カテゴリー: 経済

  • 第2章 低成長への適応(1973-1985)①

    一九七三年から一九八五年、衝撃分散と質的再編ー

    1.前提の崩壊

    ー固定相場制と石油危機ー

    高度成長期の日本には、復興需要があり、戦前から残された産業の土台があり、企業は設備投資を進め、金融機関は資金を供給した。政府もまた、成長の回路を整えていった。

    しかし、それだけではなかった。日本の外部には、アメリカを中心とする国際秩序があり、固定相場制による為替の安定があり、広がり続ける海外市場があり、比較的安いエネルギーがあった。高度成長とは、国内の努力と外部条件がかみ合った時代でもあった。

    一九七〇年代に入ると、その外部条件が大きく揺らぎ始める。大きなきっかけが、いわゆるニクソン・ショック、すなわち戦後の国際経済を支えてきたブレトンウッズ体制の終焉だった。

    アメリカのドルを軸にし、金との交換可能性によって支えられていた通貨秩序は、世界経済の拡大とドルへの信認低下の中で限界を迎えた。ドルと金の交換停止によって、その通貨秩序は大きく変わった。日本もまた、一ドル三六〇円という固定された為替相場のもとで、輸出を伸ばしてきた。しかし、その前提は崩れた。為替は固定された土台ではなく、変動すること自体が前提条件になった。

    もう一つの大きな衝撃が、石油危機だった。高度成長期の日本は、安い輸入エネルギー、とりわけ石油に大きく依存していた。生産、物流、生活のいずれにおいても、石油は成長の土台に組み込まれていた。

    そこに、第四次中東戦争を背景とした産油国の供給制限と価格引き上げが重なり、石油価格は急騰した。しかもそれは、一時的な混乱にとどまらず、安い石油を前提にした時代の終わりを意味していた。企業の生産コストは上がり、生活に必要な費用も上がった。固定相場制の終焉が外との交換条件を変えたのだとすれば、石油危機は、国内で生産し、生活するための費用を変えたのである。

    石油価格の上昇は、国民生活にも波及した。エネルギーや原材料の価格が上がれば、製品や生活必需品の価格にも影響が及ぶ。実際、一九七〇年代前半の日本では、物価が急激に上昇し、いわゆる狂乱物価と呼ばれる状況が生まれた。

    高度成長期にも物価上昇はあったが、その多くは所得の伸びによって吸収されていた。この時期には、物価上昇そのものが生活の不安として意識されるようになった。成長の中に埋もれていた負担が、生活費の上昇として表に現れたのである。

    一九七〇年代前半には、為替の安定が失われ、安いエネルギーの前提が崩れ、物価上昇が生活の表面に現れた。日本経済は、拡大を前提にして走る時代から、制約の中で調整しながら進む時代へ入っていった。

    ここで問われたのは、誰か一つの主体が危機を解決することではなかった。企業は生産の仕組みを変え、政府と日銀は景気と物価の急変を抑え、金融機関は資金の回路を保ち、国民は生活の中で負担を受け止める必要があった。高成長の前提が崩れたあと、日本経済は、その衝撃を一か所に集中させず、どう分散して受け止めるかを問われる時代へ入っていった。


    2.量を支える質

    ー省エネルギー化と合理化ー

    為替は固定された土台ではなくなり、エネルギーは安く使える前提ではなくなった。企業に求められたのは、高いエネルギー価格と為替変動の中でも生産を続け、国内外の市場で売り続けるために、量を支える質を高めることだった。

    石油価格の高止まりは、企業にとって大きなコスト圧力になった。企業は、省エネルギー化や合理化を進め、生産工程や設備のあり方を見直していく。エネルギーの使用量を抑え、無駄を減らし、品質や効率を高めることで、コスト上昇を吸収しようとしたのである。

    省エネルギー化と合理化は、単なる節約ではなかった。高いエネルギー価格と為替変動を前提に、競争力を維持するための生産の組み替えだった。

    その変化は、エネルギーの使い方にも表れた。第一次石油危機後、日本では実質GDPが伸びる一方で、エネルギー消費の伸びは強く抑えられていく。経済を動かす量を保ちながら、そこに必要なエネルギーを絞っていく。この切り離しは、単なる節電ではなく、生産の仕組みそのものの作り替えだった。

