投稿者: unpatta

  • 第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)①

    1節.新政府外交の出発

    明治新政府の外交は、旧幕府が残した条約をどう扱うかという問題から始まった。そこには、誰が日本を代表し、誰が対外責任を負うのかという問いが重なっていた。

    幕末には、条約上の相手として外国が向き合っていたのは幕府だったが、現実の政治力は朝廷、幕府、諸藩に分散し、外交主体と統治主体は必ずしも一致していなかった。新政府はこのねじれの上に出発し、自らが日本を代表する外交主体であることを示しながら、旧幕府が背負っていた条約と対外責任を国家として引き受ける必要があった。

    しかも、幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力は、明治新政府の担い手でもあった。旧体制を倒した側が、旧体制の結んだ条約と責任を引き受けなければならない。ここに、新政府外交の出発点にあった難しさがある。新政府は、幕府を否定しながらも、外国に対しては日本という国家の継続性を示さなければならなかった。

    旧幕府条約を継承するという問題は、それ自体として不平等条約改正の問題と同じではない。まず問われていたのは、政権が交代しても日本という国家は対外的に継続していると示せるかどうかだった。もし新政府が旧幕府条約を無効とみなし、対外責任を切り離そうとすれば、日本は政権が変わるたびに約束が揺らぐ国と見なされかねない。新政府は旧体制を否定しながらも、国家としての外向きの責任は引き受けざるを得なかった。

    その際の足場となったのが、幕末から受容されていた万国公法という語彙だった。万国公法は、日本が自らを近代国家として位置づけ、列国との関係を処理し、代表・責任・主権の問題を共通の言葉で語るための基盤となった。だがそれは、外国と話すための知識にとどまらない。新政府が、自らこそ日本を代表し、対外責任を担いうる主体であることを説明するための言葉でもあった。

    だからこそ新政府にとって重要だったのは、この政府は本当に日本を代表しているのか、という問いに答えることだけではなかった。この政府は本当に日本を代表できるのか。外国から見れば、より厳しく問われるのはそこだった。幕末のねじれを引き継いだ新政府は、まずその問いに答えられる国家の形を作らなければならなかった。

    2節.外交主体の一元化と条約改正への前提整備

    この問いに対して、明治政府がまず進めたのは、不平等条約改正そのものではなく、その交渉の土台に立てる国家の形を整えることだった。版籍奉還から廃藩置県へ進む中央集権化は、内政改革であると同時に、外国から見て責任主体が見える国家へ組み替える作業でもあった。国内の行動が分散したままでは、対外責任を一元的に引き受けることはできない。新政府は、幕末に露わになった代表と責任のずれを、国家の内側から処理しようとした。

    この作業には、時間的な圧力もあった。安政五カ国条約の改定時期は1872年7月に迫っており、その一年前には改定通告が必要だったため、政府はその時期に備えて国内改革を進める必要があった。1871年に伊藤博文が「外国交際・条約・貿易規則等を調査」して翌年の改定交渉に備えるべきだと建言し、廃藩置県後の1871年秋に使節派遣が具体化したのは、その文脈で理解するのが自然である。

    国内の一元化は、単に中央へ権力を集めることだけを意味しなかった。幕末に幕府の外交主体性を揺さぶった主力が新政府の担い手になった以上、新政府は自分たちの側から次のねじれを生まないことも示す必要があった。旧幕府のように、中央政府とは別の勢力が独自に対外行動を起こし、その処理だけが政府に返ってくる構造を繰り返すわけにはいかなかった。だからこそ、藩を解体し、地方の軍事・行政・財政を中央へ回収していくことは、内政上の権力再編であると同時に、対外的な責任主体を作る作業でもあった。

    その後に続く廃刀令、秩禄処分などの改革も、この流れの中に置いて見ることができる。これらは士族身分の解体や国家財政の再編という内政改革であったが、同時に、政府の外側に武力や独自の政治的求心力を残さないための改革でもあった。もちろん、それだけで説明できるものではない。それでも、明治政府が国内の反乱や権力闘争の芽を強く警戒し、外国から見ても一つの政府が責任を負う国家として見える形を作ろうとしていたことは重要である。

    日本に秩序を支える仕組みがなかったわけではない。問題は、その仕組みの切り方が欧米側の見慣れた国家の形とかなり違っていたことにあった。たとえば町奉行は、行政・司法・警察・消防などを一体として担っており、江戸の統治は役割ごとに横に分けるより、土地ごとに機能を束ねる発想で組み立てられていた。だから中央集権化とは、単なる権力集中ではなく、土地ごとに束ねられていた秩序を、行政・司法・警察といった役割ごとに分けて担う国家へ組み替えることでもあった。

