩の支配も受けてきた経緯があり、その位置づけは単純に決まるものではなかった。しかも事件の起きた台湾南部は、すでにローバー号事件をめぐってアメリカ領事ル・ジャンドルらが対応に乗り出したことのある地域であり、清朝の統治がどこまで及んでいるのかそれ自体が争点になりうる場所だった。こうした条件が重なっていたため、事件は単純な漂着民保護の問題には収まらなかった。

    政府内部では、この事件を対外問題として処理すべきだという議論が強まっていく。武力による責任追及を求める声が出る一方で、政府はル・ジャンドルを顧問として迎え、台湾南部の統治の空白をどのような論理で扱いうるかを検討した。ル・ジャンドルは、ローバー号事件で清朝が台湾南部の先住民地域への責任を曖昧にした経験から、そこを清の実効支配が及ばない地域として扱い、「無主地」に近い発想で外部からの介入を正当化しうると見ていた。日本政府はその論理を、台湾出兵を国際法的に説明するための材料として利用しようとした。さらに、別の日本船が台湾に漂着して被害を受ける事件も起き、台湾南部をめぐる危険は一度きりの出来事ではないという認識が強まっていった。

    日本政府は清に対して、事件について責任ある対応を求めた。しかし清側は、被害者の送還には応じながらも、事件を起こした台湾南部の住民については、自らの統治の外にある者たちだという立場を示した。清にとって台湾南部は、領土の外ではないが、行政が一様に及ぶ場所でもなかった。清朝はこうした地域を「化外」の民が住む場として捉えており、そのため日本の介入は認められないが、事件の責任を国家として全面的に引き受けることも避けようとした。日本側から見れば、それは領土を主張しながら、その内部で起きた殺害事件の責任は引き受けないというものに映った。

    もっとも、出兵論が政府内外でそのまま受け入れられたわけではない。木戸孝允らは、いま優先されるべきは国家の内側を固めることだとして台湾出兵に反対した。琉球の位置づけがなお揺れている以上、清との関係を不必要に悪化させるべきではないという判断もそこにはあった。出兵をめぐる政府内部の対立は深く、外征を急ぐことは、内治優先の方針とも衝突していた。それでも大久保利通らは、清が責任を曖昧にしたままでは琉球の保護主体としての日本の立場も曖昧になると見て、最終的に出兵を押し進める側へ傾いていく。

    国外でもイギリス公使パークスらが強い警戒を示した。パークスにとって問題だったのは、日本の大義そのものより、その結果として清国内の英国の権益が損なわれ、英国人に被害が及ぶおそれがあることだった。日本の出兵は、清との局地的な問題にとどまらず、列強の通商秩序にも波及しうるものとして見られていた。

    それでも出兵を現実の選択肢として押し進めようとする動きは止まらず、1874年、日本政府は台湾への出兵を実行に移した。日本にとって重要だったのは、琉球の人々を自らが保護し代表すべき存在として、清朝と国際社会に認めさせることだった。清が台湾南部の事件について責任を曖昧にしたことは、その主張を押し出す材料にもなっていた。

    出兵に対して列強への根回しは十分ではなく、パークスはその手続きの欠落を紛争拡大の危険として受け取った。ル・ジャンドルの知見は出兵論に材料を与えたが、それはアメリカ政府が日本の行動を確実に支えることを意味しなかった。和議の形成において大きな役割を果たしたのは、東アジアの通商秩序の維持を自国の利益とするイギリスだった。出兵前には日本の行動を警戒していたイギリスも、出兵後には紛争の拡大を防ぐため、清と日本のあいだを調整する側へ回った。和議の結果、清は日本に対して見舞金・償費の支払いに応じ、日本はそれを受けて撤兵する。清が日本の立場を全面的に認めたわけではなかった。だが、清が宮古島島民を含む「日本国属民」への加害に対する出兵という日本側の論理を受け入れ、賠償に応じたことは、日本にとって決定的に大きかった。日本はこれを、琉球住民を自らの保護対象として扱いうる根拠として用い、その後の琉球処分を進める外交的足場としていく。この決着は、琉球をめぐる日本の主張を対外的に一歩前へ進めるものだった。

