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  • 第2章 低成長への適応(1973-1985)①

    一九七三年から一九八五年、衝撃分散と質的再編ー

    1.前提の崩壊

    ー固定相場制と石油危機ー

    高度成長期の日本には、復興需要があり、戦前から残された産業の土台があり、企業は設備投資を進め、金融機関は資金を供給した。政府もまた、成長の回路を整えていった。

    しかし、それだけではなかった。日本の外部には、アメリカを中心とする国際秩序があり、固定相場制による為替の安定があり、広がり続ける海外市場があり、比較的安いエネルギーがあった。高度成長とは、国内の努力と外部条件がかみ合った時代でもあった。

    一九七〇年代に入ると、その外部条件が大きく揺らぎ始める。大きなきっかけが、いわゆるニクソン・ショック、すなわち戦後の国際経済を支えてきたブレトンウッズ体制の終焉だった。

    アメリカのドルを軸にし、金との交換可能性によって支えられていた通貨秩序は、世界経済の拡大とドルへの信認低下の中で限界を迎えた。ドルと金の交換停止によって、その通貨秩序は大きく変わった。日本もまた、一ドル三六〇円という固定された為替相場のもとで、輸出を伸ばしてきた。しかし、その前提は崩れた。為替は固定された土台ではなく、変動すること自体が前提条件になった。

    もう一つの大きな衝撃が、石油危機だった。高度成長期の日本は、安い輸入エネルギー、とりわけ石油に大きく依存していた。生産、物流、生活のいずれにおいても、石油は成長の土台に組み込まれていた。

    そこに、第四次中東戦争を背景とした産油国の供給制限と価格引き上げが重なり、石油価格は急騰した。しかもそれは、一時的な混乱にとどまらず、安い石油を前提にした時代の終わりを意味していた。企業の生産コストは上がり、生活に必要な費用も上がった。固定相場制の終焉が外との交換条件を変えたのだとすれば、石油危機は、国内で生産し、生活するための費用を変えたのである。

    石油価格の上昇は、国民生活にも波及した。エネルギーや原材料の価格が上がれば、製品や生活必需品の価格にも影響が及ぶ。実際、一九七〇年代前半の日本では、物価が急激に上昇し、いわゆる狂乱物価と呼ばれる状況が生まれた。

    高度成長期にも物価上昇はあったが、その多くは所得の伸びによって吸収されていた。この時期には、物価上昇そのものが生活の不安として意識されるようになった。成長の中に埋もれていた負担が、生活費の上昇として表に現れたのである。

    一九七〇年代前半には、為替の安定が失われ、安いエネルギーの前提が崩れ、物価上昇が生活の表面に現れた。日本経済は、拡大を前提にして走る時代から、制約の中で調整しながら進む時代へ入っていった。

    ここで問われたのは、誰か一つの主体が危機を解決することではなかった。企業は生産の仕組みを変え、政府と日銀は景気と物価の急変を抑え、金融機関は資金の回路を保ち、国民は生活の中で負担を受け止める必要があった。高成長の前提が崩れたあと、日本経済は、その衝撃を一か所に集中させず、どう分散して受け止めるかを問われる時代へ入っていった。


    2.量を支える質

    ー省エネルギー化と合理化ー

    為替は固定された土台ではなくなり、エネルギーは安く使える前提ではなくなった。企業に求められたのは、高いエネルギー価格と為替変動の中でも生産を続け、国内外の市場で売り続けるために、量を支える質を高めることだった。

    石油価格の高止まりは、企業にとって大きなコスト圧力になった。企業は、省エネルギー化や合理化を進め、生産工程や設備のあり方を見直していく。エネルギーの使用量を抑え、無駄を減らし、品質や効率を高めることで、コスト上昇を吸収しようとしたのである。

    省エネルギー化と合理化は、単なる節約ではなかった。高いエネルギー価格と為替変動を前提に、競争力を維持するための生産の組み替えだった。

    その変化は、エネルギーの使い方にも表れた。第一次石油危機後、日本では実質GDPが伸びる一方で、エネルギー消費の伸びは強く抑えられていく。経済を動かす量を保ちながら、そこに必要なエネルギーを絞っていく。この切り離しは、単なる節電ではなく、生産の仕組みそのものの作り替えだった。

    高成長期に大きくなった経済の身体を、低成長の条件の中で動ける身体へ作り替える。これが、この時期の企業適応の核心だった。

    その変化は、産業の重心にも表れていく。エネルギーを大量に使う産業は、石油価格の上昇によって強い圧力を受けた。一方で、自動車、電機、精密機械のように、効率や品質、技術によって競争力を高める産業の存在感は増していった。

