歴史
日本近現代外交史
戦後経済史
構造
現代資本主義の作動原理(うんぱった的資本主義解説)
今回の長編は、幕末から戦前までの日本を、出来事の連鎖としてではなく、対外秩序の変化にさらされた国家の条件と選択として見るための試みである。
近代以降の日本史は、しばしば極端な議論を呼びやすい。資料が多く、関わる人物も多く、事件の密度も高いからである。誰が正しかったのか。誰が誤ったのか。あの時ほかにどのような選択がありえたのか。議論は自然に、人物評価や理念対立、あるいは成功と失敗の物語へ引き寄せられる。もちろん、それらは歴史の大きな醍醐味である。人物の魅力や理念の衝突、出来事の劇性があるからこそ、歴史は単なる年表ではなく、生きた時代として立ち上がる。
だが、その景色が鮮やかであるほど、かえって見えにくくなるものもある。国家がどのような対外秩序の中に置かれ、どのような条件の下で、どこまで選びえたのか、あるいはどこから先は選べなかったのか、という問題である。
出来事は、それ自体だけで起きるわけではない。その背後には、国際環境があり、力の配分があり、通商と軍事の条件があり、列強どうしの牽制があり、その中で国家が占めた位置がある。ある事件を理解するとは、その原因や経過を知ることだけではない。その事件がどのような条件の中で起こり、何を変え、どの選択肢を広げ、どの選択肢を閉ざしたのかを知ることでもある。本稿が見たいのは、その点である。
したがって、個々の事件を英雄や奸臣の物語として描くことを主眼としない。また、理念の対立だけで時代を説明しようとするものでもない。人物も理念も重要である。しかしそれらもまた、より大きな対外秩序の変化の中で動いている。本稿で中心に置くのは、事件の派手さではなく、国家が置かれた条件の変化である。日本が何を外から求められ、何を脅威と見なし、何を守ろうとし、どこで適応し、どこで拡張し、どこで均衡を失っていったのか。その輪郭を追う。
その意味で、戦史そのものを書くものではない。戦争や事変に触れないわけではないが、それらを戦場の経過として詳述することが目的ではない。ここで重視するのは、それらが対外秩序と外交の条件をどう変えたかである。同じように、経済や国内政治も本稿の外にあるわけではない。ただし、それらをそれ自体として全面に出すのではなく、対外関係の変化と結びつく範囲で扱う。主役はあくまで、国家と外部世界との関係である。
また、一国との関係だけを追うものでもない。二国間関係は重要である。だが、それだけでは時代の重心を捉えにくい。ある局面では、複数の国が同時に圧力をかけ、あるいは互いに牽制し合い、その中で日本の選択肢が形づくられる。別の局面では、特定の一国との関係が、日本外交全体の背骨になる。二国間関係を必要に応じて重視しつつも、それをつねに時代全体の構造の中に置いて考える。
こうした視点を取る理由は、過去をより正確に理解するためだけではない。よく、歴史を知れば現代ニュースが理解しやすくなると言われる。それはその通りである。だが、それで終わっては足りない。現代の外交や国際関係をある程度理解したあとで、もう一度歴史に戻ると、以前とは違うものが見えてくる。どの国との関係が軸だったのか。正面の相手以外に、どの第三国が制約になっていたのか。国内政治と対外関係はどこで結びついていたのか。誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であったのか。現代を一度通った目で歴史を見直すと、後から付与された物語の陰に隠れていた条件の重みが、別の形で立ち上がってくる。
本稿が試みるのは、その再読である。幕末から戦前までの歴史を、単なる近代化の成功物語としても、破局へ向かう失敗物語としても捉えない。外から押し込まれ、内側で作り替え、外へ広がり、秩序に参加し、やがてその秩序との両立を失っていく。その一連の過程の中で、日本という国家が何を選び、何を失い、どこで判断を誤り、どこで構造に押し戻されたのかを問う。