    5節.朝鮮問題と対外認識の転換

    琉球をめぐって清との境界線を押し出していく一方で、日本は朝鮮との関係でも、旧来の交隣秩序をそのまま続けようとはしなかった。明治新政府は、欧米から受け入れた新しい外交の形式で朝鮮と向き合おうとした。日本側には、開国し、欧米の制度や技術を取り入れることが、自国の安全保障につながるという経験があった。そのため、朝鮮にも同じように開国と制度改革を促すことが、東アジア全体の危機に備える道だという発想が生まれていた。

    だが朝鮮側から見れば、日本の働きかけはそのまま受け入れられるものではなかった。対馬を通じて維持されてきた従来の交渉手順を外し、天皇を前面に出した国書で関係を結び直そうとすることは、朝鮮側の王朝間秩序の中では大きな意味を持った。朝鮮には宗主国である清との関係があり、日本の新しい形式を受け入れることは、単に日本との手続き変更にとどまらず、清を中心とする秩序の中での自らの位置を揺らすことにもなりえた。日本のように、旧来の対外関係を一気に切り替えて欧米型の外交形式へ進むことは難しかった。朝鮮にとって、清との関係を維持することにも安全保障上の意味があり、従来の秩序を捨てることは容易ではなかった。明治新政府の国書を朝鮮が受け取らなかった問題は、このずれの中で起きた。

    征韓論政変によって即時強硬策はいったん退けられたが、朝鮮問題そのものは残った。1875年の江華島事件で、日本は雲揚号を朝鮮沿岸に接近させ、表向きには測量や航行の名目を取りながら、朝鮮側の現地部隊から強硬な反応を引き出す行動に出た。ここで日本が用いたのは、かつてペリーが日本に対して用いたやり方に近かった。軍事的圧力を背景に、閉ざされた外交の入口を開かせる。国書では開かなかった入口を、軍艦で開けに行ったのである。

    その延長に、1876年の日朝修好条規があった。条約では、朝鮮は「自主の邦」と記された。日本は、朝鮮を清との旧来秩序から切り離し、新しい条約外交の形式へ引き出そうとしたのである。だが、この文言がただちに朝鮮と清との関係を消し去ったわけではない。朝鮮はその後も清への朝貢と典礼を続け、現実には従来の秩序をなお残していた。朝鮮は、条約上は新しい外交形式に応じながら、清との関係も維持するという両面の対応を取ることになる。この両面外交は、外から見ればダブルスタンダードにも映りうるものだったが、朝鮮にとっては安全保障と国内秩序の両方を崩さないための対応でもあった。ただ、その曖昧さは、朝鮮内部の国論をまとめにくくし、のちに二つの事変へとつながる不安定さを残していく。

    日朝修好条規によって新しい関係は開かれたが、それだけで日本の影響力が朝鮮に安定して定着したわけではなかった。修信使の来日、通商章程交渉、釜山港での実務などを通じて、日朝関係は継続的に運用される段階へ入っていく。だが、その運用は滑らかには進まなかった。朝鮮は清との関係を残し、国内でも新しい外交関係をどう受け止めるかをめぐって揺れていた。日本にとって、条約で入口を開いただけでは足りなかった。朝鮮内部で自らに近い勢力を支え、影響力を増していく必要があると見られるようになっていく。

    その動きは、朝鮮内部の摩擦と結びついた。朝鮮では、王宮、政府、軍をめぐる対立が続き、軍の近代化も新式軍と旧式軍の分裂を生んでいた。やがて旧軍兵士の不満が爆発し、反乱は王宮と政権中枢を揺さぶり、日本公使館襲撃にまで及ぶ。これが1882年の壬午事変である。さらに1884年には、日本と結ぶ開化派が、現地の日本公使館の後押しを受けながら王宮を押さえ、新政府を立てようとしたが、清軍の介入によって短期間で崩れる。これが甲申事変だった。ここで見えるのは、日朝修好条規で開かれた新しい関係が、そのまま定着したのではなく、朝鮮内部の権力争いと日本の関与を通じて、より直接的な政治的・軍事的競合へ変わっていったということである。

