一九七三年から一九八五年、衝撃分散と質的再編ー
1.前提の崩壊
ー固定相場制と石油危機ー
高度成長期の日本には、復興需要があり、戦前から残された産業の土台があり、企業は設備投資を進め、金融機関は資金を供給した。政府もまた、成長の回路を整えていった。
しかし、それだけではなかった。日本の外部には、アメリカを中心とする国際秩序があり、固定相場制による為替の安定があり、広がり続ける海外市場があり、比較的安いエネルギーがあった。高度成長とは、国内の努力と外部条件がかみ合った時代でもあった。
一九七〇年代に入ると、その外部条件が大きく揺らぎ始める。大きなきっかけが、いわゆるニクソン・ショック、すなわち戦後の国際経済を支えてきたブレトンウッズ体制の終焉だった。
アメリカのドルを軸にし、金との交換可能性によって支えられていた通貨秩序は、世界経済の拡大とドルへの信認低下の中で限界を迎えた。ドルと金の交換停止によって、その通貨秩序は大きく変わった。日本もまた、一ドル三六〇円という固定された為替相場のもとで、輸出を伸ばしてきた。しかし、その前提は崩れた。為替は固定された土台ではなく、変動すること自体が前提条件になった。
もう一つの大きな衝撃が、石油危機だった。高度成長期の日本は、安い輸入エネルギー、とりわけ石油に大きく依存していた。生産、物流、生活のいずれにおいても、石油は成長の土台に組み込まれていた。
そこに、第四次中東戦争を背景とした産油国の供給制限と価格引き上げが重なり、石油価格は急騰した。しかもそれは、一時的な混乱にとどまらず、安い石油を前提にした時代の終わりを意味していた。企業の生産コストは上がり、生活に必要な費用も上がった。固定相場制の終焉が外との交換条件を変えたのだとすれば、石油危機は、国内で生産し、生活するための費用を変えたのである。
石油価格の上昇は、国民生活にも波及した。エネルギーや原材料の価格が上がれば、製品や生活必需品の価格にも影響が及ぶ。実際、一九七〇年代前半の日本では、物価が急激に上昇し、いわゆる狂乱物価と呼ばれる状況が生まれた。
高度成長期にも物価上昇はあったが、その多くは所得の伸びによって吸収されていた。この時期には、物価上昇そのものが生活の不安として意識されるようになった。成長の中に埋もれていた負担が、生活費の上昇として表に現れたのである。
一九七〇年代前半には、為替の安定が失われ、安いエネルギーの前提が崩れ、物価上昇が生活の表面に現れた。日本経済は、拡大を前提にして走る時代から、制約の中で調整しながら進む時代へ入っていった。
ここで問われたのは、誰か一つの主体が危機を解決することではなかった。企業は生産の仕組みを変え、政府と日銀は景気と物価の急変を抑え、金融機関は資金の回路を保ち、国民は生活の中で負担を受け止める必要があった。高成長の前提が崩れたあと、日本経済は、その衝撃を一か所に集中させず、どう分散して受け止めるかを問われる時代へ入っていった。
2.量を支える質
ー省エネルギー化と合理化ー
為替は固定された土台ではなくなり、エネルギーは安く使える前提ではなくなった。企業に求められたのは、高いエネルギー価格と為替変動の中でも生産を続け、国内外の市場で売り続けるために、量を支える質を高めることだった。
石油価格の高止まりは、企業にとって大きなコスト圧力になった。企業は、省エネルギー化や合理化を進め、生産工程や設備のあり方を見直していく。エネルギーの使用量を抑え、無駄を減らし、品質や効率を高めることで、コスト上昇を吸収しようとしたのである。
省エネルギー化と合理化は、単なる節約ではなかった。高いエネルギー価格と為替変動を前提に、競争力を維持するための生産の組み替えだった。
その変化は、エネルギーの使い方にも表れた。第一次石油危機後、日本では実質GDPが伸びる一方で、エネルギー消費の伸びは強く抑えられていく。経済を動かす量を保ちながら、そこに必要なエネルギーを絞っていく。この切り離しは、単なる節電ではなく、生産の仕組みそのものの作り替えだった。
高成長期に大きくなった経済の身体を、低成長の条件の中で動ける身体へ作り替える。これが、この時期の企業適応の核心だった。
その変化は、産業の重心にも表れていく。エネルギーを大量に使う産業は、石油価格の上昇によって強い圧力を受けた。一方で、自動車、電機、精密機械のように、効率や品質、技術によって競争力を高める産業の存在感は増していった。
産業構造が一気に入れ替わったわけではない。それでも、成長を支える中心は、量とエネルギーに大きく依存する分野から、効率と品質によって付加価値を生む分野へ、少しずつ移っていった。
生産現場でも、無駄を削り、在庫を減らし、工程を詰める発想が強まっていく。ジャスト・イン・タイムのような考え方は、単なる工場管理の技術にとどまらない。限られた資源を、できるだけ無駄なく生産と利益へつなげるための感覚でもあった。高成長期のように、量の拡大が多くの粗さを覆ってくれる時代ではなくなる中で、企業は量を支える質を内部から鍛え直していった。