    条約改正に先立って新政府が必要だったと考えたのは、国内の行動と責任を一元化し、外国から見ても日本を代表できる国家の形を整えることだった。

    3節.岩倉使節団が見た改正条件

    こうして政府は、改定時期の到来を見越し、廃藩置県後の国内改革を踏まえて、視察と予備交渉を兼ねた岩倉使節団を派遣した。日本側には、国内改革もある程度進み、条約改正の時期も近づいている以上、視察の延長で交渉の入口に立てるのではないかという感覚があったと見てよい。だが実際に欧米へ出てみると、相手が見ている条件は、日本側の想定よりはるかに厳しかった。使節団がここで知ったのは、改定時期の到来はゴールではなく、ようやく再交渉の入口に立てるという意味にすぎないという現実だった。

    最初の訪問国アメリカで、使節団は早くもつまずく。条約改正交渉に必要な全権委任状を持っていないことを指摘され、大久保利通と伊藤博文は一時帰国して委任状を受け、再渡米することになった。だが、問題は委任状だけでは終わらなかった。委任状を得た後もアメリカ側は日本の主張を受け入れず、交渉は失敗に終わる。ここで露わになったのは、日本側が「これだけ整えれば交渉に入れる」と考えていた条件と、相手が実際に見ていた条件との隔たりだった。しかもその隔たりは、外交文書の形式だけにとどまらない。片務的最恵国条項の存在は、ある国と話をまとめても他の条約国との関係まで連動するという厳しい現実を突きつけた。

    使節団が直面した条件は、条文や外交儀礼の外側にも広がっていた。キリスト教政策もまた交渉条件に食い込んでいた。国内では秩序維持として処理されていた政策が、対外的には「この国に自国民を委ねられるのか」という評価を左右する材料になっていたのである。ここで神戸事件を並べて見ると、問題はさらにはっきりする。そこでは、責任の認定、謝罪の示し方、処罰の執行、しかもその執行を外国側に見せることまで含めて、欧米諸国の制度感覚から見ても異質な景色が広がっていた。キリスト教政策と神戸事件は性質が違う。だが二つを並べると、問題になっていたのは日本の制度が単純に「遅れていた」ことではなく、責任の取り方、処罰の意味、秩序維持の考え方そのものが欧米側とずれていたことだったと分かる。

    使節団が見たのは、制度や儀礼を整えればすぐに対等化へ進めるという単純な世界ではなかった。司法制度、宗教政策、外交文書の形式は確かに問われた。だがそれらは、条約改正を拒むための理由であると同時に、列強が優位な立場を保つための基準でもあった。日本がその基準に近づくことは必要だったが、それだけで相手が対等を認めるわけではなかった。

    条約改正の条件には、表面と本質の二層があった。表面では、司法制度、外交プロトコル、宗教政策、条約文言、最恵国条項といった条件が持ち出された。つまり「条約改正を望むなら、まずはこちらが運用可能だと思える国家になれ」という話である。だがその下にあった本質は、条約改正が正しさを示せば進む話ではなく、最終的には国力と武力の差を背景にした秩序の問題だったということだった。制度を整えることは必要だったが、それは善意で対等を認めてもらうためではない。制度を整え、国家の責任主体を見えるようにし、そのうえで工業化と軍備拡充を進め、ようやく改正を迫りうる位置に近づくためだった。

    使節団が知ったのは、不平等条約を改正するには、相手と同じ言葉と形式で交渉し、その条件に見合う国家の形を自ら整えていくしかないという現実だった。ここで参照されたのが、幕末以来学ばれてきた万国公法である。万国公法は、日本が自らを近代国家として語り、条約改正を求めるための共通語彙であったが、同時に日本が欧米秩序の基準の中で自らを測り直すことでもあった。したがって改正に向けた課題は、単に条約文言を書き換えることではなく、欧米との交渉と通商を運用しうる国家へ自らを作り替えていくことにあった。その作業は法制度や行政機構の整備にとどまらず、工業化と軍備の拡充を含む国家の外形と実力の組み替えとして、次第に前面へ出てくることになる。