    そして朝鮮内部の摩擦は、容易に清の介入を可能にした。朝鮮は日本のように海で隔てられた位置にはなく、清と陸続きで、清の軍事介入を受けやすい地政学的条件に置かれていた。そのため、王宮や政府をめぐる事件は国内の政争にとどまらず、ただちに日清関係の問題へ変わってしまう。壬午事変では清が介入し、甲申事変でも日本と結ぶ開化派の試みは清軍の対応によって崩れた。二つの事変を経て、朝鮮問題は日朝二国間だけでは処理できない問題だと突き付けられ、日本と清が正面から向き合う舞台へ押し上げられていった。

    この時点で、朝鮮をめぐる力関係では清が日本より優位に立っていた。清は朝鮮に対して宗主国としての立場を持ち、朝鮮と陸続きで、必要とあれば迅速に軍を送り込める条件を備えていた。これに対して日本は、海を越えて関与するほかなく、現地での影響力を維持するにも限界があった。日本は朝鮮を新しい条約外交の形式へ押し出そうとしていたが、現場ではむしろ清の力を避けて通れないことを思い知らされた。少なくとも朝鮮の現場では、日本は外交的に押し返された側だった。

    ここで表面に現れる理屈は、防衛線、朝鮮の不安定、清の介入、さらには幕末以来続いていたロシアへの警戒といったものだった。これらは単なる飾りではなく、実際に政策を動かす現実の材料でもあった。日本にとって、朝鮮を清との旧来秩序の中に置いたままにすることは、安全保障上の不安を残すことでもあった。だから日本は、朝鮮を清との関係から引き離し、新しい条約外交の形式へ置き直そうとした。

    しかし、その政策上の危機感と、国内で広がった対清感情とは、そのまま同じものではなかった。甲申事変ののち、国内では清に対する憤激が急速に高まった。政府は、現地の日本公使館と日本側の関与を前面には出さず、あくまで国王救援と公使館防衛の延長として事態を示しながら、日本人被害と清兵の行動を強く印象づける形で世論と向き合った。外交的に押し返された現実や、自らの関与の全体像は見えにくくなり、安全保障上の問題と、国内で受け取られる物語とのあいだにはずれが生まれていく。

    このずれを抱えたまま、伊藤博文は天津で李鴻章との交渉に臨んだ。日本政府は清との全面衝突を避ける必要があったが、国内世論の前で譲歩だけの結果を持ち帰ることもできなかった。他方の清も、朝鮮では優位に立っていたとはいえ、フランスとの戦争を抱えており、日本との対立をさらに広げる余裕は限られていた。天津条約が、日清両国の撤兵と、今後朝鮮へ出兵する場合の相互通知という形を取ったのは、このためである。

    条文だけを見れば、天津条約は比較的相互的な形を取っていた。だがその相互性は、純粋な対等の反映というより、それぞれ異なる制約と優先順位の中で作られた均衡の形式だった。天津条約は、朝鮮をめぐる日清の競合について、一旦時計の針を止めた。だが、それは解決ではなかった。止まった針は、条件が変わればまた動き出すことになる。

    朝鮮問題はこうして、日朝関係の枠を超えた。日本が朝鮮を新しい外交形式へ押し出そうとするほど、朝鮮内部の不安定さと清の存在が前に出てくる。さらに国内では、外交現場の現実とは別に、新聞や世論を通じて対清感情が強まっていった。天津条約はその衝突をいったん止めたが、問題を解いたわけではない。朝鮮問題は、日本が何を目指し、現場で何に直面し、国内でどう語られたのかというずれを抱えたまま残った。

  • 第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)①

    1節.新政府外交の出発

    明治新政府の外交は、旧幕府が残した条約をどう扱うかという問題から始まった。そこには、誰が日本を代表し、誰が対外責任を負うのかという問いが重なっていた。

    幕末には、条約上の相手として外国が向き合っていたのは幕府だったが、現実の政治力は朝廷、幕府、諸藩に分散し、外交主体と統治主体は必ずしも一致していなかった。新政府はこのねじれの上に出発し、自らが日本を代表する外交主体であることを示しながら、旧幕府が背負っていた条約と対外責任を国家として引き受ける必要があった。