    高成長期に大きくなった経済の身体を、低成長の条件の中で動ける身体へ作り替える。これが、この時期の企業適応の核心だった。

    その変化は、産業の重心にも表れていく。エネルギーを大量に使う産業は、石油価格の上昇によって強い圧力を受けた。一方で、自動車、電機、精密機械のように、効率や品質、技術によって競争力を高める産業の存在感は増していった。

    産業構造が一気に入れ替わったわけではない。それでも、成長を支える中心は、量とエネルギーに大きく依存する分野から、効率と品質によって付加価値を生む分野へ、少しずつ移っていった。

    生産現場でも、無駄を削り、在庫を減らし、工程を詰める発想が強まっていく。ジャスト・イン・タイムのような考え方は、単なる工場管理の技術にとどまらない。限られた資源を、できるだけ無駄なく生産と利益へつなげるための感覚でもあった。高成長期のように、量の拡大が多くの粗さを覆ってくれる時代ではなくなる中で、企業は量を支える質を内部から鍛え直していった。

    省エネルギー化や合理化は、企業ごとの努力によって進められていった。労働現場では、生産工程を見直し、無駄を減らし、限られた人員や設備でより高い効率を求める動きが強まった。中小企業や下請け企業も、厳しい条件の中で技術を磨き、納期や品質への対応力を高めながら適応していった。

    一方で、取引関係の中では、コスト削減の一部が下請けや中小企業に転嫁される場面もあった。企業の適応は、現場ごとの工夫と努力によって支えられながら、同時に負担の置き場所を変えていく過程でもあった。

    企業は、外部条件の変化を、生産の仕組みの中で受け止めていった。省エネルギー化、合理化、品質や効率の改善は、企業の利益を守るだけのものではない。コスト上昇を吸収し、雇用を維持し、取引を続け、国内外の市場で売り続けるための仕組みだった。企業は、石油危機と為替変動の衝撃を、生産構造の中へ分散して吸収したのである。

    ただし、企業だけでこの調整が成り立ったわけではない。設備を更新し、生産を続け、取引を維持していくには、資金の流れや景気の下支え、物価への対応が必要だった。企業が生産の仕組みを鍛え直すためには、その時間と資金を支える回路が必要になる。そこで前に出てくるのが、政府、日銀、金融機関だった。


    3.時間と資金の回路

    ー財政・日銀・金融機関ー

    政府、日銀、金融機関が支えたのは、企業の代わりに成長を作ることではなかった。企業が生産の仕組みを組み替えるための時間と資金、そして物価の見通しだった。

    政府は、財政支出によって景気を下支えした。公共投資や各種支出を通じて需要を保ち、一九七五年には赤字国債の発行に踏み切る。高度成長期のような自然な税収増を前提にできなくなる中で、政府は借金を通じて景気を支える局面に入った。

    この財政支出は、単に景気を押し上げるためのものではなかった。需要が急落すれば、企業の取引は細り、雇用も揺らぎ、地域経済にも波及する。政府は財政によって、その連鎖が一気に切れることを防ごうとした。赤字国債は将来の負担の芽でもあったが、この局面では、需要の穴を埋め、企業が生産の仕組みを組み替えるための時間を稼ぐ手段でもあった。

    八〇年代に入ると、赤字国債の発行は財政運営への負担も意識させるようになり、行政改革や民営化を通じて政府部門を引き締めようとする動きも強まっていく。ただし、この点を厚く扱うのは次の局面でよい。ここで重要なのは、財政が低成長への移行を支える緩衝材として前面に出てきたことである。

    日銀は、石油危機後のインフレに対して金融引き締めで対応した。公定歩合を引き上げ、過熱した物価を抑え込もうとしたのである。狂乱物価のあと、物価安定は経済運営の大きな課題になった。