言い換えれば、たどろうとするのは、出来事の歴史ではなく、条件と選択の歴史である。そしてその視角は、過去の理解にとどまらない。国家はつねに、対外秩序の変化の中で、自らの位置と選択肢を測り続けなければならないからである。その意味では、過去の説明であると同時に、現代の日本外交を見るための視角を整える作業でもある。
その作業は、幕末においてとりわけ鮮明に表れる。開国によって日本が直面したのは、外国との接触そのものではなく、対外秩序への編入が、誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であるのかという問題を前面に押し出す過程だったからである。外交の窓口と統治の実体とがずれ始めるとき、外交問題はそのまま政体問題へ変わっていく。第1章で見るのは、まさにその始まりである。
金利、成長率、インフレ率(注1)
経済の話になると、こうした言葉は何度も出てくる。
だが、それぞれの意味を用語として覚えただけでは、
なぜ現代社会がそこまでそれらを気にするのかは見えてこない。
たとえば、なぜ中央銀行は物価上昇率2%前後(注2)(注B)を目標にするのか。
なぜ「成長」がこれほど重く語られるのか。
なぜ金利が少し動いただけで、企業や家計や国家の空気まで変わるのか。
本当に見なければならないのは、言葉の定義ではない。
現代の経済が、なぜ
「投資が続くこと」
「成長が続くこと」
「物価が少しずつ上がること」
を前提に組まれているのか。
その設計思想である。
ここが見えないと、2%という数字も、金利政策も、
ただ専門家だけの呪文のように見えてしまう。
本稿では、その設計思想を、
現代資本主義を形づくった三つの節目から考えてみたい。
第一は株式会社、第二は再投資、第三は緩やかなインフレである。
この三つを歴史と重ねて見たうえで、
最後に、いま私たちが見ている金利・成長・インフレの関係へ戻ってきたい。
ただし、資本主義の歴史をあらゆる要因から説明するものではない。
技術進歩、人口動態、教育、制度、国際分業、資源制約や環境制約
などをいったん脇に置き、
成熟した市場経済がなぜ投資・成長・緩やかな物価上昇を必要としやすいのか、
その作動原理に焦点を絞って考える。
したがって、「成長すれば何でもよい」という主張ではないし、
2%を自然法則として語るものでもない。
あくまで、現代経済の基本的な動き方をつかむための整理である。
商人資本も銀行信用も、株式会社より前から存在していた。(注3)
人は昔から金を貸し、商いをし、利益を求めてきた。だから株式会社が資本主義を一から生み出した、と言いたいわけではない。
重要なのは、株式会社という仕組みが広がる(注C)ことで、社会が「大きな未来」に対して、以前よりはるかに大きな資金を動かせるようになったことである。
株式会社は、単なる会社の一形式ではない。
多くの人から資金を集め、危険を分け合い(注4)、事業を個人の器より大きくするための近代の器であった。
鉄道を敷く。工場を建てる。鉱山を掘る。重工業を育てる。こうした長い時間と巨額の資金を必要とする投資は(注5)、一人の商人や一つの家だけでは支えきれない。成功すれば大きいが、失敗したときの損失もまた大きいからである。
株式会社は、この壁を越えた。
多くの出資を束ねることで、大きな事業を始められるようにした。危険を分散することで、一人では踏み出せない投資に踏み出せるようにした。所有と経営が分かれ(注6)(注D)、事業が個人の寿命や家の事情を超えて続く形も生まれた。
ここで、経済の重心が少し変わる。
いま手元にある余りを守ることよりも、将来もっと大きな利益を生むはずだという期待に先回りして、いま資金を投じることが中心になっていくのである。
これは、見方を変えればこういうことでもある。
まだ存在していない未来の利益を、いまの行動の根拠にするということだ。
