ー行動の分散と責任主体としての幕府ー
4.攘夷の実行が有力藩を外交化させる
攘夷の実行は、有力藩が対外行動の現場で独自に動くことを現実に可能にした。ここで重要なのは、外国との衝突や交渉の現場で、有力藩が独自に意思決定し、行動することが現実に可能になっていったことである。その背景には幕府の統率力の低下があり、同時に外国側もまた、日本の政治的実情と自らの思惑の中で、幕府だけを唯一の窓口としては扱わなくなっていった。
薩英戦争と下関戦争は、まさにその変化が表面化した局面であった。この二つの衝突は、単なる軍事事件として切り分けて見るより、攘夷の実行が日本と欧米諸国との関係をどう組み替えたか、という一つの流れの中で捉える方が収まりがよい。共通しているのは、攘夷が思想や檄文の水準にとどまらず、実際の武力行使として現れたことである。その結果、外国との関係は、幕府が中央で一元的に処理するだけの問題ではなくなった。現地の判断、現地の実行、そして衝突後の現実対応というかたちで、有力藩が対外関係の前面に立つことが現実になっていったのである。
薩英戦争では、その変化は比較的見えやすい形で表れた。生麦事件をきっかけに薩摩とイギリスは武力衝突に至るが、薩摩は最初から全面衝突を望んでいたわけではない。他方で、一戦も交えずに要求を受け入れることも、藩の威信と政治的立場から見て取りにくかった。つまりここでは、現地での政治判断と軍事的対応が藩の側で組み立てられている。
重要なのは、その後である。薩英戦争は単純な敵対固定で終わらず、むしろ薩摩とイギリスの関係を組み替える契機になった。講和交渉の中で薩摩藩が英国に軍艦購入の周旋を依頼し、英国側も薩摩の善戦を評価して、以後両者の間に親密な関係が築かれていったとされる。ここで見えるのは、衝突の当事者であった藩が、その後の実務関係の再編まで担っているという事実である。
もっとも、この英薩関係は、幕府とイギリスの条約外交と同じ性格のものではない。幕府との関係が、条約と国際的責任を伴う正式な外交であったのに対し、薩摩との関係は、通商、武器調達、情報交換、実務的折衝を中心とした藩レベルの対外関係として進んだ。つまりイギリスは薩摩を日本の正式な外交主体として承認したわけではない。しかし同時に、幕末日本の現実を処理するうえで、幕府だけを見ていては足りないとも判断していた。ここには、形式上の外交窓口としての幕府と、現実に動かしうる主体としての有力藩とが、すでにずれ始めている状況が表れている。
下関戦争もまた、同じ変化を別の形で示している。長州による外国船砲撃は、たしかに攘夷を実行に移した行動である。だが、それだけで見ると足りない。下関で問題が起きれば、最終的な外交処理は結局幕府に返ってくる。そうした構造の中で見ると、長州の行動は対外強硬策であると同時に、幕府の対外統治能力と責任を露出させる国内政治的な意味を強く帯びていたように見える。
しかも長州は、衝突ののちに攘夷の無謀を認識し、欧米との関係改善に努め、下関を実質的に開港して欧米との貿易を開始していく。ここでもやはり、藩は単に外国と衝突しただけではない。その後の現実対応と関係の組み替えまで担っている。
こうして見ると、薩英戦争と下関戦争が示したのは、攘夷の失敗というだけではない。より重要なのは、外国との衝突とその後の処理の現場で、有力藩が対外行動の実行主体として前面に出ることが可能になっていたという事実である。その背景には、幕府の統率力の低下があり、外国側もまた、自国の利害に沿って幕府を迂回し、有力藩と直接に関係を結ぶことを現実的な選択肢としていた。対外関係が幕府の独占領域でなくなったというより、対外行動の現場がすでに分散し始めていたのである。
ただし、このことは直ちに、国家としての対外責任まで有力藩へ移ったことを意味しない。むしろ問題は、その逆にあった。行動の現場が分散するほど、誰が国家として外国に向き合うのかという問いは、いっそう鋭くなる。そして幕府は、その問いに対して、自らがなおその主体であると示し続けなければならなかった。
5.行動は分散したが、幕府は責任主体であり続けた