    金融引き締めは、景気や企業活動に痛みを与える対応でもあった。しかし、物価上昇が続けば、企業は将来のコストを読みにくくなり、家計は生活費への不安を強める。日銀は、通貨と物価への信任を取り戻すために、経済全体の熱を冷ましていった。物価の安定は、企業が長い目で省エネルギー投資や設備更新を進めるための予測可能性にもなった。

    金融機関は、企業の調整を資金面から支えた。銀行は、企業との継続的な取引関係をより深め、省エネルギー投資、設備更新、運転資金を支えていく。企業が生産の仕組みを変えるには、資金が必要だった。銀行を中心とする金融機関は、融資を通じて、企業が新しい条件に適応するための回路を保った。

    重要なのは、資金の流れがそこで閉じなかったことである。企業が今日明日の資金繰りだけに追われれば、生産の仕組みを作り替える余裕は失われる。金融機関の融資は、企業が低成長の条件に合わせて身体を鍛え直すための回路になった。

    政府、日銀、金融機関の対応は、それぞれ別の方向から低成長への移行を支えていた。政府は需要の急落を和らげ、日銀は物価への信任を取り戻し、金融機関は企業への資金回路を保った。これらが噛み合ったことで、コスト上昇や不況の衝撃は一か所に集中しにくくなり、企業が鍛え直すための猶予が生まれた。

    この役割分担が機能したのは、高成長期に速度重視で拡大してきた経済の中に、まだ使える余白が残っていたからでもある。企業には、生産工程を詰め、エネルギーの使い方を見直し、品質と効率を高める余地があった。政府には、赤字国債という負担を伴いながらも、財政で需要の急落を和らげる余地があった。日銀には、公定歩合を通じてインフレを抑える手段があり、金融機関には、企業へ資金を流す継続的な関係があった。家計にも、雇用を土台に生活を守り、貯蓄を通じて金融の資金源となる余力があった。速度優先で広げられた経済の身体には、削れる場所、組み替えられる場所、支え直せる場所が、まだ残っていたのである。

    ただし、この安定は負担を消したものではなかった。財政による下支えは赤字という形で将来の財政運営に影を落とし、金融引き締めは物価を抑える一方で景気や企業活動に圧力をかけた。銀行と企業の関係は調整を支えたが、資金の流れを既存の関係の中に留めやすくもした。そして、それらの調整は制度や企業の内部だけで完結しない。雇用、所得、消費、生活費を通じて、国民生活の側にも現れていくことになる。

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)③

    第5節 高成長が吸収した矛盾

    高度成長の果実は、比較的広く社会に配られていた。
    ただし、その配分は均質ではなく、特定の場所や人々、そして未来へと負担を偏らせることで成り立っていた。
    高度成長の特徴は、成長の果実を広く配りながら、その裏の負担を全体の限界として見えにくくしたところにある。
    この時代の安定は、矛盾が消えていたからではなく、負担の所在が偏りながらも、成長の勢いによって全面化しにくかったから成立していたのである。

    最初に見なければならないのは、地域が引き受けた負担である。
    高度成長は、日本全体を均等に押し上げたわけではなかった。
    工業化と都市化が進むほど、人も資本も情報も、より成長率の高い都市部へ集中していく。
    地方から都市へ若年労働力が流れ、都市は拡大し、地方は人口流出と高齢化の兆しを抱え始める。
    都市にとっては成長の条件であり、地方にとっては活力の流出でもあった。
    この移動は、日本全体の生産性上昇という意味では合理的だった。
    その合理性は、地方側から見れば必ずしも中立ではない。
    高度成長は、成長する場所と、そこへ人を送り出す場所とのあいだに、目に見えにくい非対称を広げていった。