現代資本主義の第一の節目とは、社会が本格的に未来を現在に変える器を手にしたことだった。
この器があったからこそ、近代以降の社会は、より大きく、より遠く、より長い時間を見込んだ投資を行えるようになった。
今日の私たちは、テクノロジー企業や巨大インフラを当たり前のように見ているが、その前提には、まだ見ぬ利益のために先に資金を集め、先に賭けるという発想がある。
iPhoneもChatGPTも、もちろんそのまま鉄道や工場の延長ではない。だが、「未来の成果を見込み、先に資金を投じる」という意味では、同じ地平に立っている。
もちろん、株式会社だけで近代の成長が生まれたわけではない。
技術、国家、制度、市場拡大など多くの条件が重なってはじめて社会は動いた。だが、多数の資金を束ねて未来の利益へ賭ける器として、株式会社が決定的な役割を果たしたことは確かである。
だが、資金を集めて事業を始めるだけでは、現代資本主義にはならない。
一度利益を得て終わるなら、それは大きな商売であっても、まだ一回かぎりの成功にすぎない。資本主義を資本主義たらしめたのは、その利益を次の拡大へ回し、さらに大きな生産力へつなげていく運動である。
得た利益を使い切って終わらせず、設備へ回す。
技術へ回す。人材へ回す。新しい市場の開拓へ回す。
こうして利益は、単なる結果ではなく、次の成長の原因に変わる。(注7)(注E)
ここに再投資の循環が生まれる。
この循環が始まると、企業はただ儲けるだけの存在ではなくなる。
儲けたものを再び事業へ戻し、自分で自分を大きくしていく仕組みになる。
資本主義が単なる商取引ではなく、自己拡大する運動として動き始めるのはこの地点からである。
しかし、ここで重要なのは、この循環が美しい理想として続くわけではない、ということだ。
むしろ逆である。いったん回り始めた再投資の仕組みは、企業を「止まりにくい構造」の中へ入れていく。
工場を建てれば維持費がかかる。(注8)
人を雇えば給料を払い続けねばならない。
借りた金があれば返済がある。
出資を受けていれば、次の利益への期待を背負う。
競争相手が設備を更新すれば、自分だけ古いままでは取り残される。
なぜなら、新しい設備や技術は、より安く、より速く、より安定して商品やサービスを生み出せる可能性を高めるからである。
競争相手の生産性が上がれば、こちらは同じ値段では利益を出しにくくなり、同じ品質でも見劣りしやすくなる。
価格でも品質でも不利になれば、売上や利益は削られ、市場での立場も弱くなる。
だから企業は、成長を望むからだけでなく、取り残されないためにも動かざるをえない。(注F)
つまり企業は、成長したいから走るだけではない。
止まると苦しくなるから走り続けるのである。
ここに、資本主義の強制力がある。
成長は、単なる贅沢な願望ではなくなる。再投資の意味が薄れ、売上が伸びず、借金だけが重く残り、競争に遅れれば、それはすぐに経営の苦しさとして跳ね返ってくる。
現代資本主義において成長とは、「あれば望ましいもの」ではない。
この仕組みに組み込まれた圧力そのものなのである。
だからこそ、現代経済では「成長」が重く語られる。
それは、人間が永遠に拡大を夢見ているからだけではない。もっと構造的な理由がある。
未来の利益を見込んで先に資金を動かし、その成果をさらに次へ回していく社会では、成長が止まることは、そのまま仕組みの苦しさとして現れるからである。
もちろん、成長を支えるのは再投資だけではない。
技術進歩、教育、制度改革、人口構成、国際分業なども大きい。だが、借入・固定費・競争を抱えた企業が止まりにくい構造に置かれることは、現代資本主義の重要な特徴である。
ここで、ようやくインフレの話になる。
投資と再投資の社会は、物価も賃金も売上もほとんど動かない世界と相性がよくない。
一見すると、物価が下がるのは悪いことではないように見える。
昨日より今日の方が安く買えるなら、消費者にとって得ではないか。