    産業構造が一気に入れ替わったわけではない。それでも、成長を支える中心は、量とエネルギーに大きく依存する分野から、効率と品質によって付加価値を生む分野へ、少しずつ移っていった。

    生産現場でも、無駄を削り、在庫を減らし、工程を詰める発想が強まっていく。ジャスト・イン・タイムのような考え方は、単なる工場管理の技術にとどまらない。限られた資源を、できるだけ無駄なく生産と利益へつなげるための感覚でもあった。高成長期のように、量の拡大が多くの粗さを覆ってくれる時代ではなくなる中で、企業は量を支える質を内部から鍛え直していった。

    省エネルギー化や合理化は、企業ごとの努力によって進められていった。労働現場では、生産工程を見直し、無駄を減らし、限られた人員や設備でより高い効率を求める動きが強まった。中小企業や下請け企業も、厳しい条件の中で技術を磨き、納期や品質への対応力を高めながら適応していった。

    一方で、取引関係の中では、コスト削減の一部が下請けや中小企業に転嫁される場面もあった。企業の適応は、現場ごとの工夫と努力によって支えられながら、同時に負担の置き場所を変えていく過程でもあった。

    企業は、外部条件の変化を、生産の仕組みの中で受け止めていった。省エネルギー化、合理化、品質や効率の改善は、企業の利益を守るだけのものではない。コスト上昇を吸収し、雇用を維持し、取引を続け、国内外の市場で売り続けるための仕組みだった。企業は、石油危機と為替変動の衝撃を、生産構造の中へ分散して吸収したのである。

    ただし、企業だけでこの調整が成り立ったわけではない。設備を更新し、生産を続け、取引を維持していくには、資金の流れや景気の下支え、物価への対応が必要だった。企業が生産の仕組みを鍛え直すためには、その時間と資金を支える回路が必要になる。そこで前に出てくるのが、政府、日銀、金融機関だった。


    3.時間と資金の回路

    ー財政・日銀・金融機関ー

    政府、日銀、金融機関が支えたのは、企業の代わりに成長を作ることではなかった。企業が生産の仕組みを組み替えるための時間と資金、そして物価の見通しだった。

    政府は、財政支出によって景気を下支えした。公共投資や各種支出を通じて需要を保ち、一九七五年には赤字国債の発行に踏み切る。高度成長期のような自然な税収増を前提にできなくなる中で、政府は借金を通じて景気を支える局面に入った。

    この財政支出は、単に景気を押し上げるためのものではなかった。需要が急落すれば、企業の取引は細り、雇用も揺らぎ、地域経済にも波及する。政府は財政によって、その連鎖が一気に切れることを防ごうとした。赤字国債は将来の負担の芽でもあったが、この局面では、需要の穴を埋め、企業が生産の仕組みを組み替えるための時間を稼ぐ手段でもあった。

    八〇年代に入ると、赤字国債の発行は財政運営への負担も意識させるようになり、行政改革や民営化を通じて政府部門を引き締めようとする動きも強まっていく。ただし、この点を厚く扱うのは次の局面でよい。ここで重要なのは、財政が低成長への移行を支える緩衝材として前面に出てきたことである。

    日銀は、石油危機後のインフレに対して金融引き締めで対応した。公定歩合を引き上げ、過熱した物価を抑え込もうとしたのである。狂乱物価のあと、物価安定は経済運営の大きな課題になった。

    金融引き締めは、景気や企業活動に痛みを与える対応でもあった。しかし、物価上昇が続けば、企業は将来のコストを読みにくくなり、家計は生活費への不安を強める。日銀は、通貨と物価への信任を取り戻すために、経済全体の熱を冷ましていった。物価の安定は、企業が長い目で省エネルギー投資や設備更新を進めるための予測可能性にもなった。

    金融機関は、企業の調整を資金面から支えた。銀行は、企業との継続的な取引関係をより深め、省エネルギー投資、設備更新、運転資金を支えていく。企業が生産の仕組みを変えるには、資金が必要だった。銀行を中心とする金融機関は、融資を通じて、企業が新しい条件に適応するための回路を保った。

    重要なのは、資金の流れがそこで閉じなかったことである。企業が今日明日の資金繰りだけに追われれば、生産の仕組みを作り替える余裕は失われる。金融機関の融資は、企業が低成長の条件に合わせて身体を鍛え直すための回路になった。