    特定の地域と住民が引き受けた負担も大きい。
    人口と産業が急速に集中すれば、住宅不足、通勤混雑、交通渋滞、インフラ不足は避けがたい。
    都市の発展は、最初から快適で均整の取れた生活環境を保証するものではなかった。
    都市は豊かになったが、同時に、豊かさに追いつかない生活環境の歪みも抱え込んでいった。
    その歪みがもっとも激しく現れたのが、公害である。
    工場が立ち並び、生産が拡大し、エネルギー消費が増えれば、煙や排水や廃棄物もまた増える。
    生産拡大そのものが国家的な優先課題であった以上、環境への負荷は長く「成長のコスト」として受け流されやすかった。
    公害は単なる事故や逸脱ではなかった。
    成長を最優先し、副作用への対応を後段に回す社会の進み方そのものから生まれていた。
    被害は日本社会全体に均等に広がったのではなく、特定の地域や住民に偏って引き受けられていた。
    高度成長の成功は、その意味でも負担の偏った配分の上に成り立っていたのである。

    労働者と家計が引き受けた負担も見落とせない。
    雇用は増えたが、その日常は長時間労働や企業中心の生活によって支えられていた。
    過密な職場環境や都市流入者の不安定な住環境も、その重さの一部だった。
    成長の果実は比較的広く配られていたが、その果実を支える日常は、必ずしも軽いものではなかった。
    企業社会への強い組み込みは、安定の源泉であると同時に、生活の重心を会社へ大きく傾けることでもあった。

    家計の安定や大衆消費社会の成立は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業にも支えられていた。
    当時は、男性賃金を中心に家計を組み立て、女性が家事、育児、家計管理を引き受けるモデルが広がっており、それが成長期の生活安定の一部を支えていた。
    この分業は、家計の効率性と引き換えに、生活世界の分離も進めた。
    男性は家庭への参加を相対的に減らしながら会社へ強く組み込まれ、女性は社会参加の幅を狭めながら家庭の維持を担うことになりやすかった。
    都市部での核家族化は、家族と地域の結びつきの形を変え、会社が地域に代わる主要な共同体として膨らむ余地も広げた。
    ここにも、高度成長が経済特化と速度特化を進めるなかで、生活の編成そのものを組み替えていった一面がある。

    高度成長の成功は、その場で解消できない負担を次の時代へ送ることによっても成り立っていた。
    日本は、アメリカ主導の固定相場と対米市場へのアクセスによって大きな利益を受けた。
    その意味は、外部条件の変化に強く左右される構造を同時に抱え込むことでもある。
    輸出が伸びるほど対米摩擦の芽は育ち、工業化が進むほど海外資源への依存も深まる。
    投資主導の成長回路も、雇用・所得・消費の安定も、高成長が続くことを前提にしていた。
    この時代の日本は、問題をその場で処理したというより、高成長の継続によって次の時代へ押し出していたのである。

    高度成長は、多くの人の生活を実際に引き上げた。
    だからこそ、その成功の内部に埋め込まれていた負担の配分も、あわせて見なければならない。
    地方が引き受けた負担、特定地域や住民が引き受けた負担、労働者と家計が引き受けた負担、そして次の時代へ送られた負担。
    これらは成長の失敗ではない。
    成長が強く機能したからこそ、その内部で見えにくくなっていた矛盾である。

    高度成長の時代を「良い時代」としてだけ記憶すると、その矛盾は見えない。
    逆に、「問題だらけだった」としてだけ裁くと、なぜ人々がその時代を支持しえたのかが見えない。
    この時代の日本は、たしかに成長していたし、その果実は多くの人の生活を前進させた。
    そのため、成長の裏で蓄積していた問題は、すぐには全体の限界として意識されにくかった。
    高度成長の本当の強さとは、成長そのものが負担を分散し、吸収し、先送りできるだけ十分に強かったところにあった。

    その容器にも限界はある。
    高成長が続くことを前提にした社会は、その前提が揺らいだとき、初めて自分が何を吸収していたのかを知ることになる。
    一九七三年以前の日本にも、すでに多くの問題は存在していた。
    高成長という強い流れが、それらを表面化しにくくしていたのである。


    第6節 1973年を前にして

    高度成長の終わりは、一九七三年の石油危機だけで突然訪れたものではなかった。
    その前から、固定相場制と対米関係という外部条件には揺らぎが生まれていた。
    石油危機は、その揺らぎを一気に前景化させたのである。
    ここで揺らいだのは、政策や景気だけではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいのかという感覚そのものだった。