実際、一回きりで見ればその通りである。安いに越したことはない。人は目の前の値札には敏感で、経済全体の回転まではなかなか見ない。面倒だからである。
だが、社会全体でそれが長く続くと話は変わる。
企業から見れば、売るたびに値段を上げにくくなり、利益を増やしにくくなる。
家計から見れば、急いで買わなくてもよい空気が広がる。
「どうせそのうちもう少し安くなるかもしれない」と思えば、支出は先送りされやすい。
企業も家計も、前へ出るより守る方へ傾きやすくなる。
さらに厄介なのは、借金の重さ(注G)である。
物価や賃金や売上がなかなか増えない世界では、借りた金だけが重く残りやすい。(注9)
返す金額そのものは変わらないのに、企業の売上も人々の給料も伸びにくいからだ。
すると企業は、値上げにも賃上げにも投資にも慎重になる。
家計も企業も守りに入り、その結果、経済全体の動きがさらに鈍る。
デフレや、それに近い低い物価の停滞が怖いのは、単に「安くなるから悪い」のではない。
社会全体が先へ進みにくくなるからである。
未来を現在に変える器があっても、再投資の循環があっても、その先の売上や利益や賃金がなかなか増えないなら、人は先へ出にくい。
投資の判断は鈍る。借金は重く感じられる。賃上げも難しくなる。
こうして、資本主義を回していたはずの力が、逆に自分を縛るものになる。
この意味で、緩やかなインフレは加速装置である。
もちろん、高いインフレは別の問題を生む(注10)。急な物価上昇は生活を圧迫し、通貨への信頼も傷つける。
だがその一方で、物価がまったく動かない状態もまた、経済を硬くする。
現代資本主義にとって必要なのは、暴走するインフレではない。
物価と賃金と売上が少しずつ動き、借金の重さも時間とともに和らぎ、企業が次の投資を考えやすい環境である。
中央銀行が2%前後の物価上昇率を意識するのも、この延長線上で理解できる。
2%は魔法の数字ではない。絶対の真理でもない。
それでも多くの国で2%前後が目安とされるのは、デフレを避けやすくし、景気後退時に金利を下げる余地を確保し、統計上のぶれにも耐えやすくするなど、政策運営上の実務的な理由が大きいからである。
1%ではデフレに戻る危険への余裕がやや薄く、3%では家計や企業にとって物価上昇の重さが目立ちやすい。
そのため2%前後が、景気の下振れへの備えと物価の安定のあいだで、比較的バランスを取りやすい水準として広く使われている。
つまり2%とは、経済の自然法則というより、壊れにくく回しやすい帯を探した制度設計上の目安なのである。
日本では、この感覚が長く続いた。(注H)
物価が大きく崩れ続けたというより、上がらないことが当たり前になった。
企業は値上げに慎重になり、給料も強くは上げにくくなった。
家計も企業も、「先に使う」より「いまは守る」に傾いた。
これは単なる気分の問題ではない。
投資と再投資の社会が、前へ進む力を失い、静かに固くなっていく過程だったのである。
もちろん、物価が上がればそれだけで成長するわけではない。
緩やかなインフレが力を持つのは、需要、賃金、生産性、金融条件がある程度かみ合う場合である。物価上昇だけが先行し、暮らしや生産が伴わなければ、それは別の苦しさを生む。
ここまで見てきた三つの節目は、過去の歴史を飾るための話ではない。
むしろ逆である。いま私たちがニュースで目にする金利、成長率、インフレ率の意味は、この歴史の延長線上でしか本当には見えてこない。
金利とは、単にお金を借りるときの値段ではない。
未来に投じる資金のコスト(注11)であり、成長への通路の値段でもある。
金利が低ければ、借りて投資しやすくなる(注12)。高ければ、次の拡大に慎重にならざるをえない。
だから金利は、企業の設備投資や住宅購入だけでなく、経済全体の空気を左右する。
ここで、第二章の話が効いてくる。
資本主義は、利益を再投資しながら、自分で自分を大きくしていく仕組みである。