    政府、日銀、金融機関の対応は、それぞれ別の方向から低成長への移行を支えていた。政府は需要の急落を和らげ、日銀は物価への信任を取り戻し、金融機関は企業への資金回路を保った。これらが噛み合ったことで、コスト上昇や不況の衝撃は一か所に集中しにくくなり、企業が鍛え直すための猶予が生まれた。

    この役割分担が機能したのは、高成長期に速度重視で拡大してきた経済の中に、まだ使える余白が残っていたからでもある。企業には、生産工程を詰め、エネルギーの使い方を見直し、品質と効率を高める余地があった。政府には、赤字国債という負担を伴いながらも、財政で需要の急落を和らげる余地があった。日銀には、公定歩合を通じてインフレを抑える手段があり、金融機関には、企業へ資金を流す継続的な関係があった。家計にも、雇用を土台に生活を守り、貯蓄を通じて金融の資金源となる余力があった。速度優先で広げられた経済の身体には、削れる場所、組み替えられる場所、支え直せる場所が、まだ残っていたのである。

    ただし、この安定は負担を消したものではなかった。財政による下支えは赤字という形で将来の財政運営に影を落とし、金融引き締めは物価を抑える一方で景気や企業活動に圧力をかけた。銀行と企業の関係は調整を支えたが、資金の流れを既存の関係の中に留めやすくもした。そして、それらの調整は制度や企業の内部だけで完結しない。雇用、所得、消費、生活費を通じて、国民生活の側にも現れていくことになる。

  • 第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)③

    6節.条約改正の前進と国家形式の整備

    1880年代に入ると、不平等条約改正は、明治政府にとって将来の課題ではなく、具体的な構想と交渉の場を伴う現実の政治課題として前景に出てきた。その中心に立ったのが井上馨であり、明治十九年には各国公使を集めた条約改正会議が開かれる。ここから条約改正は、本格的な外交交渉として動き始める。

    井上が進めようとしたのは、条約の文言を書き換える交渉だけではなかった。欧米側が日本を対等な交渉相手として扱えるように、その前提となる国家の見せ方まで整えようとしたのである。日本を欧米諸国に対して実際に対等な国家として扱わせるには、相手から見て、自国民を委ねられる国家であると認めさせなければならなかった。

    そのために、井上外交は法制、社交、交渉方式のそれぞれで前提を整えようとした。法制の面では、日本の裁判と統治が信頼に足ることを示すため、外国人判事任用案を含む構想が現れた。社交の面では、鹿鳴館外交に象徴されるように、日本が西洋の外交社会に参加しうることを印象づけようとした。交渉の面では、岩倉使節団以後の個別折衝から一歩進み、東京に各国公使を集めた条約改正会議によって、多国間で前進を図ろうとした。

    外国人判事任用案や鹿鳴館外交は、後に強い反発を招くことになる。だが政府にとって、それらは条約改正を早く前へ進めるための手段だった。外国人判事任用案は、日本の裁判制度がなお欧米諸国から十分な信頼を得ていないという現実を前提に、その不足を補う仕組みを置くことで、領事裁判権撤廃への同意を引き出そうとするものだった。鹿鳴館外交も、単なる華美な社交ではなく、日本が西洋の外交社会に参加しうる国家であることを、儀礼と社交の水準を通じて示そうとする試みだった。政府にとって、それらは欧米側に日本を信用させるための工夫だったのである。

    しかし国内から見ると、同じものは別の姿に映った。外国人を司法の中枢に入れることは、領事裁判権撤廃のための過渡的な工夫というより、主権を内側から削るもののように見えた。鹿鳴館外交も、対外的には日本が西洋の外交社会に参加できることを示す場だったが、国内では、国家の実力よりも外見を取り繕う姿として受け取られやすかった。条約改正を前へ進めるための手段が、国内では、条約改正のために何を差し出すのかという問題へ変わっていった。そのため国内では、『猿真似外交』『国辱』といった言葉で激しく批判されることになる。

    井上外交の後も、条約改正そのものが後景へ退いたわけではない。大隈重信の時期には、井上案の進め方が修正された。井上が各国公使を東京に集めた合同会議方式によって一括して改正を進めようとし、外国人判事・検事の任用も各級裁判所に及ぶ構想を含んでいたのに対し、大隈は交渉を各国別の形へ移し、外国人裁判官の任用も大審院に限る方向で修正を加えた。

