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  • 第2章 低成長への適応(1973-1985)②

    4.生活防衛と貯蓄

    ー家計が支えた安定ー

    低成長への適応は、雇用、所得、消費、生活費を通じて、国民生活の中にも現れていく。物価が上がり、所得の伸びが鈍り、将来への不安が強まる中で、家計は日々の暮らし方を変えていった。国民は、生活を守るための選択を重ねながら、少しずつ低成長の時代に適応していった。

    石油価格の上昇は、生活費の圧迫として家計に現れた。エネルギー価格や原材料価格の上昇は、製品や生活必需品の価格にも波及する。高度成長期には、所得の伸びが物価上昇を吸収する部分も大きかった。低成長に入ると、同じ物価上昇でも、家計にとっての重さは増していく。物価は統計上の数字である前に、日々の買い物や光熱費の中で実感される負担だった。

    家計は、その負担に対して消費を見直し、生活防衛を強めていった。高成長期に広がった大衆消費社会は、ここで別の姿を取り始める。所得の伸びに合わせて消費を広げていく動きは弱まり、家計は必要なものを選び、支出を抑え、将来に備える方向へ向かった。

    この生活防衛は、社会の回路を閉じない役割も持った。急激に消費が崩れれば、企業の売上は落ち、雇用や取引にも影響が及ぶ。家計は支出を抑えながらも、生活を完全に閉じるのではなく、必要な消費を続け、雇用の安定を求め、将来に備える方向へ動いた。家計は、物価上昇と低成長を受け止める調整の場にもなっていった。

    その生活防衛は、貯蓄という形でも現れた。家計にとって貯蓄は、将来不安に備えるための手段だった。預金として金融機関に集まった資金は、銀行を通じて企業の設備更新や運転資金にも回っていく。国民が消費を抑え、貯蓄を厚くすることは、生活を守る行動であると同時に、金融機関を通じて企業や経済を支える資金の源泉にもなっていた。

    雇用の安定も、国民が低成長を受け止めるうえで大きな条件だった。所得の伸びが鈍っても、仕事が維持されることは生活の土台になる。企業が合理化を進めながら雇用をできるだけ維持しようとしたことは、社会の急激な不安定化を避ける力になった。その安定の下で、賃金の伸び悩み、労働現場での効率化圧力、家計のやりくりを通じて、低成長の負担は生活の中に分け入っていった。

    国民は、負担を受け止めるだけの存在ではなかった。生活防衛として消費を抑え、貯蓄を厚くしたことは、家計を守ると同時に、金融機関を通じて企業の調整を支える資金にもなった。企業が量を支える質を鍛え、政府と金融がその時間と資金を支え、家計が貯蓄によって金融の土台を作る。この役割分担があったからこそ、低成長への移行は、社会の大きな崩れに直結しにくかったのである。

    5.内で分散し、外で稼ぐ

    ー外需依存と対外不均衡ー

    国内では、企業、国家、金融、家計がそれぞれの場所で衝撃を分散していた。企業は生産の仕組みを変え、政府と日銀は景気と物価の急変を抑え、金融機関は企業への資金回路を保ち、家計は生活防衛と貯蓄によってその回路を支えた。高成長の前提を失ったあとも、衝撃が一か所に集中しなかったことが、低成長への移行を社会の大きな崩れに直結させにくくした。だが、衝撃を分散するだけでは、必要な成長分までは生まれない。

    家計の貯蓄は、金融機関を通じて企業の設備更新や運転資金を支えた。しかし、貯蓄が厚くなるということは、同時に消費として国内需要を押し上げる力が抑えられることでもあった。生活防衛として資金が貯蓄へ向かるほど、企業の適応を支える金融の回路は太くなる一方で、消費を通じて国内需要を広げる力は強まりにくかった。

    国内消費や国内投資は、日本経済の土台であり続けた。だが、その土台を痩せさせないためには、企業収益、雇用、賃金、税収を支える成長分が必要だった。低成長の中で問われたのは、その追加的な成長分をどこで作るのかだった。国内で衝撃を分散し、家計の貯蓄が企業の適応を支える一方で、消費主導の国内循環だけでその伸びを作り続けることは難しくなっていく。そこで、輸出と海外市場が大きな役割を持つようになっていった。