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)③

    第5節 高成長が吸収した矛盾

    高度成長の果実は、比較的広く社会に配られていた。
    ただし、その配分は均質ではなく、特定の場所や人々、そして未来へと負担を偏らせることで成り立っていた。
    高度成長の特徴は、成長の果実を広く配りながら、その裏の負担を全体の限界として見えにくくしたところにある。
    この時代の安定は、矛盾が消えていたからではなく、負担の所在が偏りながらも、成長の勢いによって全面化しにくかったから成立していたのである。

    最初に見なければならないのは、地域が引き受けた負担である。
    高度成長は、日本全体を均等に押し上げたわけではなかった。
    工業化と都市化が進むほど、人も資本も情報も、より成長率の高い都市部へ集中していく。
    地方から都市へ若年労働力が流れ、都市は拡大し、地方は人口流出と高齢化の兆しを抱え始める。
    都市にとっては成長の条件であり、地方にとっては活力の流出でもあった。
    この移動は、日本全体の生産性上昇という意味では合理的だった。
    その合理性は、地方側から見れば必ずしも中立ではない。
    高度成長は、成長する場所と、そこへ人を送り出す場所とのあいだに、目に見えにくい非対称を広げていった。

    特定の地域と住民が引き受けた負担も大きい。
    人口と産業が急速に集中すれば、住宅不足、通勤混雑、交通渋滞、インフラ不足は避けがたい。
    都市の発展は、最初から快適で均整の取れた生活環境を保証するものではなかった。
    都市は豊かになったが、同時に、豊かさに追いつかない生活環境の歪みも抱え込んでいった。
    その歪みがもっとも激しく現れたのが、公害である。
    工場が立ち並び、生産が拡大し、エネルギー消費が増えれば、煙や排水や廃棄物もまた増える。
    生産拡大そのものが国家的な優先課題であった以上、環境への負荷は長く「成長のコスト」として受け流されやすかった。
    公害は単なる事故や逸脱ではなかった。
    成長を最優先し、副作用への対応を後段に回す社会の進み方そのものから生まれていた。
    被害は日本社会全体に均等に広がったのではなく、特定の地域や住民に偏って引き受けられていた。
    高度成長の成功は、その意味でも負担の偏った配分の上に成り立っていたのである。

    労働者と家計が引き受けた負担も見落とせない。
    雇用は増えたが、その日常は長時間労働や企業中心の生活によって支えられていた。
    過密な職場環境や都市流入者の不安定な住環境も、その重さの一部だった。
    成長の果実は比較的広く配られていたが、その果実を支える日常は、必ずしも軽いものではなかった。
    企業社会への強い組み込みは、安定の源泉であると同時に、生活の重心を会社へ大きく傾けることでもあった。

    家計の安定や大衆消費社会の成立は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業にも支えられていた。
    当時は、男性賃金を中心に家計を組み立て、女性が家事、育児、家計管理を引き受けるモデルが広がっており、それが成長期の生活安定の一部を支えていた。
    この分業は、家計の効率性と引き換えに、生活世界の分離も進めた。
    男性は家庭への参加を相対的に減らしながら会社へ強く組み込まれ、女性は社会参加の幅を狭めながら家庭の維持を担うことになりやすかった。
    都市部での核家族化は、家族と地域の結びつきの形を変え、会社が地域に代わる主要な共同体として膨らむ余地も広げた。
    ここにも、高度成長が経済特化と速度特化を進めるなかで、生活の編成そのものを組み替えていった一面がある。

    高度成長の成功は、その場で解消できない負担を次の時代へ送ることによっても成り立っていた。
    日本は、アメリカ主導の固定相場と対米市場へのアクセスによって大きな利益を受けた。
    その意味は、外部条件の変化に強く左右される構造を同時に抱え込むことでもある。
    輸出が伸びるほど対米摩擦の芽は育ち、工業化が進むほど海外資源への依存も深まる。
    投資主導の成長回路も、雇用・所得・消費の安定も、高成長が続くことを前提にしていた。
    この時代の日本は、問題をその場で処理したというより、高成長の継続によって次の時代へ押し出していたのである。

    高度成長は、多くの人の生活を実際に引き上げた。
    だからこそ、その成功の内部に埋め込まれていた負担の配分も、あわせて見なければならない。
    地方が引き受けた負担、特定地域や住民が引き受けた負担、労働者と家計が引き受けた負担、そして次の時代へ送られた負担。
    これらは成長の失敗ではない。
    成長が強く機能したからこそ、その内部で見えにくくなっていた矛盾である。

