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  • 第1章 開国と欧米秩序への編入①

    ーアメリカの入口から列強秩序へー

    アメリカを入口として始まった開国は、すぐに複数の欧米諸国を相手にする問題へ広がっていった。
    だがその過程で露わになったのは、外国との接触そのものではなく、誰が日本を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であるのかというずれであった。


    1.アメリカが開いた入口

    開国の入口がアメリカだったこと自体、すでに条件に規定された政治的選択の問題だった。幕末の開国はしばしば、黒船来航によって日本が一方的に扉をこじ開けられた出来事として語られる。だが、幕府はそれ以前から外の世界の接近を認識しており、その中で最初の本格対応相手としてアメリカを受け止めていった。開国の入口は、単なる偶然でも単純な力負けでもなく、外圧の性格と幕府の相対判断が交差した結果として見る必要がある。

    外圧そのものは、ペリー来航の日に突然生まれたわけではない。幕府はそれ以前から、北方でのロシアの接近や欧米船の来航増加を通じて、従来の対外統制だけでは持ちこたえにくくなっていることを意識していた。アヘン戦争後にはオランダ経由で海外事情が入り、1844年にはオランダ国王ウィレム2世が開国を勧告し、1852年にはドンケル=クルティウスがアメリカ使節来航を予告していた。つまり幕府は、まったく不意を突かれたのではない。外の世界が近づいてきていること自体は、すでに知っていたのである。

    そのうえで、最初に本格的な突破口を開いたのがアメリカだったのには、アメリカ側の事情がある。十九世紀半ばのアメリカにとって、日本は単なる東アジアの一地域ではなかった。中国市場へ向かう太平洋横断航路の中で、蒸気船の補給地、捕鯨船の避難港、通商の中継地として、日本そのものに港を開かせる必要が強かったのである。少なくともこの点で、アメリカの日本接近は、既存のアジア拠点や中国沿岸との関係の延長で日本を位置づけやすかった欧州列強に比べて、日本に港を開かせる直接的な必要がより強かったと見る方が自然である。

    このことは、日本側の受け止め方にも影響したと考えられる。もちろん幕府にとってアメリカは脅威であり、黒船は武力を背景とした外圧そのものであった。だが同時に、ロシアのように北方から直接圧迫する存在でもなく、イギリスのようにすでにアジア海域で強い帝国的基盤を持つ相手でもないという意味で、アメリカは英露とは少し違う位置に見えた可能性が高い。ここでいう相対判断とは、幕府が余裕をもってアメリカを選んだという意味ではない。後に見るように、幕府はロシアに対しては、北方から直接圧力を及ぼしうる相手として強く警戒し、長崎や下田のような既存・周縁の窓口で処理しようとする傾向を持っていた。そうした対応と比べると、アメリカは脅威でありながらも、最初の条約上の入口として受け止められた相手だったと見ることができる。どうせ避けられない接触であるなら、まずはアメリカとの関係として処理する方がまだましだ、という判断が入り込む余地はそこにあった。

    しかも、幕府はただ一方的に押し切られたわけではない。ペリー艦隊が浦賀に現れたとき、日本側はまず長崎回航を求めた。これは従来の対外処理の枠内で事態を管理しようとする対応であったが、ペリー側はこれを拒み、浦賀での国書受領を強硬に迫った。結果として幕府は受け入れざるを得なかったが、1853年の最初の来航時には一年の猶予を求め、艦隊をいったん退去させている。その後、幕府はオランダへ軍艦購入を申し出てもいる。ここで幕府がしていたのは、単なる屈服ではない。外圧を避けられないものと見たうえで、時間を取り、準備を進め、入口の条件を少しでも管理しようとする現実対応であった。

    この意味で、1854年の日米和親条約と1858年の日米修好通商条約は、単なる押しつけられた結果とだけ書くには足りない。そこには、幕府がすでに外圧を認識し、オランダ経由で情報を集め、時間を稼ぎつつ、最初の本格対応相手としてアメリカを受け止めたという過程がある。開国の入口がアメリカだったのは、偶然でも単純な力負けでもなく、外圧の性格と幕府の相対判断が交差した結果であった。