    国内で進んだ効率化と安定化は、海外市場では日本企業の競争力として現れた。企業は省エネルギー化や合理化によって生産の仕組みを変え、品質と効率を高めていった。その成果は、自動車、電機、精密機械のような分野で強く表れた。国内で作られた適応は、海外市場で競争力を発揮しやすい改善にもなっていった。

    この時期の日本では、国内循環を土台にしながらも、企業の競争力を海外市場で実現する比重が高まっていった。外需依存とは、単に輸出が増えたという話ではない。国内で分散した衝撃を、そのまま国内だけで処理し続けるのではなく、海外市場で得た成長分によって、雇用、所得、投資、税収の回路を痩せさせない構造である。外需は、国内循環の外側にある飾りではなく、低成長下の国内秩序を支えるための外側の栄養源になっていた。

    しかし、外で稼ぐ力が強まるほど、その成果は外との摩擦も生みやすくなる。国内で見れば、日本企業の競争力は低成長への適応の成果だった。しかし、輸出が伸びれば、相手国では輸入の増加として現れる。日本が貿易黒字を積み上げるということは、相手国の貿易赤字と結びつくということでもあった。

    内で分散し、外で稼ぐ構造は、国内では安定を支えた。しかしその安定は、貯蓄が企業の適応を支える一方で、消費の伸びを抑えるという形を含んでいた。国内消費の力強い拡大によって成長分を作るのではなく、外で稼いだ成長分を国内の安定の栄養源にする。その構造が続くほど、貿易不均衡は外側に蓄積していく。一九八五年のプラザ合意は、その構造が為替の場で調整を迫られる入口だった。

  • 第2章 低成長への適応(1973-1985)①

    一九七三年から一九八五年、衝撃分散と質的再編ー

    1.前提の崩壊

    ー固定相場制と石油危機ー

    高度成長期の日本には、復興需要があり、戦前から残された産業の土台があり、企業は設備投資を進め、金融機関は資金を供給した。政府もまた、成長の回路を整えていった。

    しかし、それだけではなかった。日本の外部には、アメリカを中心とする国際秩序があり、固定相場制による為替の安定があり、広がり続ける海外市場があり、比較的安いエネルギーがあった。高度成長とは、国内の努力と外部条件がかみ合った時代でもあった。

    一九七〇年代に入ると、その外部条件が大きく揺らぎ始める。大きなきっかけが、いわゆるニクソン・ショック、すなわち戦後の国際経済を支えてきたブレトンウッズ体制の終焉だった。

    アメリカのドルを軸にし、金との交換可能性によって支えられていた通貨秩序は、世界経済の拡大とドルへの信認低下の中で限界を迎えた。ドルと金の交換停止によって、その通貨秩序は大きく変わった。日本もまた、一ドル三六〇円という固定された為替相場のもとで、輸出を伸ばしてきた。しかし、その前提は崩れた。為替は固定された土台ではなく、変動すること自体が前提条件になった。

    もう一つの大きな衝撃が、石油危機だった。高度成長期の日本は、安い輸入エネルギー、とりわけ石油に大きく依存していた。生産、物流、生活のいずれにおいても、石油は成長の土台に組み込まれていた。

    そこに、第四次中東戦争を背景とした産油国の供給制限と価格引き上げが重なり、石油価格は急騰した。しかもそれは、一時的な混乱にとどまらず、安い石油を前提にした時代の終わりを意味していた。企業の生産コストは上がり、生活に必要な費用も上がった。固定相場制の終焉が外との交換条件を変えたのだとすれば、石油危機は、国内で生産し、生活するための費用を変えたのである。

    石油価格の上昇は、国民生活にも波及した。エネルギーや原材料の価格が上がれば、製品や生活必需品の価格にも影響が及ぶ。実際、一九七〇年代前半の日本では、物価が急激に上昇し、いわゆる狂乱物価と呼ばれる状況が生まれた。