    高度成長の時代を「良い時代」としてだけ記憶すると、その矛盾は見えない。
    逆に、「問題だらけだった」としてだけ裁くと、なぜ人々がその時代を支持しえたのかが見えない。
    この時代の日本は、たしかに成長していたし、その果実は多くの人の生活を前進させた。
    そのため、成長の裏で蓄積していた問題は、すぐには全体の限界として意識されにくかった。
    高度成長の本当の強さとは、成長そのものが負担を分散し、吸収し、先送りできるだけ十分に強かったところにあった。

    その容器にも限界はある。
    高成長が続くことを前提にした社会は、その前提が揺らいだとき、初めて自分が何を吸収していたのかを知ることになる。
    一九七三年以前の日本にも、すでに多くの問題は存在していた。
    高成長という強い流れが、それらを表面化しにくくしていたのである。


    第6節 1973年を前にして

    高度成長の終わりは、一九七三年の石油危機だけで突然訪れたものではなかった。
    その前から、固定相場制と対米関係という外部条件には揺らぎが生まれていた。
    石油危機は、その揺らぎを一気に前景化させたのである。
    ここで揺らいだのは、政策や景気だけではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいのかという感覚そのものだった。

    最初に揺らいだのは、固定相場制と対米関係である。
    戦後日本の高成長は、固定相場制と対米市場という安定した国際環境の上に立っていた。
    日本の輸出競争力が高まり、貿易黒字が拡大していくほど、その安定はアメリカにとって無条件に受け入れられるものではなくなっていく。
    日本にとって有利だった条件は、相手にとっては不均衡の拡大でもあった。
    高度成長を支えていた外部条件は、その成功ゆえに摩擦の種も育てていたのである。

    その象徴がニクソン・ショックである。
    一九七一年、アメリカはドルと金の交換停止を打ち出し、ブレトンウッズ体制の前提を崩した。
    日本にとっては、長く成長の基盤となってきた固定相場の安定が、もはや当然ではないことを突きつけられた出来事だった。
    円は切り上げを迫られ、輸出主導型成長の前提も再考を迫られる。
    成長の回路が強く外需と為替の安定に依存していた以上、固定相場制の揺らぎは、単に輸出企業の収益を揺らすだけではない。
    日本経済全体が、これまでのような外部条件の上に成り立ち続けられるのかどうかを問うものだった。

    一九七三年の第一次石油危機は、外からの衝撃であると同時に、高度成長の内部にあった脆さを一気に表面化させた出来事だった。
    その衝撃が大きく響いたのは、日本の成長がすでに外部資源への依存を深め、高成長の継続を社会全体の安定条件にしていたからである。
    石油危機は、新しい問題を持ち込んだというより、高度成長を支えていた前提の脆さを露出させた。

    ここで終わったのは、成長そのものではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいという感覚だった。
    成長の勢いの中で後景へ退いていた矛盾は、この境目から別の重みを持ち始める。
    日本経済はここで、成長率が高くなくても社会をどう維持するのかという次の問いを抱えて動き出す。


    1章:参考資料

    ・中村隆英『The Postwar Japanese Economy: Its Development and Structure, 1937-1994』
    ・Chalmers Johnson, MITI and the Japanese Miracle
    ・Andrew Gordon, A Modern History of Japan
    ・内閣府 経済社会総合研究所「国民経済計算年次推計」

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)②

    第3節 政府・金融・企業がつくった成長の回路

    戦後日本の成長は、アメリカ主導の固定相場・冷戦体制という外部条件の上に成り立っていた。
    その追い風を、実際の生産拡大、設備投資、輸出競争力へ変えるには、国内でそれを回す仕組みが要る。
    その仕組みを支えたのが、政府、金融、企業の結びつきである。
    高度成長とは、市場に任せて自然に起きた現象というより、政府が方向を示し、金融が資金を流し、企業が積極的に投資することで回っていた成長の回路だった。

    政府の役割は大きかった。
    ここでいう政府とは、単に予算を配る存在ではない。
    産業政策を通じて、どの分野に資源を集め、どの分野を育て、どの分野を後回しにするかという方向を示す存在だった。
    通商産業省を中心とする行政は、外貨配分、輸入管理、技術導入、税制、公共投資などを通じて、成長の重点を重化学工業や輸出産業へ寄せていった。
    鉄鋼、造船、石油化学、機械、自動車といった分野が伸びたのは、企業の努力だけによるものではない。
    国家が限られた資源をどこへ集中させるかという選択を行い、その方向に成長のレールを敷いていたからである。

