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  • 補論:ROEを上げるとは、何を削ることなのか

    ー 日本の安全と介護から考える ー

    日本企業はROEが低い。
    だから、もっと資本効率を上げるべきだ。

    そうした議論を目にすることは多いですよね。

    海外投資家が日本株を買い、
    株主提言を通じて企業価値の向上を求める場面でも、
    この考え方はよく前面に出てきます。

    この指摘自体には、十分に合理性があると思います。

    資本を預ける側から見れば、
    利益率や資本効率が低い企業に改善を求めるのは、
    とても自然なことだからです。

    日本企業の側にも、
    内部留保の積み上がり、
    低収益事業の温存、
    資本の使い方の鈍さといった問題は、
    たしかにあります。

    ただ、ここで一度、立ち止まって考えてみたいのです。

    ROEを上げるとは、
    いったい何を削ることなのだろうか。

    人員なのか。
    余裕なのか。
    安全なのか。
    雇用の安定なのか。

    あるいは、
    家族や現場が内側で引き受けてきた、
    見えない負担なのか。

    この問いは、
    ROEを否定したいから出てくるものではありません。

    むしろ逆です。

    ROEを上げること自体は必要だとしても、
    何を削り、
    どこへ負担を移してその数字をつくるのかを見なければ、
    企業価値向上のつもりが、
    別の場所で社会の土台を傷めることになりかねないからです。

    問題は、効率化そのものではありません。

    本当の問題は、
    守るべきものまで一緒に削っていないか。

    そして、そのための負担を、
    誰がどこで引き受けるのかが、
    曖昧なままになっていないか。

    そこにあるのだと思います。


    たとえば、現場の安全確認です。

    製造、物流、鉄道、医療、建設。

    こうした現場では、
    二重確認や引き継ぎ、復唱、点検、記録といった手順が、
    何重にも置かれていることが少なくありません。

    外から見れば、
    それはしばしば冗長に映ります。

    もっと簡略化できるのではないか。
    もっと早く回せるのではないか。

    そう感じる人がいても、不思議ではありません。

    実際、短期的な効率だけを見れば、
    そう見えるのも無理はないのです。

    確認が一回減れば、その分だけ早くなる。
    記録が一枚減れば、その分だけ手間が減る。
    会議や引き継ぎが短くなれば、人件費も浮くように見える。

    けれども、こうした手順の一部は、
    単なる無駄ではありません。

    それは、事故や混乱を防ぐための
    安全コストでもあるからです。

    つまり、数字には表れにくくても、
    たしかに社会を支えているコストだということです。

    安全は、何も起きなかったときには、
    成果として見えにくいものです。

    事故が起きなかったことは、
    売上のように派手には現れませんし、
    混乱が防がれたことも、
    利益のように数字で称賛されるわけではありません。

    だからこそ、安全のための手順は、
    しばしば「目立たないコスト」になってしまいます。

    ただ、問題はここから先です。

    その安全コストが必要だとしても、
    それをどこで負担しているのかは、また別の問題です。

    必要な確認が、
    適切な人員配置や仕組みの中で支えられているなら、
    それは社会に必要なコストだと言えます。

    でも、同じ確認が、
    現場の長時間労働や属人的な気配り、
    責任感だけに頼って成り立っているのだとしたら、
    話は変わってきます。


    もう一つの例が、介護です。

    家族が介護を引き受けていると、
    外から見るかぎり、
    社会は静かに回っているように見えます。

    施設やサービスへの大きな支出が増えるわけでもない。
    統計に派手な数字が出るわけでもない。

    だから一見すると、
    「家族が支えている」
    「地域で支え合っている」
    という、美しい話に見えやすいのです。

    けれども、負担が消えているわけではありません。
    ただ、外ではなく、家計の内側に沈んでいるだけです。

    介護のために仕事を減らす。
    離職する。
    将来の見通しが立たなくなる。
    疲労が積み重なる。
    家族関係がすり減る。
    所得が落ちる。

    こうしたものは、
    企業の決算にはそのまま出にくいですし、
    経済成長の数字にも、きれいには現れません。

    それでも、家族にとっても、
    社会全体にとっても、
    とても重いコストです。

    ここを「家族の支え合い」とだけ呼んで済ませるのは、
    やはり危ういと思います。

    もちろん、
    家族が支え合うこと自体に価値がない、
    と言いたいわけではありません。

    問題なのは、
    制度で支えるべき部分まで家計の無償負担に沈めてしまうと、
    その静けさの裏側で、
    生活そのものが少しずつ摩耗していくことです。