    高度成長期にも物価上昇はあったが、その多くは所得の伸びによって吸収されていた。この時期には、物価上昇そのものが生活の不安として意識されるようになった。成長の中に埋もれていた負担が、生活費の上昇として表に現れたのである。

    一九七〇年代前半には、為替の安定が失われ、安いエネルギーの前提が崩れ、物価上昇が生活の表面に現れた。日本経済は、拡大を前提にして走る時代から、制約の中で調整しながら進む時代へ入っていった。

    ここで問われたのは、誰か一つの主体が危機を解決することではなかった。企業は生産の仕組みを変え、政府と日銀は景気と物価の急変を抑え、金融機関は資金の回路を保ち、国民は生活の中で負担を受け止める必要があった。高成長の前提が崩れたあと、日本経済は、その衝撃を一か所に集中させず、どう分散して受け止めるかを問われる時代へ入っていった。


    2.量を支える質

    ー省エネルギー化と合理化ー

    為替は固定された土台ではなくなり、エネルギーは安く使える前提ではなくなった。企業に求められたのは、高いエネルギー価格と為替変動の中でも生産を続け、国内外の市場で売り続けるために、量を支える質を高めることだった。

    石油価格の高止まりは、企業にとって大きなコスト圧力になった。企業は、省エネルギー化や合理化を進め、生産工程や設備のあり方を見直していく。エネルギーの使用量を抑え、無駄を減らし、品質や効率を高めることで、コスト上昇を吸収しようとしたのである。

    省エネルギー化と合理化は、単なる節約ではなかった。高いエネルギー価格と為替変動を前提に、競争力を維持するための生産の組み替えだった。

    その変化は、エネルギーの使い方にも表れた。第一次石油危機後、日本では実質GDPが伸びる一方で、エネルギー消費の伸びは強く抑えられていく。経済を動かす量を保ちながら、そこに必要なエネルギーを絞っていく。この切り離しは、単なる節電ではなく、生産の仕組みそのものの作り替えだった。

    高成長期に大きくなった経済の身体を、低成長の条件の中で動ける身体へ作り替える。これが、この時期の企業適応の核心だった。

    その変化は、産業の重心にも表れていく。エネルギーを大量に使う産業は、石油価格の上昇によって強い圧力を受けた。一方で、自動車、電機、精密機械のように、効率や品質、技術によって競争力を高める産業の存在感は増していった。

    産業構造が一気に入れ替わったわけではない。それでも、成長を支える中心は、量とエネルギーに大きく依存する分野から、効率と品質によって付加価値を生む分野へ、少しずつ移っていった。

    生産現場でも、無駄を削り、在庫を減らし、工程を詰める発想が強まっていく。ジャスト・イン・タイムのような考え方は、単なる工場管理の技術にとどまらない。限られた資源を、できるだけ無駄なく生産と利益へつなげるための感覚でもあった。高成長期のように、量の拡大が多くの粗さを覆ってくれる時代ではなくなる中で、企業は量を支える質を内部から鍛え直していった。

    省エネルギー化や合理化は、企業ごとの努力によって進められていった。労働現場では、生産工程を見直し、無駄を減らし、限られた人員や設備でより高い効率を求める動きが強まった。中小企業や下請け企業も、厳しい条件の中で技術を磨き、納期や品質への対応力を高めながら適応していった。

    一方で、取引関係の中では、コスト削減の一部が下請けや中小企業に転嫁される場面もあった。企業の適応は、現場ごとの工夫と努力によって支えられながら、同時に負担の置き場所を変えていく過程でもあった。

    企業は、外部条件の変化を、生産の仕組みの中で受け止めていった。省エネルギー化、合理化、品質や効率の改善は、企業の利益を守るだけのものではない。コスト上昇を吸収し、雇用を維持し、取引を続け、国内外の市場で売り続けるための仕組みだった。企業は、石油危機と為替変動の衝撃を、生産構造の中へ分散して吸収したのである。