省エネルギー化や合理化は、企業ごとの努力によって進められていった。労働現場では、生産工程を見直し、無駄を減らし、限られた人員や設備でより高い効率を求める動きが強まった。中小企業や下請け企業も、厳しい条件の中で技術を磨き、納期や品質への対応力を高めながら適応していった。
一方で、取引関係の中では、コスト削減の一部が下請けや中小企業に転嫁される場面もあった。企業の適応は、現場ごとの工夫と努力によって支えられながら、同時に負担の置き場所を変えていく過程でもあった。
企業は、外部条件の変化を、生産の仕組みの中で受け止めていった。省エネルギー化、合理化、品質や効率の改善は、企業の利益を守るだけのものではない。コスト上昇を吸収し、雇用を維持し、取引を続け、国内外の市場で売り続けるための仕組みだった。企業は、石油危機と為替変動の衝撃を、生産構造の中へ分散して吸収したのである。
ただし、企業だけでこの調整が成り立ったわけではない。設備を更新し、生産を続け、取引を維持していくには、資金の流れや景気の下支え、物価への対応が必要だった。企業が生産の仕組みを鍛え直すためには、その時間と資金を支える回路が必要になる。そこで前に出てくるのが、政府、日銀、金融機関だった。
3.時間と資金の回路
ー財政・日銀・金融機関ー
政府、日銀、金融機関が支えたのは、企業の代わりに成長を作ることではなかった。企業が生産の仕組みを組み替えるための時間と資金、そして物価の見通しだった。
政府は、財政支出によって景気を下支えした。公共投資や各種支出を通じて需要を保ち、一九七五年には赤字国債の発行に踏み切る。高度成長期のような自然な税収増を前提にできなくなる中で、政府は借金を通じて景気を支える局面に入った。
この財政支出は、単に景気を押し上げるためのものではなかった。需要が急落すれば、企業の取引は細り、雇用も揺らぎ、地域経済にも波及する。政府は財政によって、その連鎖が一気に切れることを防ごうとした。赤字国債は将来の負担の芽でもあったが、この局面では、需要の穴を埋め、企業が生産の仕組みを組み替えるための時間を稼ぐ手段でもあった。
八〇年代に入ると、赤字国債の発行は財政運営への負担も意識させるようになり、行政改革や民営化を通じて政府部門を引き締めようとする動きも強まっていく。ただし、この点を厚く扱うのは次の局面でよい。ここで重要なのは、財政が低成長への移行を支える緩衝材として前面に出てきたことである。
日銀は、石油危機後のインフレに対して金融引き締めで対応した。公定歩合を引き上げ、過熱した物価を抑え込もうとしたのである。狂乱物価のあと、物価安定は経済運営の大きな課題になった。
金融引き締めは、景気や企業活動に痛みを与える対応でもあった。しかし、物価上昇が続けば、企業は将来のコストを読みにくくなり、家計は生活費への不安を強める。日銀は、通貨と物価への信任を取り戻すために、経済全体の熱を冷ましていった。物価の安定は、企業が長い目で省エネルギー投資や設備更新を進めるための予測可能性にもなった。
金融機関は、企業の調整を資金面から支えた。銀行は、企業との継続的な取引関係をより深め、省エネルギー投資、設備更新、運転資金を支えていく。企業が生産の仕組みを変えるには、資金が必要だった。銀行を中心とする金融機関は、融資を通じて、企業が新しい条件に適応するための回路を保った。
重要なのは、資金の流れがそこで閉じなかったことである。企業が今日明日の資金繰りだけに追われれば、生産の仕組みを作り替える余裕は失われる。金融機関の融資は、企業が低成長の条件に合わせて身体を鍛え直すための回路になった。
政府、日銀、金融機関の対応は、それぞれ別の方向から低成長への移行を支えていた。政府は需要の急落を和らげ、日銀は物価への信任を取り戻し、金融機関は企業への資金回路を保った。これらが噛み合ったことで、コスト上昇や不況の衝撃は一か所に集中しにくくなり、企業が鍛え直すための猶予が生まれた。
この役割分担が機能したのは、高成長期に速度重視で拡大してきた経済の中に、まだ使える余白が残っていたからでもある。企業には、生産工程を詰め、エネルギーの使い方を見直し、品質と効率を高める余地があった。政府には、赤字国債という負担を伴いながらも、財政で需要の急落を和らげる余地があった。日銀には、公定歩合を通じてインフレを抑える手段があり、金融機関には、企業へ資金を流す継続的な関係があった。家計にも、雇用を土台に生活を守り、貯蓄を通じて金融の資金源となる余力があった。速度優先で広げられた経済の身体には、削れる場所、組み替えられる場所、支え直せる場所が、まだ残っていたのである。
ただし、この安定は負担を消したものではなかった。財政による下支えは赤字という形で将来の財政運営に影を落とし、金融引き締めは物価を抑える一方で景気や企業活動に圧力をかけた。銀行と企業の関係は調整を支えたが、資金の流れを既存の関係の中に留めやすくもした。そして、それらの調整は制度や企業の内部だけで完結しない。雇用、所得、消費、生活費を通じて、国民生活の側にも現れていくことになる。