行動の現場が分散しても、幕府はなお自らを対外責任の主体として保持しようとした。対外行動の現場が有力藩の側へ広がったからといって、幕府は対外責任の主体である地位を手放さなかった。幕府の統率力はすでに揺らぎ、外国側もまた日本の政治的実情と自らの利害を踏まえて、幕府を迂回し、有力藩と直接に関係を結ぶことを現実的な選択肢とし始めていた。それにもかかわらず、条約の履行、賠償、交渉、秩序維持については、なお幕府が日本の正式な窓口であることを、幕府自身が対外的に示し続けたのである。
これは単に、外国側から幕府が責任を問われたというだけの話ではない。より重要なのは、幕府自身もまた、日本の統治者としてその位置を保持しようとしたことである。対外責任の主体であることは、単なる実務上の負担ではなかった。それは、誰が日本を代表し、誰が国家として外国に向き合うのかという問いに対する、幕府なりの明確な答えであった。幕府にとって、対外責任の窓口であることを手放すのは、統治者としての地位の中核を手放すことに近かったのである。
この点で、幕末のねじれを、ただ「責任だけが幕府に押しつけられた」と理解するのは適切ではない。もちろん、諸藩が独自に行動し、しかもその結果の処理を幕府が引き受けざるを得ない場面が増えたことは事実である。だが幕府は、その構造を不本意に甘受していただけではない。むしろ自らを日本の正式な外交主体として立て続けることによって、なお統治の正統性を保とうとした。幕末の対外責任は、外から一方的に集中させられたものというより、幕府が自ら保持しようとした地位でもあったのである。
もっとも、その地位の保持は、幕府にとってきわめて重い負担を伴った。諸藩の行動を完全には統制できない。朝廷の権威は増している。外国側もまた、必要とあれば幕府以外の主体と関係を結ぶ。それでも幕府は、条約相手としての責任、賠償の履行、秩序維持の義務を背負い続けなければならない。つまり幕府は、現実の統制力が弱まる中で、なお責任主体として振る舞い続けることを選んだのである。ここに幕末政治の深い緊張がある。
この構図の中で、幕府の対仏接近は切実な意味を持っていた。幕府はすでに欧米秩序への編入を避けられず、その中で対外責任の主体であり続けようとしていた。であれば必要なのは、外圧を拒み切ることではなく、外圧の中でなお持ちこたえるための資源をどう確保するかである。軍制、技術、海防、造船、兵器、財政。こうした分野を含めて、幕府は対外関係を単なる防御ではなく、統治主体として生き残るための実務へ変えていかざるを得なかった。
フランスとの接近は、その文脈の中で理解する方が自然である。対仏接近は、体制延命策というだけでは足りない。幕府にとってそれは、日本の正式な責任主体であり続ける以上、軍事・技術・制度の支えを外部に求めざるをえないという現実対応であった。つまり対仏接近は、幕府がなお統治者としての形式を保とうとしたからこそ必要になった選択だったのである。
しかし、その選択は幕府の強さだけを示したわけではない。むしろ逆に、幕府が自らを責任主体として保持しようとすればするほど、その責任を支える実体の弱さも露わになっていった。諸藩は現場で動き、外国側もそれを利用する。朝廷の権威は高まり、幕府の統制力は揺らぐ。その中で幕府だけが、なお国家としての責任主体であり続けようとする。
ここで、行動の現場と責任の所在とのずれは、単なる外交上の不都合ではなくなる。それは、誰が日本を代表し、誰が統治主体であるのかという問いを避けられないものにしていく。幕府は責任を押しつけられただけではない。統治者であり続けるために、対外責任の主体であることを自ら保持しようとしたのである。
だが、行動の現場と責任の所在とがずれていく中で、その地位はしだいに耐えがたい緊張を抱えるようになった。この緊張こそが、幕末の対外関係を単なる外交問題にとどめず、統治の正統性そのものを揺さぶる問題へ変えていく。ここから、外交問題は政体問題へと変わっていくのである。
6.外交問題が政体問題へ変わる
アメリカを入口として始まった開国は、すぐに複数の欧米諸国を相手にする問題へ広がっていった。交渉は武力を背景にした不均衡な条件の下で進められ、日本が向き合ったのは、個別の外国だけではなく、列強どうしの牽制を含んだ欧米秩序そのものだった。