    ただし、企業だけでこの調整が成り立ったわけではない。設備を更新し、生産を続け、取引を維持していくには、資金の流れや景気の下支え、物価への対応が必要だった。企業が生産の仕組みを鍛え直すためには、その時間と資金を支える回路が必要になる。そこで前に出てくるのが、政府、日銀、金融機関だった。


    3.時間と資金の回路

    ー財政・日銀・金融機関ー

    政府、日銀、金融機関が支えたのは、企業の代わりに成長を作ることではなかった。企業が生産の仕組みを組み替えるための時間と資金、そして物価の見通しだった。

    政府は、財政支出によって景気を下支えした。公共投資や各種支出を通じて需要を保ち、一九七五年には赤字国債の発行に踏み切る。高度成長期のような自然な税収増を前提にできなくなる中で、政府は借金を通じて景気を支える局面に入った。

    この財政支出は、単に景気を押し上げるためのものではなかった。需要が急落すれば、企業の取引は細り、雇用も揺らぎ、地域経済にも波及する。政府は財政によって、その連鎖が一気に切れることを防ごうとした。赤字国債は将来の負担の芽でもあったが、この局面では、需要の穴を埋め、企業が生産の仕組みを組み替えるための時間を稼ぐ手段でもあった。

    八〇年代に入ると、赤字国債の発行は財政運営への負担も意識させるようになり、行政改革や民営化を通じて政府部門を引き締めようとする動きも強まっていく。ただし、この点を厚く扱うのは次の局面でよい。ここで重要なのは、財政が低成長への移行を支える緩衝材として前面に出てきたことである。

    日銀は、石油危機後のインフレに対して金融引き締めで対応した。公定歩合を引き上げ、過熱した物価を抑え込もうとしたのである。狂乱物価のあと、物価安定は経済運営の大きな課題になった。

    金融引き締めは、景気や企業活動に痛みを与える対応でもあった。しかし、物価上昇が続けば、企業は将来のコストを読みにくくなり、家計は生活費への不安を強める。日銀は、通貨と物価への信任を取り戻すために、経済全体の熱を冷ましていった。物価の安定は、企業が長い目で省エネルギー投資や設備更新を進めるための予測可能性にもなった。

    金融機関は、企業の調整を資金面から支えた。銀行は、企業との継続的な取引関係をより深め、省エネルギー投資、設備更新、運転資金を支えていく。企業が生産の仕組みを変えるには、資金が必要だった。銀行を中心とする金融機関は、融資を通じて、企業が新しい条件に適応するための回路を保った。

    重要なのは、資金の流れがそこで閉じなかったことである。企業が今日明日の資金繰りだけに追われれば、生産の仕組みを作り替える余裕は失われる。金融機関の融資は、企業が低成長の条件に合わせて身体を鍛え直すための回路になった。

    政府、日銀、金融機関の対応は、それぞれ別の方向から低成長への移行を支えていた。政府は需要の急落を和らげ、日銀は物価への信任を取り戻し、金融機関は企業への資金回路を保った。これらが噛み合ったことで、コスト上昇や不況の衝撃は一か所に集中しにくくなり、企業が鍛え直すための猶予が生まれた。

    この役割分担が機能したのは、高成長期に速度重視で拡大してきた経済の中に、まだ使える余白が残っていたからでもある。企業には、生産工程を詰め、エネルギーの使い方を見直し、品質と効率を高める余地があった。政府には、赤字国債という負担を伴いながらも、財政で需要の急落を和らげる余地があった。日銀には、公定歩合を通じてインフレを抑える手段があり、金融機関には、企業へ資金を流す継続的な関係があった。家計にも、雇用を土台に生活を守り、貯蓄を通じて金融の資金源となる余力があった。速度優先で広げられた経済の身体には、削れる場所、組み替えられる場所、支え直せる場所が、まだ残っていたのである。

    ただし、この安定は負担を消したものではなかった。財政による下支えは赤字という形で将来の財政運営に影を落とし、金融引き締めは物価を抑える一方で景気や企業活動に圧力をかけた。銀行と企業の関係は調整を支えたが、資金の流れを既存の関係の中に留めやすくもした。そして、それらの調整は制度や企業の内部だけで完結しない。雇用、所得、消費、生活費を通じて、国民生活の側にも現れていくことになる。