    最初に揺らいだのは、固定相場制と対米関係である。
    戦後日本の高成長は、固定相場制と対米市場という安定した国際環境の上に立っていた。
    日本の輸出競争力が高まり、貿易黒字が拡大していくほど、その安定はアメリカにとって無条件に受け入れられるものではなくなっていく。
    日本にとって有利だった条件は、相手にとっては不均衡の拡大でもあった。
    高度成長を支えていた外部条件は、その成功ゆえに摩擦の種も育てていたのである。

    その象徴がニクソン・ショックである。
    一九七一年、アメリカはドルと金の交換停止を打ち出し、ブレトンウッズ体制の前提を崩した。
    日本にとっては、長く成長の基盤となってきた固定相場の安定が、もはや当然ではないことを突きつけられた出来事だった。
    円は切り上げを迫られ、輸出主導型成長の前提も再考を迫られる。
    成長の回路が強く外需と為替の安定に依存していた以上、固定相場制の揺らぎは、単に輸出企業の収益を揺らすだけではない。
    日本経済全体が、これまでのような外部条件の上に成り立ち続けられるのかどうかを問うものだった。

    一九七三年の第一次石油危機は、外からの衝撃であると同時に、高度成長の内部にあった脆さを一気に表面化させた出来事だった。
    その衝撃が大きく響いたのは、日本の成長がすでに外部資源への依存を深め、高成長の継続を社会全体の安定条件にしていたからである。
    石油危機は、新しい問題を持ち込んだというより、高度成長を支えていた前提の脆さを露出させた。

    ここで終わったのは、成長そのものではなく、高成長を当然の前提として社会を動かしてよいという感覚だった。
    成長の勢いの中で後景へ退いていた矛盾は、この境目から別の重みを持ち始める。
    日本経済はここで、成長率が高くなくても社会をどう維持するのかという次の問いを抱えて動き出す。


    1章:参考資料

    ・中村隆英『The Postwar Japanese Economy: Its Development and Structure, 1937-1994』
    ・Chalmers Johnson, MITI and the Japanese Miracle
    ・Andrew Gordon, A Modern History of Japan
    ・内閣府 経済社会総合研究所「国民経済計算年次推計」

  • 1章:成長の条件と残された課題(1945-1973)②

    第3節 政府・金融・企業がつくった成長の回路

    戦後日本の成長は、アメリカ主導の固定相場・冷戦体制という外部条件の上に成り立っていた。
    その追い風を、実際の生産拡大、設備投資、輸出競争力へ変えるには、国内でそれを回す仕組みが要る。
    その仕組みを支えたのが、政府、金融、企業の結びつきである。
    高度成長とは、市場に任せて自然に起きた現象というより、政府が方向を示し、金融が資金を流し、企業が積極的に投資することで回っていた成長の回路だった。

    政府の役割は大きかった。
    ここでいう政府とは、単に予算を配る存在ではない。
    産業政策を通じて、どの分野に資源を集め、どの分野を育て、どの分野を後回しにするかという方向を示す存在だった。
    通商産業省を中心とする行政は、外貨配分、輸入管理、技術導入、税制、公共投資などを通じて、成長の重点を重化学工業や輸出産業へ寄せていった。
    鉄鋼、造船、石油化学、機械、自動車といった分野が伸びたのは、企業の努力だけによるものではない。
    国家が限られた資源をどこへ集中させるかという選択を行い、その方向に成長のレールを敷いていたからである。

    現場で投資し、製品を作り、競争し、生産性を上げたのは企業である。
    日本の高度成長は、国家が大まかな進路を示し、企業がその中で拡張競争を行うかたちで進んだ。
    自由市場と統制経済の中間に、独特の成長国家のかたちがあったのである。

    その国家の方向づけを現実の拡大へ変えたのが金融だった。
    成長には資金がいる。
    重化学工業化や設備投資主導の成長には、短期資金よりも、将来の需要を見込んで先に投じる大きな資金が必要だった。
    そこで重要だったのが、銀行中心の金融システムである。
    家計の貯蓄は金融機関に集まり、その資金が企業へ貸し出される。
    さらに日銀の金融調節や行政の保護の下で、低金利と安定的な資金供給が保たれた。
    金融は単なる仲介ではなく、成長の時間を先取りする装置として機能していた。