    2.アメリカとの接触から多国間の圧力構造へ

    開国は、アメリカとの接触にとどまらず、ただちに多国間の圧力構造へ広がった。重要なのは、最初の入口を開いたのがアメリカであったとしても、幕府が向き合うべき問題はすぐに「アメリカにどう対応するか」では済まなくなったことである。開国後の日本外交は、一国との関係処理ではなく、複数の欧米諸国を同時に相手にする秩序への編入として進んでいった。

    この時代の国際関係では、先行して条約を取り付けた国に他国が続き、同様の条件を求めるのは珍しいことではなかった。日本もまたその例にもれず、1854年の日米和親条約の後にはイギリスやロシアが続き、1858年の日米修好通商条約を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも相次いで修好通商条約を結ぶことになる。ここで生じた変化は、相手国の数が増えたというだけではない。ある国への譲歩がすぐに別の国への前例となり、交渉余地そのものが急速に狭まっていったのである。

    一国との交渉であれば、時間を稼ぎ、窓口を限定し、一定の順序で処理する余地がまだある。だが相手が複数になれば、ある国に対する処理はすぐ別の国との関係を規定する。開国後の日本外交は、閉じる外交ではなく、広がってしまった関係を管理する外交へと変質していった。

    ここで見落としてはならないのは、その交渉自体が言語と制度の面でも日本に不利な構造を持っていたことである。ペリー来航時の日米交渉は、漢文とオランダ語を介して進められたと研究されており、相手の主張や論理を日本側がそのままの形で受け取っていたわけではない。さらに安政五カ国条約期になると、英語、フランス語、オランダ語、日本語が複雑に絡み合い、どの文面を基準とするかについてもずれが生じうる状況に置かれていた。

    問題は単なる誤訳ではない。どの言語が正式なのか、どの解釈が基準になるのかという制度そのものが、日本側にとって不利に働きやすかったのである。こうした不均衡は、通訳や翻訳の問題にとどまらなかった。条約とは何か、国家は何を約束し、誰がそれを履行するのかという理解そのものに関わっていたからである。

    幕末後半、幕府や雄藩が「万国公法」という語彙を学び始める背景には、この不均衡を相手の言葉で理解し、処理しようとする必要もあった。外国と交渉するためには、相手の言語だけでなく、相手が秩序を語るための言葉を身につけなければならなかったのである。したがって、日本が想定以上の譲歩をした場面があったとしても、それをただちに「単純に騙された」と片づけるのは雑である。他方で、欧米側がこうした構造を自国に有利に使いうる立場にあったことも否定しにくい。そこには、条約交渉が武力を背景にした不均衡の下で進められたという事情も重なっていた。

    だからこそ、幕府側の担当者たちを、ただ旧体制の未熟な官僚として片づけることも適切ではない。むしろ彼らは、限られた言語環境と不均衡な条件の中で、相当に高い実務能力を発揮していたと見るべきである。

    この中で、オランダの位置はやや特別であった。オランダは江戸期を通じて出島を通じた通商を継続し、幕府にとって海外情報の重要な供給源であり続けた。実際、オランダ風説書は、アメリカの来航意図や石炭置場要求まで具体的に伝える貴重な情報源だった。他方で、幕末期には本国オランダの国際的地位はすでに低下しており、英仏露のように圧力の主役にはなりにくかった。だからこそオランダは、重要な窓口でありながら、秩序を主導する国ではなかったのである。

    こうして日本は、複数の欧米諸国を相手にする場へ押し出された。だが重要なのは、相手国が増えたこと自体ではない。ある国への対応が別の国との関係を左右する以上、日本が向き合う相手は、すでに個別の外国ではなく、列強どうしの関係を含んだ秩序そのものになりつつあった。