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)③

    第5節 高成長が吸収した矛盾

    高度成長の果実は、比較的広く社会に配られていた。
    ただし、その配分は均質ではなく、特定の場所や人々、そして未来へと負担を偏らせることで成り立っていた。
    高度成長の特徴は、成長の果実を広く配りながら、その裏の負担を全体の限界として見えにくくしたところにある。
    この時代の安定は、矛盾が消えていたからではなく、負担の所在が偏りながらも、成長の勢いによって全面化しにくかったから成立していたのである。

    最初に見なければならないのは、地域が引き受けた負担である。
    高度成長は、日本全体を均等に押し上げたわけではなかった。
    工業化と都市化が進むほど、人も資本も情報も、より成長率の高い都市部へ集中していく。
    地方から都市へ若年労働力が流れ、都市は拡大し、地方は人口流出と高齢化の兆しを抱え始める。
    都市にとっては成長の条件であり、地方にとっては活力の流出でもあった。
    この移動は、日本全体の生産性上昇という意味では合理的だった。
    その合理性は、地方側から見れば必ずしも中立ではない。
    高度成長は、成長する場所と、そこへ人を送り出す場所とのあいだに、目に見えにくい非対称を広げていった。

    特定の地域と住民が引き受けた負担も大きい。
    人口と産業が急速に集中すれば、住宅不足、通勤混雑、交通渋滞、インフラ不足は避けがたい。
    都市の発展は、最初から快適で均整の取れた生活環境を保証するものではなかった。
    都市は豊かになったが、同時に、豊かさに追いつかない生活環境の歪みも抱え込んでいった。
    その歪みがもっとも激しく現れたのが、公害である。
    工場が立ち並び、生産が拡大し、エネルギー消費が増えれば、煙や排水や廃棄物もまた増える。
    生産拡大そのものが国家的な優先課題であった以上、環境への負荷は長く「成長のコスト」として受け流されやすかった。
    公害は単なる事故や逸脱ではなかった。
    成長を最優先し、副作用への対応を後段に回す社会の進み方そのものから生まれていた。
    被害は日本社会全体に均等に広がったのではなく、特定の地域や住民に偏って引き受けられていた。
    高度成長の成功は、その意味でも負担の偏った配分の上に成り立っていたのである。

    労働者と家計が引き受けた負担も見落とせない。
    雇用は増えたが、その日常は長時間労働や企業中心の生活によって支えられていた。
    過密な職場環境や都市流入者の不安定な住環境も、その重さの一部だった。
    成長の果実は比較的広く配られていたが、その果実を支える日常は、必ずしも軽いものではなかった。
    企業社会への強い組み込みは、安定の源泉であると同時に、生活の重心を会社へ大きく傾けることでもあった。

    家計の安定や大衆消費社会の成立は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業にも支えられていた。
    当時は、男性賃金を中心に家計を組み立て、女性が家事、育児、家計管理を引き受けるモデルが広がっており、それが成長期の生活安定の一部を支えていた。
    この分業は、家計の効率性と引き換えに、生活世界の分離も進めた。
    男性は家庭への参加を相対的に減らしながら会社へ強く組み込まれ、女性は社会参加の幅を狭めながら家庭の維持を担うことになりやすかった。
    都市部での核家族化は、家族と地域の結びつきの形を変え、会社が地域に代わる主要な共同体として膨らむ余地も広げた。
    ここにも、高度成長が経済特化と速度特化を進めるなかで、生活の編成そのものを組み替えていった一面がある。

    高度成長の成功は、その場で解消できない負担を次の時代へ送ることによっても成り立っていた。
    日本は、アメリカ主導の固定相場と対米市場へのアクセスによって大きな利益を受けた。
    その意味は、外部条件の変化に強く左右される構造を同時に抱え込むことでもある。
    輸出が伸びるほど対米摩擦の芽は育ち、工業化が進むほど海外資源への依存も深まる。
    投資主導の成長回路も、雇用・所得・消費の安定も、高成長が続くことを前提にしていた。
    この時代の日本は、問題をその場で処理したというより、高成長の継続によって次の時代へ押し出していたのである。