    この二つの例を並べてみると、
    見えてくるものがあります。

    現場の安全確認のように、
    非効率に見えるものの中にも、
    実は守っているものがあります。

    けれど、それを全部現場の努力で支えようとすれば、
    現場のほうが先に疲れてしまいます。

    また、介護のように、
    社会に必要な機能であっても、
    家族や家計の内側に沈めたままにしておけば、
    外からは静かに見えても、負担は消えません。

    むしろ、静かだからこそ、
    長く見逃されてしまいます。

    つまり、問題は
    「効率か、安全か」
    という二択ではないのです。

    本当の問題は、
    何を守るのかと同時に、
    そのための負担を
    制度として支えるのか、
    仕事として切り出して対価を払うのか、
    それとも家族の時間や収入の中に沈めてしまうのか、
    その線引きが曖昧なままになっていることです。

    日本では、この線引きが十分に言葉にならないまま、
    企業、現場、家庭、地域の内部で吸収されてきました。

    それが、ある時代までは
    秩序を支えてきたのだと思います。

    けれども、人口減少、高齢化、人手不足、
    そして長い停滞の中で、
    そのやり方はだんだん重くなっています。


    このままでは戦えない。

    そういう感覚を持っている人は、
    きっと多いでしょう。

    ただ、その自覚の仕方は一つではありません。

    全部をグローバル標準に合わせればいい、
    という考え方もあります。

    逆に、
    日本らしさを守れ、
    という感情的な反発もあります。

    でも、本当に必要なのは、
    そのどちらかではないはずです。

    必要なのは、
    日本が守ってきたものの価値を見たうえで、
    その負担を誰がどこで支えるのかを見直すことです。

    制度として引き受けるべきものがある。
    仕事として切り出し、対価を払って支えたほうがよいものがある。
    そして、家族の離職や疲弊の中に沈めてはならないものがある。

    そうでなければ、
    「改革」はただの負担の押し出しになりやすいですし、
    「日本らしさ」もまた、ただの願望になりやすいからです。


    守るために、配置を変える

    ここで、私の立場をもう少しはっきりさせておきます。

    私は、日本のやり方の中には、
    いまも守るに値するものがあると考えています。

    安全を軽視しないこと。
    雇用や生活を、短期的な合理性だけで不安定にしないこと。
    公共空間を、自分とは無関係なものではなく、
    自分たちの側でも支えるべきものとして感じてきたこと。

    こうした点には、
    単なる遅れや非効率としては処理しきれない価値が、
    たしかに含まれていると思います。

    ただ、その価値が
    どのような負担の上に成り立ってきたのかを問わないまま、
    それを「日本らしさ」として保存しようとするだけでは、
    やはり不十分です。

    現場の我慢。
    企業の抱え込み。
    家計の沈黙。

    そうしたものの上に維持されてきた部分まで、
    無条件に美徳としてしまえば、
    守ろうとしている基盤そのものが、
    先に摩耗してしまうからです。

    私が望んでいるのは、
    日本を現状のまま保存することではありません。

    一方で、
    グローバル市場への適応を理由に、
    その内実まで切り縮めればよい、
    とも考えていません。

    必要なのは、
    日本が持っていた利点を感情的に称揚することではなく、
    その利点を支えてきた負担の配置を見直すことです。

    制度が何を引き受けるのか。
    何を仕事として切り出し、対価を払うのか。
    何を家族の離職や疲弊の中に沈めてきたのか。

    そこを見直すことは、
    個々の生活の安定や再挑戦の余地を広げるだけではありません。

    社会全体としても、
    消費の弱さや人材の摩耗をやわらげ、
    経済の持久力を支えることにつながっていくはずです。

    だからこそ、
    これらの配分を組み替え、
    守るべきものを守りながら、
    競争に耐えられる形へ再編していくことが求められています。

    つまり、ここで次に必要なのは、感想ではありません。

    「日本が好きだ」とか、
    「このままでは戦えない」といった認識を、
    制度・市場・家計のどこで、何を支えるのかという
    設計の問題へ移し替えていくことです。

  • 目次:入門編

    入門編とは?