しかもその循環は、借入や固定費や競争によって、止まりにくい形で動いている。
だから成長が弱まれば、単に景気が冴えないというだけでは済まない。
投資は鈍り、生産性は伸びにくくなり、賃金も上がりにくくなる。
仕組みそのものの回転が落ちるのである。
さらに第三章の話もつながる。
物価が上がらないことが当たり前になり、値上げも賃上げも投資も慎重になる社会では、金利を「普通」に戻すだけでも摩擦が出やすい。
なぜなら、その社会はすでに、前へ進む力が弱いからである。
未来への期待が薄く、再投資の循環も鈍く、物価と賃金の動きも弱い。
その状態でお金の値段だけを上げれば、苦しさの方が先に表に出やすい。
いまの日本の難しさは、まさにここにある。
単に金利が低かったとか、物価が上がらなかったという一点にあるのではない。
投資の勢い、再投資の厚み、賃金と物価の動き、その全体の回転が長く鈍かったことにある。
だから日本経済を考えるときは、「金利は上げるべきか、下げるべきか」だけを切り出しても足りない。
問題は数字の表面ではなく、その下にある仕組みの回り方にあるからである。
金利、成長、インフレは(注I)、それぞれ別の問題ではない。
未来へ投じる力、拡大を続ける力、そしてそれを支える物価と賃金の動き。
この三つが噛み合って初めて、現代資本主義は比較的なめらかに回る。
逆にこの三つが同時に弱れば、経済は表面上は壊れなくても、内側から少しずつ詰まりやすくなる。
現代資本主義の核心は、いまあるお金をただ分け合うことではない。
将来もっと生み出せるはずだという期待に先回りして、いまお金を動かすことにある。
株式会社は、そのための器をつくった。
再投資は、その器の中に自己拡大する循環を生んだ。
緩やかなインフレは、その循環を社会全体で回しやすくする加速装置として意味を持った。
この三つを通して見えてくるのは、現代経済がなぜ成長と投資と適度な物価上昇を気にするのか、という理由である。
それは単に経済学者がそう言っているからでも、中央銀行がそう決めたからでもない。
この社会の仕組みそのものが、そこに依存して動いているからである。
だから、金利の話も、インフレの話も、成長の話も、本当は別々に語るべきではない。
それらは一つの設計思想の別の顔である。(注J)
そして日本の難しさもまた、そのどれか一つの数字だけではなく、この全体の回転が長く鈍ってきたことの中にある。
未来への投資の器は残っている。
再投資の循環も、消えたわけではない。
だが、その循環を後ろから押すはずの加速装置は、長く弱いままだった。
日本経済の難しさは、そのことの中にある。
2%という数字も、その意味で見れば、単なる目標ではない。
未来へ投じる社会が、硬直せず、暴走もせず、比較的回りやすい帯を探した結果として置かれた、一つの目安である。
絶対ではない。だが、恣意的でもない。
経済の話は、とかく用語の森に迷い込みやすい。
しかし本当に大事なのは、言葉を覚えることではなく、その言葉がどんな世界を前提にしているのかを見ることだ。
現代の資本主義とは、未来を信じ、その未来を先に資金化し、その回転が止まらないように工夫してきた社会の姿なのである。
金利は、企業や家計が資金を借りるときの費用に関わる。成長率は、企業の売上、家計の所得、税収などの伸びに関わる。インフレ率は、物価、賃金、借入の実質的な重さに関わる。
日本銀行は、消費者物価が前年比2%前後で安定的に上昇し続けることを目標としている。一時的に2%へ届くことよりも、その上昇が持続可能な形で続くかが重視される。
株式会社が広がる前にも、商人資本や銀行信用は存在していた。ただし、古い投資の形では、出資者が事業の失敗に対して重い責任を負いやすく、事業ごとに資金を集める単発型の投資も多かった。また、資金調達は一部の有力者、金融業者、地縁・血縁に依存しやすかった。