    高度成長は、多くの人の生活を実際に引き上げた。
    だからこそ、その成功の内部に埋め込まれていた負担の配分も、あわせて見なければならない。
    地方が引き受けた負担、特定地域や住民が引き受けた負担、労働者と家計が引き受けた負担、そして次の時代へ送られた負担。
    これらは成長の失敗ではない。
    成長が強く機能したからこそ、その内部で見えにくくなっていた矛盾である。

    高度成長の時代を「良い時代」としてだけ記憶すると、その矛盾は見えない。
    逆に、「問題だらけだった」としてだけ裁くと、なぜ人々がその時代を支持しえたのかが見えない。
    この時代の日本は、たしかに成長していたし、その果実は多くの人の生活を前進させた。
    そのため、成長の裏で蓄積していた問題は、すぐには全体の限界として意識されにくかった。
    高度成長の本当の強さとは、成長そのものが負担を分散し、吸収し、先送りできるだけ十分に強かったところにあった。

    その容器にも限界はある。
    高成長が続くことを前提にした社会は、その前提が揺らいだとき、初めて自分が何を吸収していたのかを知ることになる。
    一九七三年以前の日本にも、すでに多くの問題は存在していた。
    高成長という強い流れが、それらを表面化しにくくしていたのである。


    第6節 1973年を前にして

    高度成長の終わりは、一九七三年の石油危機だけで突然訪れたものではなかった。
    その前から、固定相場制と対米関係という外部条件には揺らぎが生まれていた。
    石油危機は、その揺らぎを一気に前景化させたのである。
    ここで揺らいだのは、政策や景気だけではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいのかという感覚そのものだった。

    最初に揺らいだのは、固定相場制と対米関係である。
    戦後日本の高成長は、固定相場制と対米市場という安定した国際環境の上に立っていた。
    日本の輸出競争力が高まり、貿易黒字が拡大していくほど、その安定はアメリカにとって無条件に受け入れられるものではなくなっていく。
    日本にとって有利だった条件は、相手にとっては不均衡の拡大でもあった。
    高度成長を支えていた外部条件は、その成功ゆえに摩擦の種も育てていたのである。

    その象徴がニクソン・ショックである。
    一九七一年、アメリカはドルと金の交換停止を打ち出し、ブレトンウッズ体制の前提を崩した。
    日本にとっては、長く成長の基盤となってきた固定相場の安定が、もはや当然ではないことを突きつけられた出来事だった。
    円は切り上げを迫られ、輸出主導型成長の前提も再考を迫られる。
    成長の回路が強く外需と為替の安定に依存していた以上、固定相場制の揺らぎは、単に輸出企業の収益を揺らすだけではない。
    日本経済全体が、これまでのような外部条件の上に成り立ち続けられるのかどうかを問うものだった。

    一九七三年の第一次石油危機は、外からの衝撃であると同時に、高度成長の内部にあった脆さを一気に表面化させた出来事だった。
    その衝撃が大きく響いたのは、日本の成長がすでに外部資源への依存を深め、高成長の継続を社会全体の安定条件にしていたからである。
    石油危機は、新しい問題を持ち込んだというより、高度成長を支えていた前提の脆さを露出させた。

    ここで終わったのは、成長そのものではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいという感覚だった。
    成長の勢いの中で後景へ退いていた矛盾は、この境目から別の重みを持ち始める。
    日本経済はここで、成長率が高くなくても社会をどう維持するのかという次の問いを抱えて動き出す。


    1章:参考資料

    ・中村隆英『The Postwar Japanese Economy: Its Development and Structure, 1937-1994』
    ・Chalmers Johnson, MITI and the Japanese Miracle
    ・Andrew Gordon, A Modern History of Japan
    ・内閣府 経済社会総合研究所「国民経済計算年次推計」