    しかも、幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力は、明治新政府の担い手でもあった。旧体制を倒した側が、旧体制の結んだ条約と責任を引き受けなければならない。ここに、新政府外交の出発点にあった難しさがある。新政府は、幕府を否定しながらも、外国に対しては日本という国家の継続性を示さなければならなかった。

    旧幕府条約を継承するという問題は、それ自体として不平等条約改正の問題と同じではない。まず問われていたのは、政権が交代しても日本という国家は対外的に継続していると示せるかどうかだった。もし新政府が旧幕府条約を無効とみなし、対外責任を切り離そうとすれば、日本は政権が変わるたびに約束が揺らぐ国と見なされかねない。新政府は旧体制を否定しながらも、国家としての外向きの責任は引き受けざるを得なかった。

    その際の足場となったのが、幕末から受容されていた万国公法という語彙だった。万国公法は、日本が自らを近代国家として位置づけ、列国との関係を処理し、代表・責任・主権の問題を共通の言葉で語るための基盤となった。だがそれは、外国と話すための知識にとどまらない。新政府が、自らこそ日本を代表し、対外責任を担いうる主体であることを説明するための言葉でもあった。

    だからこそ新政府にとって重要だったのは、この政府は本当に日本を代表しているのか、という問いに答えることだけではなかった。この政府は本当に日本を代表できるのか。外国から見れば、より厳しく問われるのはそこだった。幕末のねじれを引き継いだ新政府は、まずその問いに答えられる国家の形を作らなければならなかった。

    2節.外交主体の一元化と条約改正への前提整備

    この問いに対して、明治政府がまず進めたのは、不平等条約改正そのものではなく、その交渉の土台に立てる国家の形を整えることだった。版籍奉還から廃藩置県へ進む中央集権化は、内政改革であると同時に、外国から見て責任主体が見える国家へ組み替える作業でもあった。国内の行動が分散したままでは、対外責任を一元的に引き受けることはできない。新政府は、幕末に露わになった代表と責任のずれを、国家の内側から処理しようとした。

    この作業には、時間的な圧力もあった。安政五カ国条約の改定時期は1872年7月に迫っており、その一年前には改定通告が必要だったため、政府はその時期に備えて国内改革を進める必要があった。1871年に伊藤博文が「外国交際・条約・貿易規則等を調査」して翌年の改定交渉に備えるべきだと建言し、廃藩置県後の1871年秋に使節派遣が具体化したのは、その文脈で理解するのが自然である。

    国内の一元化は、単に中央へ権力を集めることだけを意味しなかった。幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力が新政府の担い手になった以上、新政府は自分たちの側から次のねじれを生まないことも示す必要があった。旧幕府のように、中央政府とは別の勢力が独自に対外行動を起こし、その処理だけが政府に返ってくる構造を繰り返すわけにはいかなかった。だからこそ、藩を解体し、地方の軍事・行政・財政を中央へ回収していくことは、内政上の権力再編であると同時に、対外的な責任主体を作る作業でもあった。

    その後に続く廃刀令、秩禄処分などの改革も、この流れの中に置いて見ることができる。これらは士族身分の解体や国家財政の再編という内政改革であったが、同時に、政府の外側に武力や独自の政治的求心力を残さないための改革でもあった。もちろん、それだけで説明できるものではない。それでも、明治政府が国内の反乱や権力闘争の芽を強く警戒し、外国から見ても一つの政府が責任を負う国家として見える形を作ろうとしていたことは重要である。

    日本に秩序を支える仕組みがなかったわけではない。問題は、その仕組みの切り方が欧米側の見慣れた国家の形とかなり違っていたことにあった。たとえば町奉行は、行政・司法・警察・消防などを一体として担っており、江戸の統治は役割ごとに横に分けるより、土地ごとに機能を束ねる発想で組み立てられていた。だから中央集権化とは、単なる権力集中ではなく、土地ごとに束ねられていた秩序を、行政・司法・警察といった役割ごとに分けて担う国家へ組み替えることでもあった。