    大隈の修正は、井上外交の挫折を受けて、交渉の単位と譲歩の射程を絞り込むものだった。多国間で一括して動かすのではなく、各国別に交渉し、外国人裁判官任用も大審院に限る。井上期の構想をそのまま継ぐのではなく、国内の反発と対外交渉の困難を受けて、より狭い範囲で突破口を探ろうとしたのである。とはいえ、領事裁判権撤廃のために外国人裁判官任用を用いようとした点では、その発想の根幹は井上期の延長線上にあった。

    大隈の試みも、安定した突破には至らなかった。比較的交渉を進めやすいと考えられた相手との間で先に合意を探る方向が試みられたが、その過程で改正案はロンドン・タイムズに漏れ、世論の反発を招いた。漏洩の経緯や背景にはなお見方の幅があるとしても、この出来事によって交渉は頓挫する。ここで見えてきたのは、条約改正が案の中身だけで進む問題ではないということだった。どの国と、どの順序で、どの範囲まで合意するのか。交渉の組み方そのものが、改正の成否を左右する問題になっていった。

    交渉の場で日本を信用させようとする試みがつまずくほど、問題は国内の制度整備へ戻っていく。相手に信用してもらうための工夫だけでは足りない。実際にその信用を支える国家の形を、内側に備えなければならなかった。条約改正が外に向かって対等性を求める営みであったとすれば、憲法・議会・法制度の整備は、その前提となる国家の内側を整える営みだった。

    その中心にあったのが、議会・憲法・法制度である。大日本帝国憲法の制定と公布は、日本が統治の基本構造を明文化したことを意味し、帝国議会の開設は、その国家が政治的制度を備えたことを示した。法制度と司法制度の整備は、国家が法によって運営されるという形式を具体的なものにしていく作業だった。欧米に通用する国家形式を整えることと、国内統治の安定を保つことは、別々の課題ではなかった。外から信用される国家であるためには、内側にもまた、統治の仕組みと法の形式が必要だったのである。

    明治政府は、制度ごとに異なる参照先を選びながら、対外的な通用性と国内統治の安定を同時に確保しようとした。憲法では、議会が政府を強く左右するイギリス型よりも、君主権を強く残すドイツ系の立憲制度が重く見られた。法制度では、条約改正の前提として近代的な法典を急いで整える必要があり、フランス法が早くから参照された。議会も近代国家の条件として必要だったが、政府は急進的な議会制によって国家建設が不安定になることを警戒し、行政の主導権を残しながら段階的に政治参加を広げる道を取った。

    憲法・議会・法制度の整備は、もともと近代国家建設の一部として進められていた。ただ、井上・大隈期の挫折は、それらが段階的な国内整備にとどまらず、欧米に対して日本を対等な国家として承認させるための必要条件でもあったことを、よりはっきり浮かび上がらせた。交渉によって先に前進を得ようとする試みはありえたが、それを安定した形で支えるには、国家の内側にもまた、列強が欧米主導の国際秩序の中で通用すると認めうるだけの制度的形式が求められていたのである。

    こうした交渉と制度整備の積み重ねの上に、1894年、条約改正はようやく具体的な前進として現れる。ここで陸奥宗光が取ったのは、列国を同時に動かそうとするのでも、比較的組みやすい相手から順に合意を探るのでもなく、まず列強の中核との合意を成立させることで、全体の流れを動かそうとする方針だった。

    イギリスは、日本との通商関係でも、列強間の外交秩序でも大きな位置を占めていた。そこで合意が成立すれば、他国も日本だけに従来の条件を残し続ける理由を保ちにくくなる。陸奥が見たのは、列国を同時に説得することではなく、列強の中で最も重い相手を動かし、その合意を足場に全体を動かす道だった。

    もちろん、これは日本側の工夫だけで決まったわけではない。列強側にも、日本を従来のまま条約上の劣位に置き続けることが、必ずしも得策ではなくなっていく事情があった。日本の制度整備が進み、通商上の関係も深まる中で、少なくとも領事裁判権については、改正に応じる余地が生まれていた。

    1894年という時期もまた、無関係ではなかった。朝鮮をめぐる緊張が高まり、東アジアの秩序が動き始める中で、列強にとっても、日本を従来のような条約上の劣位に置いたまま扱い続けることは、必ずしも得策ではなくなっていた。日本は完全な対等者として迎え入れられたわけではない。だが、従来と同じ扱いのまま外側に置き続ける国でもなくなっていた。