    この目次は、最近ニュースや政治経済に関心を持ち始めた方に向けたものです。
    専門用語はなるべく使わずに書いていますが、
    論点を省いた要約版ではありません。

    まず入りやすい言葉で、
    全体の流れと考えるべき点をつかみたい方は入門編からお入りください。


    1:経済

    ↓日銀・政府の金利政策について(5話構成)

    ↓2025年の日本経済を振り返る(3話構成)

    ↓2025年の日本経済最終話

    ↓2026年のマクロ経済(随時更新)


    2:外交・歴史

    ↓北朝鮮2026年(一話)

    ↓イラン2026年(1話構成)

    ↓日米外交


    3:国家・制度・技術

    ↓パランティア(AI企業のインフラ活用)(2話構成)

  • 人・物・金 ― 2025年の日本マクロと2026年への問い

    Ⅰ.二つのシリーズが見ていたもの

    一つ目のシリーズは、金融から入った。
    日銀の政策転換
    資金循環の変化
    国債市場という制度の交差点
    そして成長と金利の均衡条件。

    上から俯瞰し、構造を追った。

    二つ目のシリーズは、企業と財政から入った。
    バランスシートの変化
    財政改善の中身
    賃金と物価の実態

    数字の内側に降りて、現場に近い観察を積み上げた。

    角度は違う。
    しかし、二つのシリーズは同じ場所に行き着いた。


    Ⅱ.経営の基本は、マクロにも当てはまる 人・物・金

    経営の基本として語られるこの三つは、マクロ経済にもそのまま当てはまる。

    2025年の日本を振り返ると、
    物と金は動いた。
    価格転嫁が進んだ。
    企業収益が回復した。
    財政の数字が改善した。
    金融政策も正常化へ動き始めた。

    これらは「物」と「金」の話である。

    供給側の調整が進み、企業の財務体質が強化され、
    制度としての金融が正常な姿に近づいた。

    変化は確かに起きた。
    しかし、「人」だけが遅れた。

    実質賃金は力強さを欠いたまま推移した。
    内需は主役になれなかった。
    労働移動は緩やかで、成長分野への資源移動も限定的だった。


    Ⅲ.この順番には先例がある

    ここで重要なのは、この順番に一定の先例があるということだ。

    多くの先進国でも、
    まずインフレと企業収益の回復が先に現れ、
    その後に賃金や労働市場の変化が続いた。

    詳細は違う。

    財政の重さも
    産業構造も
    制度設計も
    日本とは異なる。

    しかし、行き着く問いは似ている。

    物と金が先に動き、人が最後に動く。

    日本も、その過程にある。
    ただし、日本ではその時間軸が長くなりやすい。

    日本は構造として、人を後回しにしやすかった。
    意図的ではなかったかもしれない。

    しかし結果として、人への分配が最後に来る設計になっていた。
    雇用を守る仕組みは、人の移動を遅らせた。

    安全を優先する設計は、変化の速度を落とした。

    公定価格に依存する産業では、市場メカニズムだけで賃金が上がりにくい。

    これらは個別の失敗ではない。
    構造の帰結である。


    ここまでの議論を図にすると、2025年の日本経済は次のように整理できる。
    金と物が先に動き、人は遅れた。
    問題は、その遅れが偶然ではなく、構造の帰結として現れている点にある。


    Ⅳ.循環はまだ閉じていない

    一つ目のシリーズで見た「詰まり」と、
    二つ目のシリーズで見た「波及の未完」
    は、同じ現象の表裏である。

    お金はある。
    価格も付く。
    企業も動いている。
    しかし回転数が上がらない。

    それは、成長の弱さが市場に表れた姿であり、
    人への分配が届いていないことの反映でもある。

    企業収益の改善が、防衛型から拡大型へ移行するかどうか。
    その収益が、賃金へ、投資へ、家計へと波及するかどうか。

    ここが分岐点である。


    Ⅴ.2026年の問い

    2026年に問われるのは、人が動き始めるかどうかである。

    賃金か、投資か、労働移動か。
    どれか一つを選ぶ問いではない。

    この三つが、どの順番で、どの速度で動くのか。
    問題は、その時間軸とバランスにある。

    物と金は先に動いた。
    人に届くまでの距離は、まだある。

    その距離は縮まるのか。
    縮まるとすれば、どの経路で、どの速度で起きるのか。

    それが次の論点である。