株式会社では、多くの出資者が株式を通じて事業に参加する。事業が成功すれば利益の分配を受ける可能性があり、失敗した場合の損失も出資者のあいだで分かれる。有限責任の仕組みは、この危険の分散を支える重要な制度である。
所有と経営が分かれるとは、会社に資金を出す人と、日々の事業を運営する人が分かれることである。大規模な株式会社では、多数の株主が資金を出し、経営者が事業を動かす形が広がった。
鉄道、鉱山、工場、重工業などの事業は、始める段階で大きな資金を必要とし、利益が出るまでにも時間がかかる。株式会社では、事業が個人の寿命や家の事情から切り離され、会社という器の中で続きやすくなる。これによって、長い期間をかけて資金を回収する事業も組み立てやすくなった。
ここでいう資本の蓄積には、現金や預金以外にも、設備、技術、人材、組織、販売網などが含まれる。将来の利益や生産力につながるものが積み上がっていくことも、資本の蓄積として見ることができる。
売上が減ってもすぐには減らしにくい費用は、固定費と呼ばれる。設備の維持費、人件費、賃料、借入返済などが含まれる。
借入金の返済額は、通常は契約時に決まっている。そのため、物価や賃金や売上が伸びにくい環境では、返済の重さが相対的に増しやすい。家計でいえば、給料が減ったり伸びなかったりする中で、住宅ローンの支払いが重く感じられる状態に近い。
高いインフレは生活費を急に押し上げ、家計の購買力を弱める。通貨安につながれば、輸入品の価格上昇や資産価値の目減りも起きやすくなる。さらに、企業や家計が「これからも物価が上がり続ける」と見込むようになると、値上げや賃上げの動きが先回りし、インフレの速度がさらに加速する危険も出てくる。
金利には、契約や市場で表示される名目金利と、物価上昇率を考慮した実質金利がある。名目金利が同じでも、物価上昇率が高ければ実質的な借入負担は軽くなり、物価上昇率が低ければ重くなりやすい。
本文でいう金利には、中央銀行が動かす政策金利だけでなく、企業向け貸出金利、住宅ローン金利、国債利回りなども関係する。政策金利の変化は、金融市場や銀行貸出を通じて、企業や家計が実際に直面する金利へ波及していく。
本稿は、古典的な経済学の模型をそのまま説明するよりも、そこで見られていた資本主義の幹を、現代の制度に即して整理し直すものである。 マルクスは、資本が利潤を求めて増殖していく運動に注目した。シュンペーターは、企業者の革新、新しい組み合わせ、信用の働きによって経済が動いていく過程を重視した。ケインズは、将来への期待、投資、金利、有効需要が、経済全体の動きを左右することを論じた。 現代経済は、金融市場、中央銀行、技術革新、労働市場、制度、国際分業、期待形成などが重なり、より複雑な姿を持っている。それでも、利益を蓄積し、次の投資へ回し、将来への期待によって現在の資金を動かすという幹の部分は、古典的な議論の段階からすでに重要な問題として捉えられていた。 本稿では、その幹を、株式会社、再投資、緩やかなインフレという三つの入口から見ている。
2%前後のインフレ目標は、中央銀行の政策運営上の目安として各国に広がってきた。ニュージーランド、カナダ、イギリスなどでインフレ目標政策が先に制度化され、その後、米国FRBや欧州中央銀行でも2%が長期的・中期的な物価安定の基準として重視されるようになった。 日本銀行が「消費者物価の前年比上昇率2%」を明示的な物価安定目標として掲げたのは2013年である。この導入には、世界的に広がっていたインフレ目標政策の流れに加えて、デフレ脱却を掲げた当時の安倍政権の強い要請があった。 安倍政権は、明確な2%目標を示すことで、企業、家計、市場の期待に働きかけようとした。物価が上がらないという見方を変え、賃金、投資、価格設定の判断を前向きに動かす狙いがあった。日銀はこの流れの中で、政府との共同声明を公表し、2%の物価安定目標をできるだけ早期に実現する方針を示した。