    現場で投資し、製品を作り、競争し、生産性を上げたのは企業である。
    日本の高度成長は、国家が大まかな進路を示し、企業がその中で拡張競争を行うかたちで進んだ。
    自由市場と統制経済の中間に、独特の成長国家のかたちがあったのである。

    その国家の方向づけを現実の拡大へ変えたのが金融だった。
    成長には資金がいる。
    重化学工業化や設備投資主導の成長には、短期資金よりも、将来の需要を見込んで先に投じる大きな資金が必要だった。
    そこで重要だったのが、銀行中心の金融システムである。
    家計の貯蓄は金融機関に集まり、その資金が企業へ貸し出される。
    さらに日銀の金融調節や行政の保護の下で、低金利と安定的な資金供給が保たれた。
    金融は単なる仲介ではなく、成長の時間を先取りする装置として機能していた。

    この時代の企業は、後の日本企業のイメージほど守りに入ってはいない。
    需要は伸びる。
    輸出も広がる。
    国内のインフラ整備も進む。
    そうした見通しの下で、企業は借入を拡大し、設備投資を積み増し、生産能力を先回りして広げていった。
    借金をしてでも大きくなることに合理性があった。
    いまの日本企業に付きまとう「内部留保を積み上げる慎重さ」は、この時代の中心的な姿ではない。
    高度成長期の企業は、利益をため込むより、次の成長を見込んで再投資する主体だったのである。

    政府、金融、企業は、ここで一本の回路としてつながる。
    政府が成長分野を後押しし、金融がそこへ資金を流し、企業が生産設備を拡大する。
    設備投資は生産性を押し上げ、輸出と国内供給を増やし、利益と所得を生む。
    所得の増加は貯蓄の増加にもつながり、その資金が再び金融機関を通じて投資へ戻っていく。
    この時代の成長は、単発の追い風ではなく、投資が投資を呼ぶ循環として回っていた。
    高度成長の強さとは、外から与えられた好条件を、この国内循環が自己増殖的に拡大していったところにある。

    その循環は生産現場の改善とも結びついていた。
    設備を増やすだけでは競争力は続かない。
    量産を回し、不良率を下げ、工程を整え、品質を上げていく必要がある。
    戦後初期には「安かろう悪かろう」と見られた日本製品が、やがて「安くて品質が安定している」ものへと評価を変えていった背景には、この投資主導の回路と現場の改善努力の結合があった。
    政府が方向を示し、金融が前貸しし、企業が量産と改善で応える。
    高成長の回路は、単なる資金の循環にとどまらず、技術と品質の蓄積の回路でもあった。

    この回路は成長を押し上げる一方で、偏りや将来の調整課題も抱え込んだ。
    高い成長率が続くことが、その前提にあった。
    将来の需要が伸びるという期待があるからこそ、銀行は貸し、企業は借り、政府も拡張を正当化できた。
    資源配分は重化学工業や輸出産業へ偏りやすく、そこで取り残される分野や地域も生まれる。
    政府、金融、企業の距離が近いほど、成長局面では強いが、後に調整が必要になったときには、どこで線を引くのかが曖昧になりやすい。
    この時代の成長回路は、日本を一気に押し上げたが、それ自体が永遠に続く仕組みではなかった。

    それでも、一九五〇年代後半から六〇年代にかけては、この回路は力強く機能した。
    外には固定相場と対米市場があり、内には政府の方向づけと銀行の資金供給があり、企業には将来需要を見込んで投資を拡大する意欲があった。
    この噛み合いが、日本経済を単なる復興から持続的な成長へ押し上げた。
    その果実は、雇用、所得、消費の拡大というかたちで比較的広く社会に配られていく。
    高度成長は、政府、金融、企業だけの成功では終わらなかった。
    果実が国民生活に届いたからこそ、この成長は社会の安定とも結びついていった。


    第4節 労働移動と大衆消費社会

    政府・金融・企業が作った成長の回路は、工場の数字や輸出額だけを押し上げたのではなかった。
    その回路が本当に戦後日本を安定させたのは、成長の果実が雇用、所得、消費の拡大というかたちで国民生活に届いたからである。
    高度成長が単なる生産拡大の時代を超えて、社会そのものの風景を変える時代になったのは、この点にある。
    工場が増え、投資が拡大し、輸出が伸びる。
    その結果として、人が動き、家計が変わり、暮らしの標準が書き換えられていった。