    その結果、同年七月十六日、青木周蔵駐英公使と英国外相キンバリーによって日英通商航海条約が調印された。長く続いた模索はここで初めて、列強の中核との合意という形で具体的な成果に結びついた。この条約で日本が得た最大の成果は、領事裁判権の撤廃だった。条約発効後、外国人も日本の裁判権の下に置かれることになり、日本は司法権を実際の条約の中で回復し始めた。同時に関税についても一定の見直しは実現したが、関税自主権の全面回復はなお先へ残された。

    この順序には、欧米側が日本に何を認め、何をなお留保したのかが表れている。まず認められたのは、日本の司法制度や統治能力への不信が、少なくとも形式の上では克服されたということだった。これに対して関税は、各国の通商利益に直結するだけに、その決定権を全面的に日本へ戻すことには、なお慎重さが残された。日本は「法と制度を備えた国家」として扱われ始めたが、経済上の条件まで対等に決められる地位には、まだ達していなかった。長く続いた条約改正の模索は、ここでようやく、一つの扉を開けてもらうところまでたどり着いたのである。

    その先にあったのは、静かな対等化の道ではなかった。欧米秩序の中で国家として認められることは、同時に、その秩序が持つ帝国主義的な競争へ参加していくことでもあった。同じ1894年、日本は朝鮮をめぐる秩序の中で、自らの位置を押し広げようとしていた。欧米秩序に入る側でありながら、その論理を東アジアで使う側へ回り始める。その先に、日清戦争が現れる。

  • 第2章 近代国家建設と条約改正外交(1868-1894)②

    4節.台湾出兵

    1871年(明治4年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件が発生した。生存者の一部は現地住民や清の官吏の手を経て救助され、のちに福建へ送られる。一報を受け取った政府が最初に突き当たったのは、法的・外交的な問いだった。犠牲となった人々を誰の保護下にある者とみなすのか、そして台湾南部で起きた出来事に誰が責任を負うのか、という点である。

    被害者は琉球の人々だった。琉球は清の冊封体制に組み込まれる一方、薩摩藩の支配も受けてきた経緯があり、その位置づけは単純に決まるものではなかった。しかも事件の起きた台湾南部は、すでにローバー号事件をめぐってアメリカ領事ル・ジャンドルらが対応に乗り出したことのある地域であり、清朝の統治がどこまで及んでいるのかそれ自体が争点になりうる場所だった。こうした条件が重なっていたため、事件は単純な漂着民保護の問題には収まらなかった。

    政府内部では、この事件を対外問題として処理すべきだという議論が強まっていく。武力による責任追及を求める声が出る一方で、政府はル・ジャンドルを顧問として迎え、台湾南部の統治の空白をどのような論理で扱いうるかを検討した。ル・ジャンドルは、ローバー号事件で清朝が台湾南部の先住民地域への責任を曖昧にした経験から、そこを清の実効支配が及ばない地域として扱い、「無主地」に近い発想で外部からの介入を正当化しうると見ていた。日本政府はその論理を、台湾出兵を国際法的に説明するための材料として利用しようとした。さらに、別の日本船が台湾に漂着して被害を受ける事件も起き、台湾南部をめぐる危険は一度きりの出来事ではないという認識が強まっていった。

    日本政府は清に対して、事件について責任ある対応を求めた。しかし清側は、被害者の送還には応じながらも、事件を起こした台湾南部の住民については、自らの統治の外にある者たちだという立場を示した。清にとって台湾南部は、領土の外ではないが、行政が一様に及ぶ場所でもなかった。清朝はこうした地域を「化外」の民が住む場として捉えており、そのため日本の介入は認められないが、事件の責任を国家として全面的に引き受けることも避けようとした。日本側から見れば、それは領土を主張しながら、その内部で起きた殺害事件の責任は引き受けないというものに映った。

    もっとも、出兵論が政府内外でそのまま受け入れられたわけではない。木戸孝允らは、いま優先されるべきは国家の内側を固めることだとして台湾出兵に反対した。琉球の位置づけがなお揺れている以上、清との関係を不必要に悪化させるべきではないという判断もそこにはあった。出兵をめぐる政府内部の対立は深く、外征を急ぐことは、内治優先の方針とも衝突していた。それでも大久保利通らは、清が責任を曖昧にしたままでは琉球の保護主体としての日本の立場も曖昧になると見て、最終的に出兵を押し進める側へ傾いていく。

    国外でもイギリス公使パークスらが強い警戒を示した。パークスにとって問題だったのは、日本の大義そのものより、その結果として清国内の英国の権益が損なわれ、英国人に被害が及ぶおそれがあることだった。日本の出兵は、清との局地的な問題にとどまらず、列強の通商秩序にも波及しうるものとして見られていた。