    3.列強間の力関係が日本へ流れ込む

    幕末日本に流れ込んだのは、複数の外国だけでなく、列強どうしの力関係そのものであった。多国間化とは、単に相手国の数が増えることではない。ある国の後退が別の国の前景化を促し、ある国との接近が別の国の警戒を呼び込む。そのような列強間の配置の中に、日本が置かれ始めたことこそが重要である。

    そのことは、アメリカの位置の変化によく表れている。アメリカは開国の入口を開いた国であった。十九世紀半ばのアメリカにとって、日本は太平洋横断航路の寄港地、補給地として重要性の高い存在であり、だからこそ港を開かせる必要も強かった。だが、その重要性がそのまま幕末後半の継続的関与につながったわけではない。南北戦争によって国家の重心は国内へ引き戻され、対外関与の優先順位と実行の余裕は相対的に低下したからである。

    その結果、開国の起点では前面にいたアメリカは、幕末後半の政局再編では後景へ退いていく。一方で、フランス、イギリス、ロシアの比重は増していった。重要なのは、入口の主役だった国と、その後の外交条件を左右した国とは必ずしも一致しなかったということである。ペリー来航の衝撃と、幕末後半における英仏露の前景化は矛盾しない。むしろそこに、開国の瞬間と、その後の秩序変化をつなぐ鍵がある。

    ロシア問題は、その変化をさらに複雑なものにした。ロシアは幕末に突然現れた脅威ではなく、江戸期を通じて北方から迫る存在として繰り返し警戒されてきた。幕府にとってロシアは、単なる通商相手ではなく、北方から直接圧力を及ぼしうる相手として認識されていた。そのため幕府は、ロシアを江戸湾の正面に引き入れるよりも、長崎や下田のような既存・周縁の窓口で処理したがる傾向を持っていたと考える方が自然である。ここには、アメリカを入口として受け止めた判断とは別の、より強い地政学的警戒が働いていた。

    しかしロシア問題の重さは、日本側の北方警戒だけにあったのではない。ロシアが日本に他の欧米諸国以上に深く入り込むこと自体を、イギリスやフランスもまた警戒していた。クリミア戦争期、ロシアは英仏と交戦状態にあり、ロシア船を求めて英仏の艦船が日本近海に現れていたことが確認できる。つまりロシア問題とは、日本にとっての北方不安であると同時に、英仏の対露警戒まで呼び込む問題でもあった。

    日本はロシアだけを相手にしていたのではない。ロシアをどう扱うかを通じて、英仏との関係まで同時に処理しなければならなかったのである。ここで重要なのは、アメリカの後景化とロシア問題が、別々の出来事ではないということである。アメリカの後景化は、入口を開いた国がその後の秩序を主導するとは限らないことを示していた。ロシア問題は、日本の一国対応がそのまま英仏との関係に波及することを示していた。

    この二つを合わせて見ると、幕末日本はすでに、列強どうしの競争と牽制が交差する場として扱われ始めていたことが分かる。だからこそ、外国との関係はもはや中央の一元的な処理だけでは済まず、国内の権力構造そのものを揺さぶる問題へ近づいていく。

  • 目次:歴史と構造

    歴史

    日本近現代外交史

    戦後経済史


    構造

    現代資本主義の作動原理(うんぱった的資本主義解説)


  • 日本近現代外交史:序章

    序章

    今回の長編は、幕末から戦前までの日本を、出来事の連鎖としてではなく、対外秩序の変化にさらされた国家の条件と選択として見るための試みである。

    近代以降の日本史は、しばしば極端な議論を呼びやすい。資料が多く、関わる人物も多く、事件の密度も高いからである。誰が正しかったのか。誰が誤ったのか。あの時ほかにどのような選択がありえたのか。議論は自然に、人物評価や理念対立、あるいは成功と失敗の物語へ引き寄せられる。もちろん、それらは歴史の大きな醍醐味である。人物の魅力や理念の衝突、出来事の劇性があるからこそ、歴史は単なる年表ではなく、生きた時代として立ち上がる。