その中で、有力藩は外国との衝突や交渉の現場で独自に動くことが可能になっていく。だがそれにもかかわらず、条約の履行、賠償、交渉、秩序維持を最終的に引き受ける窓口として、幕府はなお自らを責任主体として保持しようとした。ここで露わになったのは、単なる統治の混乱ではない。外交主体と統治主体とが、もはや無理なく重なっていなかったのである。
外国側は、条約を結び、交渉し、責任を負う相手として幕府を扱う。だが日本国内では、朝廷の権威が前面に出、有力藩は独自に行動し、幕府はその全体を十分に統制できなくなっていた。つまり対外的には幕府が日本を代表することになっていながら、国内的にはその代表性と統治能力が揺らいでいたのである。
外交問題が政体問題へ変わるとは、このずれが前面化することを意味していた。そのため、幕末の争点を「開国か攘夷か」という理念対立だけで捉えると、本質を落としてしまう。もちろん、開国と攘夷は当時の政治を動かした大きな言葉であり、現実の行動にも深く関わった。だが、問題は単にどちらの理念が優位に立つかではなかった。
実際に問われていたのは、どの条約を誰が結ぶのか、外国との衝突の責任を誰が負うのか、どの国とどの距離を取るのか、そして何より、誰が日本という国家を代表して外部世界と向き合うのか、ということであった。幕末の対外関係は、理念の衝突であると同時に、国家の代表権と責任主体をめぐる争いでもあった。
この問題は、抽象的な制度論にとどまらない。幕府が外交を処理しようとすればするほど、なぜ幕府が日本を代表するのかが問われる。有力藩が外国と衝突し、あるいは実務関係を深めれば深めるほど、幕府の統治能力の限界が露出する。朝廷の権威が高まれば、外交の正統性の所在も揺らぐ。外国対応を進めること自体が、そのまま国内の権力構造を揺さぶる回路になっていたのである。
外交はもはや国内政治の外側にある問題ではない。誰が決め、誰が動かし、誰が責任を負うのかという点で、政体そのものを問い直す問題へ変わっていった。
幕末から明治への転換は、旧体制が倒れ、新政権が生まれたというだけの出来事ではない。それは、対外秩序への編入によって露わになったこのずれに、一つの決着がついたことを意味している。もちろん、その決着は直ちに安定をもたらしたわけではない。新政府もまた、列強との関係の中で多くの制約を受け、国内統治を再編しながら、対外窓口の一元化を進めていかなければならなかった。
だが少なくとも、幕末に露わになったねじれを処理しないかぎり、近代国家としての日本は立ち上がりえなかった。明治国家の出発点は、まさにそこにあったのである。
この決着へ向かう過程で、幕府も雄藩もまた、外国と交渉し、自らの立場を正当化するために、「万国公法」という共通の語彙を学び始める。これは、誰が国家を代表し、誰が責任を負うのかという問題を、近代国家の言葉で定式化し、処理可能なものとして捉えるための足場であった。
だが同時に、その語彙を受け入れることは、日本が自らを欧米秩序の基準の中で位置づけることでもあった。万国公法は、日本が主権国家として外と向き合うための武器であると同時に、その主権の形を欧米秩序の中で測られるという拘束でもあったのである。
だからこそ開国は、外交問題であると同時に、国家再編の問題でもあった。次章で問うのは、このずれを新たな国家がいかに処理し、一元的な代表と責任の構造を作り直していったのか、という問題である。そしてその作業は、単に国内の統治を立て直すだけでは済まない。欧米秩序の中で、自らを正当な国家として位置づけ、不平等な条約関係をいかに改めていくかという課題と、最初から結びついていたのである。

公的資料・公的解説
- 外務省外交史料館特別展示解説『黒船・開国・激動の幕末』
- 国立国会図書館「日本の開国と日蘭関係」
- Office of the Historian, U.S. Department of State, “The United States and the Opening to Japan, 1853”
- 外務省外交史料館関係資料「明治維新期の日英交流」
研究論文・研究資料
- 「日本の主権者は誰なのか」『年報政治学』
- 「幕末開国と長崎通詞制」
- 「ペリーとホーソーンと日本開国」
- 幕末条約交渉における日仏条約関連研究
- 「文久遣欧使節団のオランダ『探索』」