    その変化の中心にあったのが、労働移動である。
    戦前から続いていた農村人口の厚みは、戦後の高度成長期に急速に都市部へ引き寄せられていく。
    工業化が進むほど、工場、建設、運輸、サービスの現場では人手が必要になる。
    都市は仕事を生み、地方は人を送り出した。
    この移動は、単なる人口の移動ではない。
    低生産性部門から高生産性部門への移動であり、日本全体の生産性を押し上げる力でもあった。
    成長は、人がじっとしている社会では起こりにくい。
    この時代の日本では、人そのものが成長の回路の中を流れていたのである。

    この労働移動は、個人にとってはきわめて大きな生活の転換を意味した。
    農村から都市へ出るということは、仕事の内容が変わるだけではない。
    住む場所が変わり、家族の形が変わり、消費の仕方が変わり、人生の見取り図そのものが変わるということである。
    集団就職という言葉が象徴するように、この時代の成長は、若年層を地方から都市へ吸い上げながら進んでいった。
    それは地方にとっては人口流出であり、都市にとっては労働力流入であり、日本経済全体にとっては成長の推進力だった。
    この動きによって、企業は必要な人手を得て、生産を拡大し続けることができた。

    豊かさは広がったが、その届き方には濃淡があった。
    業種差も地域差もあり、大企業と中小企業の差もあった。
    それでも、全体として見れば、戦後日本では成長の果実が家計に届く経路が比較的強く働いていた。
    賃金の上昇は消費の拡大につながり、消費の拡大はさらに企業の生産と投資を支える。
    投資主導の回路は家計の側にまでつながり、成長は生活の改善として実感されるようになっていく。

    所得倍増という言葉が象徴的に使われるのは、そのためである。
    それは単なるスローガンではなかった。
    実際に、多くの人にとって生活水準が上がっていく感覚があった。
    テレビ、冷蔵庫、洗濯機に代表される耐久消費財は、その象徴である。
    これらは単なる商品ではない。
    工業生産の成果が家計の中に入り込み、生活のリズムそのものを変えていく装置だった。
    電化製品の普及は、消費の拡大であると同時に、「普通の暮らし」の基準を書き換える出来事でもあった。
    高度成長期の大衆消費社会とは、豊かさが一部の贅沢ではなく、多くの家計の現実へ降りてきた社会だったのである。

    消費の拡大は、生活必需の充足や家事負担の軽減、住環境の改善として現れた。
    教育投資の拡大もその流れの中にある。
    そうした変化が重なったことで、成長は単なる国家の統計ではなく、日常の手触りになった。
    人々を動かしたのは、暮らしが前より良くなっていくという実感だった。
    前より買えるようになった。
    前より便利になった。
    前より子どもに教育を与えられるようになった。
    その実感があったからこそ、高度成長は政治的にも社会的にも強い正統性を持ちえたのである。

    このことは、中間層意識の形成とも深く関わっている。
    高度成長期の日本では、自分たちは極端な貧困層ではなく、ある程度安定した生活を送る「中ほど」にいるという感覚が広がっていく。
    この感覚は、厳密な統計分類というより、生活実感としての共有感覚だった。
    住宅を持ち、家電を持ち、子どもを学校へやり、年ごとに暮らし向きが少しずつ良くなる。
    そうした経験の積み重ねが、「自分たちは上にのぼっている」という感覚を支えた。
    成長の果実が一部に偏りすぎれば不満は先鋭化するが、この時代の日本では、少なくとも多くの人が自分もその果実の一部を受け取っていると感じることができた。

    高度成長の強さは、単に成長率が高かったことではない。
    その成長が、多くの人にとって「自分の暮らしも前に進んでいる」と感じられる形で配分されていたことにあった。
    このことは裏を返せば、成長の持続が社会の安定そのものの条件になっていたことを意味する。
    雇用が増え、所得が上がり、消費が拡大するという循環が続く限り、矛盾は後景へ退く。
    その循環が鈍れば、これまで成長の中で吸収されていた問題は別の顔で現れてくる。

    その配分には、すでに偏りも含まれていた。
    家計の安定は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業や、会社を生活の中心的な共同体として受け入れる社会の形にも支えられていた。
    成長の果実は広く届いたが、その届き方そのものにはすでに偏りがあり、負担の輪郭もまた高成長の裏面として現れ始めていた。