    だが、その景色が鮮やかであるほど、かえって見えにくくなるものもある。国家がどのような対外秩序の中に置かれ、どのような条件の下で、どこまで選びえたのか、あるいはどこから先は選べなかったのか、という問題である。

    出来事は、それ自体だけで起きるわけではない。その背後には、国際環境があり、力の配分があり、通商と軍事の条件があり、列強どうしの牽制があり、その中で国家が占めた位置がある。ある事件を理解するとは、その原因や経過を知ることだけではない。その事件がどのような条件の中で起こり、何を変え、どの選択肢を広げ、どの選択肢を閉ざしたのかを知ることでもある。本稿が見たいのは、その点である。

    したがって、個々の事件を英雄や奸臣の物語として描くことを主眼としない。また、理念の対立だけで時代を説明しようとするものでもない。人物も理念も重要である。しかしそれらもまた、より大きな対外秩序の変化の中で動いている。本稿で中心に置くのは、事件の派手さではなく、国家が置かれた条件の変化である。日本が何を外から求められ、何を脅威と見なし、何を守ろうとし、どこで適応し、どこで拡張し、どこで均衡を失っていったのか。その輪郭を追う。

    その意味で、戦史そのものを書くものではない。戦争や事変に触れないわけではないが、それらを戦場の経過として詳述することが目的ではない。ここで重視するのは、それらが対外秩序と外交の条件をどう変えたかである。同じように、経済や国内政治も本稿の外にあるわけではない。ただし、それらをそれ自体として全面に出すのではなく、対外関係の変化と結びつく範囲で扱う。主役はあくまで、国家と外部世界との関係である。

    また、一国との関係だけを追うものでもない。二国間関係は重要である。だが、それだけでは時代の重心を捉えにくい。ある局面では、複数の国が同時に圧力をかけ、あるいは互いに牽制し合い、その中で日本の選択肢が形づくられる。別の局面では、特定の一国との関係が、日本外交全体の背骨になる。二国間関係を必要に応じて重視しつつも、それをつねに時代全体の構造の中に置いて考える。

    こうした視点を取る理由は、過去をより正確に理解するためだけではない。よく、歴史を知れば現代ニュースが理解しやすくなると言われる。それはその通りである。だが、それで終わっては足りない。現代の外交や国際関係をある程度理解したあとで、もう一度歴史に戻ると、以前とは違うものが見えてくる。どの国との関係が軸だったのか。正面の相手以外に、どの第三国が制約になっていたのか。国内政治と対外関係はどこで結びついていたのか。誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であったのか。現代を一度通った目で歴史を見直すと、後から付与された物語の陰に隠れていた条件の重みが、別の形で立ち上がってくる。

    本稿が試みるのは、その再読である。幕末から戦前までの歴史を、単なる近代化の成功物語としても、破局へ向かう失敗物語としても捉えない。外から押し込まれ、内側で作り替え、外へ広がり、秩序に参加し、やがてその秩序との両立を失っていく。その一連の過程の中で、日本という国家が何を選び、何を失い、どこで判断を誤り、どこで構造に押し戻されたのかを問う。

    言い換えれば、たどろうとするのは、出来事の歴史ではなく、条件と選択の歴史である。そしてその視角は、過去の理解にとどまらない。国家はつねに、対外秩序の変化の中で、自らの位置と選択肢を測り続けなければならないからである。その意味では、過去の説明であると同時に、現代の日本外交を見るための視角を整える作業でもある。

    その作業は、幕末においてとりわけ鮮明に表れる。開国によって日本が直面したのは、外国との接触そのものではなく、対外秩序への編入が、誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であるのかという問題を前面に押し出す過程だったからである。外交の窓口と統治の実体とがずれ始めるとき、外交問題はそのまま政体問題へ変わっていく。第1章で見るのは、まさにその始まりである。