    この時代の企業は、後の日本企業のイメージほど守りに入ってはいない。
    需要は伸びる。
    輸出も広がる。
    国内のインフラ整備も進む。
    そうした見通しの下で、企業は借入を拡大し、設備投資を積み増し、生産能力を先回りして広げていった。
    借金をしてでも大きくなることに合理性があった。
    いまの日本企業に付きまとう「内部留保を積み上げる慎重さ」は、この時代の中心的な姿ではない。
    高度成長期の企業は、利益をため込むより、次の成長を見込んで再投資する主体だったのである。

    政府、金融、企業は、ここで一本の回路としてつながる。
    政府が成長分野を後押しし、金融がそこへ資金を流し、企業が生産設備を拡大する。
    設備投資は生産性を押し上げ、輸出と国内供給を増やし、利益と所得を生む。
    所得の増加は貯蓄の増加にもつながり、その資金が再び金融機関を通じて投資へ戻っていく。
    この時代の成長は、単発の追い風ではなく、投資が投資を呼ぶ循環として回っていた。
    高度成長の強さとは、外から与えられた好条件を、この国内循環が自己増殖的に拡大していったところにある。

    その循環は生産現場の改善とも結びついていた。
    設備を増やすだけでは競争力は続かない。
    量産を回し、不良率を下げ、工程を整え、品質を上げていく必要がある。
    戦後初期には「安かろう悪かろう」と見られた日本製品が、やがて「安くて品質が安定している」ものへと評価を変えていった背景には、この投資主導の回路と現場の改善努力の結合があった。
    政府が方向を示し、金融が前貸しし、企業が量産と改善で応える。
    高成長の回路は、単なる資金の循環にとどまらず、技術と品質の蓄積の回路でもあった。

    この回路は成長を押し上げる一方で、偏りや将来の調整課題も抱え込んだ。
    高い成長率が続くことが、その前提にあった。
    将来の需要が伸びるという期待があるからこそ、銀行は貸し、企業は借り、政府も拡張を正当化できた。
    資源配分は重化学工業や輸出産業へ偏りやすく、そこで取り残される分野や地域も生まれる。
    政府、金融、企業の距離が近いほど、成長局面では強いが、後に調整が必要になったときには、どこで線を引くのかが曖昧になりやすい。
    この時代の成長回路は、日本を一気に押し上げたが、それ自体が永遠に続く仕組みではなかった。

    それでも、一九五〇年代後半から六〇年代にかけては、この回路は力強く機能した。
    外には固定相場と対米市場があり、内には政府の方向づけと銀行の資金供給があり、企業には将来需要を見込んで投資を拡大する意欲があった。
    この噛み合いが、日本経済を単なる復興から持続的な成長へ押し上げた。
    その果実は、雇用、所得、消費の拡大というかたちで比較的広く社会に配られていく。
    高度成長は、政府、金融、企業だけの成功では終わらなかった。
    果実が国民生活に届いたからこそ、この成長は社会の安定とも結びついていった。


    第4節 労働移動と大衆消費社会

    政府・金融・企業が作った成長の回路は、工場の数字や輸出額だけを押し上げたのではなかった。
    その回路が本当に戦後日本を安定させたのは、成長の果実が雇用、所得、消費の拡大というかたちで国民生活に届いたからである。
    高度成長が単なる生産拡大の時代を超えて、社会そのものの風景を変える時代になったのは、この点にある。
    工場が増え、投資が拡大し、輸出が伸びる。
    その結果として、人が動き、家計が変わり、暮らしの標準が書き換えられていった。

    その変化の中心にあったのが、労働移動である。
    戦前から続いていた農村人口の厚みは、戦後の高度成長期に急速に都市部へ引き寄せられていく。
    工業化が進むほど、工場、建設、運輸、サービスの現場では人手が必要になる。
    都市は仕事を生み、地方は人を送り出した。
    この移動は、単なる人口の移動ではない。
    低生産性部門から高生産性部門への移動であり、日本全体の生産性を押し上げる力でもあった。
    成長は、人がじっとしている社会では起こりにくい。
    この時代の日本では、人そのものが成長の回路の中を流れていたのである。