    条約改正に先立って新政府が必要だったと考えたのは、国内の行動と責任を一元化し、外国から見ても日本を代表できる国家の形を整えることだった。

    3節.岩倉使節団が見た改正条件

    こうして政府は、改定時期の到来を見越し、廃藩置県後の国内改革を踏まえて、視察と予備交渉を兼ねた岩倉使節団を派遣した。日本側には、国内改革もある程度進み、条約改正の時期も近づいている以上、視察の延長で交渉の入口に立てるのではないかという感覚があったと見てよい。だが実際に欧米へ出てみると、相手が見ている条件は、日本側の想定よりはるかに厳しかった。使節団がここで知ったのは、改定時期の到来はゴールではなく、ようやく再交渉の入口に立てるという意味にすぎないという現実だった。

    最初の訪問国アメリカで、使節団は早くもつまずく。条約改正交渉に必要な全権委任状を持っていないことを指摘され、大久保利通と伊藤博文は一時帰国して委任状を受け、再渡米することになった。だが、問題は委任状だけでは終わらなかった。委任状を得た後もアメリカ側は日本の主張を受け入れず、交渉は失敗に終わる。ここで露わになったのは、日本側が「これだけ整えれば交渉に入れる」と考えていた条件と、相手が実際に見ていた条件との隔たりだった。しかもその隔たりは、外交文書の形式だけにとどまらない。片務的最恵国条項の存在は、ある国と話をまとめても他の条約国との関係まで連動するという厳しい現実を突きつけた。

    使節団が直面した条件は、条文や外交儀礼の外側にも広がっていた。キリスト教政策もまた交渉条件に食い込んでいた。国内では秩序維持として処理されていた政策が、対外的には「この国に自国民を委ねられるのか」という評価を左右する材料になっていたのである。ここで神戸事件を並べて見ると、問題はさらにはっきりする。そこでは、責任の認定、謝罪の示し方、処罰の執行、しかもその執行を外国側に見せることまで含めて、欧米諸国の制度感覚から見ても異質な景色が広がっていた。キリスト教政策と神戸事件は性質が違う。だが二つを並べると、問題になっていたのは日本の制度が単純に「遅れていた」ことではなく、責任の取り方、処罰の意味、秩序維持の考え方そのものが欧米側とずれていたことだったと分かる。

    使節団が見たのは、制度や儀礼を整えればすぐに対等化へ進めるという単純な世界ではなかった。司法制度、宗教政策、外交文書の形式は確かに問われた。だがそれらは、条約改正を拒むための理由であると同時に、列強が優位な立場を保つための基準でもあった。日本がその基準に近づくことは必要だったが、それだけで相手が対等を認めるわけではなかった。

    条約改正の条件には、表面と本質の二層があった。表面では、司法制度、外交プロトコル、宗教政策、条約文言、最恵国条項といった条件が持ち出された。つまり「条約改正を望むなら、まずはこちらが運用可能だと思える国家になれ」という話である。だがその下にあった本質は、条約改正が正しさを示せば進む話ではなく、最終的には国力と武力の差を背景にした秩序の問題だったということだった。制度を整えることは必要だったが、それは善意で対等を認めてもらうためではない。制度を整え、国家の責任主体を見えるようにし、そのうえで工業化と軍備拡充を進め、ようやく改正を迫りうる位置に近づくためだった。

    使節団が知ったのは、不平等条約を改正するには、相手と同じ言葉と形式で交渉し、その条件に見合う国家の形を自ら整えていくしかないという現実だった。ここで参照されたのが、幕末以来学ばれてきた万国公法である。万国公法は、日本が自らを近代国家として語り、条約改正を求めるための共通語彙であったが、同時に日本が欧米秩序の基準の中で自らを測り直すことでもあった。したがって改正に向けた課題は、単に条約文言を書き換えることではなく、欧米との交渉と通商を運用しうる国家へ自らを作り替えていくことにあった。その作業は法制度や行政機構の整備にとどまらず、工業化と軍備の拡充を含む国家の外形と実力の組み替えとして、次第に前面へ出てくることになる。