株式会社を近代資本主義の中心的な制度として重視する見方では、多数の出資者から資金を集める力、有限責任による危険の分散、所有と経営の分離、法人として事業を継続できる点が注目される。 資本主義の成立には、株式会社に加えて、商業資本、銀行信用、国家財政、植民地貿易、労働市場、技術革新なども関わる。株式会社は、そうした複数の条件の中で、大きな資金を長期事業へ向ける制度として大きな役割を果たした。
所有と経営の分離は、近代株式会社を考えるうえで重要な論点である。バーリとミーンズは『近代株式会社と私有財産』で、株式所有が多数の株主に分散する一方、実際の経営判断を専門の経営者が担うようになる変化を論じた。 この変化によって、会社は個人商店や家業よりも大きな資金を扱いやすくなった。同時に、株主の利益、経営者の判断、企業の継続性をどう調整するかという問題も生まれた。
企業の利益は、配当、返済、内部留保などに向かうこともあれば、設備、研究開発、人材育成、販売網、組織づくりに向かうこともある。後者は、将来の生産力や収益力を高める資本蓄積として働く。 本文でいう再投資は、この資本蓄積の動きに関わっている。利益が次の設備、技術、人材、組織に向かうことで、現在の成果が次の成長の土台に変わっていく。
この論点は、シュンペーターの「創造的破壊」と関係している。新しい技術、設備、事業の形が広がると、古い仕組みで動いていた企業は競争上の圧力を受ける。新しい方法が生産性や品質を高めれば、既存企業も更新を迫られる。 創造的破壊は、経済全体では成長や革新を生む力になる。一方で、個々の企業や労働者にとっては、古い設備、技能、事業モデルが通用しにくくなる圧力として現れる。
デフレと借入負担の関係は、アーヴィング・フィッシャーの「負債デフレ」論と関係している。物価や資産価格が下がると、借入の名目額は同じでも、返済負担は重く感じられやすい。 企業や家計が返済を優先すると、消費や投資が抑えられる。資産を売って返済しようとする動きが広がると、資産価格の下落がさらに進むこともある。こうして、借入負担、支出の抑制、価格下落が互いに影響し合う。
日本では1990年代後半以降、物価が上がりにくい状態が長く続いた。企業は値上げに慎重になり、賃金も伸びにくくなり、家計も支出に慎重になった。こうした環境では、物価、賃金、売上が動かないことが、企業や家計の判断に入り込みやすくなる。 この長期低インフレ・デフレ的な環境には、日本銀行の金融政策に加えて、バブル崩壊後の債務調整、企業行動、雇用慣行、人口動態、国際競争、財政政策なども関係している。
現代の金融政策では、名目金利、期待インフレ率、実質金利の関係が重要になる。名目金利は表示される金利であり、期待インフレ率は人々が将来どれくらい物価が上がると見ているかに関わる。実質金利は、名目金利からインフレ率を差し引いて考える金利である。 中央銀行の政策金利は、企業や家計の借入コスト、資産価格、為替、期待インフレを通じて、投資や消費に影響する。そのため、金利政策は成長率やインフレ率と結びついて理解される。
現代資本主義の制度は、個別には別々の目的を持って発展してきた。株式会社は大きな資金を集める器となり、銀行や金融市場は資金を必要な場所へ移す通路となり、再投資は利益を次の生産力へ変える循環をつくった。中央銀行制度や物価安定目標は、その循環が急に詰まったり、過熱したりしないように調整する役割を担ってきた。 これらを一つの方向から見ると、現代資本主義は、資金をできるだけ眠らせず、将来の利益が見込まれる場所へ移し、そこで生まれた利益をさらに次の投資へ回す仕組みとして発展してきたと言える。資金の流動性を高め、将来の収益を現在の判断に取り込み、時間を前倒しして経済を動かすこと。ここに、金利、成長、インフレを別々に切り離して見にくい理由がある。 この設計思想は、商業、金融、企業制度、国家財政、中央銀行、国際市場が積み重なる中で形づくられてきたものである。