    この労働移動は、個人にとってはきわめて大きな生活の転換を意味した。
    農村から都市へ出るということは、仕事の内容が変わるだけではない。
    住む場所が変わり、家族の形が変わり、消費の仕方が変わり、人生の見取り図そのものが変わるということである。
    集団就職という言葉が象徴するように、この時代の成長は、若年層を地方から都市へ吸い上げながら進んでいった。
    それは地方にとっては人口流出であり、都市にとっては労働力流入であり、日本経済全体にとっては成長の推進力だった。
    この動きによって、企業は必要な人手を得て、生産を拡大し続けることができた。

    豊かさは広がったが、その届き方には濃淡があった。
    業種差も地域差もあり、大企業と中小企業の差もあった。
    それでも、全体として見れば、戦後日本では成長の果実が家計に届く経路が比較的強く働いていた。
    賃金の上昇は消費の拡大につながり、消費の拡大はさらに企業の生産と投資を支える。
    投資主導の回路は家計の側にまでつながり、成長は生活の改善として実感されるようになっていく。

    所得倍増という言葉が象徴的に使われるのは、そのためである。
    それは単なるスローガンではなかった。
    実際に、多くの人にとって生活水準が上がっていく感覚があった。
    テレビ、冷蔵庫、洗濯機に代表される耐久消費財は、その象徴である。
    これらは単なる商品ではない。
    工業生産の成果が家計の中に入り込み、生活のリズムそのものを変えていく装置だった。
    電化製品の普及は、消費の拡大であると同時に、「普通の暮らし」の基準を書き換える出来事でもあった。
    高度成長期の大衆消費社会とは、豊かさが一部の贅沢ではなく、多くの家計の現実へ降りてきた社会だったのである。

    消費の拡大は、生活必需の充足や家事負担の軽減、住環境の改善として現れた。
    教育投資の拡大もその流れの中にある。
    そうした変化が重なったことで、成長は単なる国家の統計ではなく、日常の手触りになった。
    人々を動かしたのは、暮らしが前より良くなっていくという実感だった。
    前より買えるようになった。
    前より便利になった。
    前より子どもに教育を与えられるようになった。
    その実感があったからこそ、高度成長は政治的にも社会的にも強い正統性を持ちえたのである。

    このことは、中間層意識の形成とも深く関わっている。
    高度成長期の日本では、自分たちは極端な貧困層ではなく、ある程度安定した生活を送る「中ほど」にいるという感覚が広がっていく。
    この感覚は、厳密な統計分類というより、生活実感としての共有感覚だった。
    住宅を持ち、家電を持ち、子どもを学校へやり、年ごとに暮らし向きが少しずつ良くなる。
    そうした経験の積み重ねが、「自分たちは上にのぼっている」という感覚を支えた。
    成長の果実が一部に偏りすぎれば不満は先鋭化するが、この時代の日本では、少なくとも多くの人が自分もその果実の一部を受け取っていると感じることができた。

    高度成長の強さは、単に成長率が高かったことではない。
    その成長が、多くの人にとって「自分の暮らしも前に進んでいる」と感じられる形で配分されていたことにあった。
    このことは裏を返せば、成長の持続が社会の安定そのものの条件になっていたことを意味する。
    雇用が増え、所得が上がり、消費が拡大するという循環が続く限り、矛盾は後景へ退く。
    その循環が鈍れば、これまで成長の中で吸収されていた問題は別の顔で現れてくる。

    その配分には、すでに偏りも含まれていた。
    家計の安定は、世帯内で誰が所得を担い、誰が生活の維持を担うかという分業や、会社を生活の中心的な共同体として受け入れる社会の形にも支えられていた。
    成長の果実は広く届いたが、その届き方そのものにはすでに偏りがあり、負担の輪郭もまた高成長の裏面として現れ始めていた。