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)③

    第5節 高成長が吸収した矛盾

    高度成長の果実は、比較的広く社会に配られていた。
    ただし、その配分は均質ではなく、特定の場所や人々、そして未来へと負担を偏らせることで成り立っていた。
    高度成長の特徴は、成長の果実を広く配りながら、その裏の負担を全体の限界として見えにくくしたところにある。
    この時代の安定は、矛盾が消えていたからではなく、負担の所在が偏りながらも、成長の勢いによって全面化しにくかったから成立していたのである。

    最初に見なければならないのは、地域が引き受けた負担である。
    高度成長は、日本全体を均等に押し上げたわけではなかった。
    工業化と都市化が進むほど、人も資本も情報も、より成長率の高い都市部へ集中していく。
    地方から都市へ若年労働力が流れ、都市は拡大し、地方は人口流出と高齢化の兆しを抱え始める。
    都市にとっては成長の条件であり、地方にとっては活力の流出でもあった。
    この移動は、日本全体の生産性上昇という意味では合理的だった。
    その合理性は、地方側から見れば必ずしも中立ではない。
    高度成長は、成長する場所と、そこへ人を送り出す場所とのあいだに、目に見えにくい非対称を広げていった。

    特定の地域と住民が引き受けた負担も大きい。
    人口と産業が急速に集中すれば、住宅不足、通勤混雑、交通渋滞、インフラ不足は避けがたい。
    都市の発展は、最初から快適で均整の取れた生活環境を保証するものではなかった。
    都市は豊かになったが、同時に、豊かさに追いつかない生活環境の歪みも抱え込んでいった。
    その歪みがもっとも激しく現れたのが、公害である。
    工場が立ち並び、生産が拡大し、エネルギー消費が増えれば、煙や排水や廃棄物もまた増える。
    生産拡大そのものが国家的な優先課題であった以上、環境への負荷は長く「成長のコスト」として受け流されやすかった。
    公害は単なる事故や逸脱ではなかった。
    成長を最優先し、副作用への対応を後段に回す社会の進み方そのものから生まれていた。
    被害は日本社会全体に均等に広がったのではなく、特定の地域や住民に偏って引き受けられていた。
    高度成長の成功は、その意味でも負担の偏った配分の上に成り立っていたのである。

    労働者と家計が引き受けた負担も見落とせない。
    雇用は増えたが、その日常は長時間労働や企業中心の生活によって支えられていた。
    過密な職場環境や都市流入者の不安定な住環境も、その重さの一部だった。
    成長の果実は比較的広く配られていたが、その果実を支える日常は、必ずしも軽いものではなかった。
    企業社会への強い組み込みは、安定の源泉であると同時に、生活の重心を会社へ大きく傾けることでもあった。

    家計の安定や大衆消費社会の成立は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業にも支えられていた。
    当時は、男性賃金を中心に家計を組み立て、女性が家事、育児、家計管理を引き受けるモデルが広がっており、それが成長期の生活安定の一部を支えていた。
    この分業は、家計の効率性と引き換えに、生活世界の分離も進めた。
    男性は家庭への参加を相対的に減らしながら会社へ強く組み込まれ、女性は社会参加の幅を狭めながら家庭の維持を担うことになりやすかった。
    都市部での核家族化は、家族と地域の結びつきの形を変え、会社が地域に代わる主要な共同体として膨らむ余地も広げた。
    ここにも、高度成長が経済特化と速度特化を進めるなかで、生活の編成そのものを組み替えていった一面がある。

    高度成長の成功は、その場で解消できない負担を次の時代へ送ることによっても成り立っていた。
    日本は、アメリカ主導の固定相場と対米市場へのアクセスによって大きな利益を受けた。
    その意味は、外部条件の変化に強く左右される構造を同時に抱え込むことでもある。
    輸出が伸びるほど対米摩擦の芽は育ち、工業化が進むほど海外資源への依存も深まる。
    投資主導の成長回路も、雇用・所得・消費の安定も、高成長が続くことを前提にしていた。
    この時代の日本は、問題をその場で処理したというより、高成長の継続によって次の時代へ押し出していたのである。

    高度成長は、多くの人の生活を実際に引き上げた。
    だからこそ、その成功の内部に埋め込まれていた負担の配分も、あわせて見なければならない。
    地方が引き受けた負担、特定地域や住民が引き受けた負担、労働者と家計が引き受けた負担、そして次の時代へ送られた負担。
    これらは成長の失敗ではない。
    成長が強く機能したからこそ、その内部で見えにくくなっていた矛盾である。

    高度成長の時代を「良い時代」としてだけ記憶すると、その矛盾は見えない。
    逆に、「問題だらけだった」としてだけ裁くと、なぜ人々がその時代を支持しえたのかが見えない。
    この時代の日本は、たしかに成長していたし、その果実は多くの人の生活を前進させた。
    そのため、成長の裏で蓄積していた問題は、すぐには全体の限界として意識されにくかった。
    高度成長の本当の強さとは、成長そのものが負担を分散し、吸収し、先送りできるだけ十分に強かったところにあった。

    その容器にも限界はある。
    高成長が続くことを前提にした社会は、その前提が揺らいだとき、初めて自分が何を吸収していたのかを知ることになる。
    一九七三年以前の日本にも、すでに多くの問題は存在していた。
    高成長という強い流れが、それらを表面化しにくくしていたのである。


    第6節 1973年を前にして

    高度成長の終わりは、一九七三年の石油危機だけで突然訪れたものではなかった。
    その前から、固定相場制と対米関係という外部条件には揺らぎが生まれていた。
    石油危機は、その揺らぎを一気に前景化させたのである。
    ここで揺らいだのは、政策や景気だけではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいのかという感覚そのものだった。

    最初に揺らいだのは、固定相場制と対米関係である。
    戦後日本の高成長は、固定相場制と対米市場という安定した国際環境の上に立っていた。
    日本の輸出競争力が高まり、貿易黒字が拡大していくほど、その安定はアメリカにとって無条件に受け入れられるものではなくなっていく。
    日本にとって有利だった条件は、相手にとっては不均衡の拡大でもあった。
    高度成長を支えていた外部条件は、その成功ゆえに摩擦の種も育てていたのである。

    その象徴がニクソン・ショックである。
    一九七一年、アメリカはドルと金の交換停止を打ち出し、ブレトンウッズ体制の前提を崩した。
    日本にとっては、長く成長の基盤となってきた固定相場の安定が、もはや当然ではないことを突きつけられた出来事だった。
    円は切り上げを迫られ、輸出主導型成長の前提も再考を迫られる。
    成長の回路が強く外需と為替の安定に依存していた以上、固定相場制の揺らぎは、単に輸出企業の収益を揺らすだけではない。
    日本経済全体が、これまでのような外部条件の上に成り立ち続けられるのかどうかを問うものだった。

    一九七三年の第一次石油危機は、外からの衝撃であると同時に、高度成長の内部にあった脆さを一気に表面化させた出来事だった。
    その衝撃が大きく響いたのは、日本の成長がすでに外部資源への依存を深め、高成長の継続を社会全体の安定条件にしていたからである。
    石油危機は、新しい問題を持ち込んだというより、高度成長を支えていた前提の脆さを露出させた。

    ここで終わったのは、成長そのものではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいという感覚だった。
    成長の勢いの中で後景へ退いていた矛盾は、この境目から別の重みを持ち始める。
    日本経済はここで、成長率が高くなくても社会をどう維持するのかという次の問いを抱えて動き出す。


    1章:参考資料

    ・中村隆英『The Postwar Japanese Economy: Its Development and Structure, 1937-1994』
    ・Chalmers Johnson, MITI and the Japanese Miracle
    ・Andrew Gordon, A Modern History of Japan
    ・内閣府 経済社会総合研究所「国民経済計算年次推計」