    それでも出兵を現実の選択肢として押し進めようとする動きは止まらず、1874年、日本政府は台湾への出兵を実行に移した。日本にとって重要だったのは、琉球の人々を自らが保護し代表すべき存在として、清朝と国際社会に認めさせることだった。清が台湾南部の事件について責任を曖昧にしたことは、その主張を押し出す材料にもなっていた。

    出兵に対して列強への根回しは十分ではなく、パークスはその手続きの欠落を紛争拡大の危険として受け取った。ル・ジャンドルの知見は出兵論に材料を与えたが、それはアメリカ政府が日本の行動を確実に支えることを意味しなかった。和議の形成において大きな役割を果たしたのは、東アジアの通商秩序の維持を自国の利益とするイギリスだった。出兵前には日本の行動を警戒していたイギリスも、出兵後には紛争の拡大を防ぐため、清と日本のあいだを調整する側へ回った。和議の結果、清は日本に対して見舞金・償費の支払いに応じ、日本はそれを受けて撤兵する。清が日本の立場を全面的に認めたわけではなかった。だが、清が宮古島島民を含む「日本国属民」への加害に対する出兵という日本側の論理を受け入れ、賠償に応じたことは、日本にとって決定的に大きかった。日本はこれを、琉球住民を自らの保護対象として扱いうる根拠として用い、その後の琉球処分を進める外交的足場としていく。この決着は、琉球をめぐる日本の主張を対外的に一歩前へ進めるものだった。

    5節.朝鮮問題と対外認識の転換

    琉球をめぐって清との境界線を押し出していく一方で、日本は朝鮮との関係でも、旧来の交隣秩序をそのまま続けようとはしなかった。明治新政府は、欧米から受け入れた新しい外交の形式で朝鮮と向き合おうとした。日本側には、開国し、欧米の制度や技術を取り入れることが、自国の安全保障につながるという経験があった。そのため、朝鮮にも同じように開国と制度改革を促すことが、東アジア全体の危機に備える道だという発想が生まれていた。

    だが朝鮮側から見れば、日本の働きかけはそのまま受け入れられるものではなかった。対馬を通じて維持されてきた従来の交渉手順を外し、天皇を前面に出した国書で関係を結び直そうとすることは、朝鮮側の王朝間秩序の中では大きな意味を持った。朝鮮には宗主国である清との関係があり、日本の新しい形式を受け入れることは、単に日本との手続き変更にとどまらず、清を中心とする秩序の中での自らの位置を揺らすことにもなりえた。日本のように、旧来の対外関係を一気に切り替えて欧米型の外交形式へ進むことは難しかった。朝鮮にとって、清との関係を維持することにも安全保障上の意味があり、従来の秩序を捨てることは容易ではなかった。明治新政府の国書を朝鮮が受け取らなかった問題は、このずれの中で起きた。

    征韓論政変によって即時強硬策はいったん退けられたが、朝鮮問題そのものは残った。1875年の江華島事件で、日本は雲揚号を朝鮮沿岸に接近させ、表向きには測量や航行の名目を取りながら、朝鮮側の現地部隊から強硬な反応を引き出す行動に出た。ここで日本が用いたのは、かつてペリーが日本に対して用いたやり方に近かった。軍事的圧力を背景に、閉ざされた外交の入口を開かせる。国書では開かなかった入口を、軍艦で開けに行ったのである。

    その延長に、1876年の日朝修好条規があった。条約では、朝鮮は「自主の邦」と記された。日本は、朝鮮を清との旧来秩序から切り離し、新しい条約外交の形式へ引き出そうとしたのである。だが、この文言がただちに朝鮮と清との関係を消し去ったわけではない。朝鮮はその後も清への朝貢と典礼を続け、現実には従来の秩序をなお残していた。朝鮮は、条約上は新しい外交形式に応じながら、清との関係も維持するという両面の対応を取ることになる。この両面外交は、外から見ればダブルスタンダードにも映りうるものだったが、朝鮮にとっては安全保障と国内秩序の両方を崩さないための対応でもあった。ただ、その曖昧さは、朝鮮内部の国論をまとめにくくし、のちに二つの事変へとつながる不安定さを残していく。

    日朝修好条規によって新しい関係は開かれたが、それだけで日本の影響力が朝鮮に安定して定着したわけではなかった。修信使の来日、通商章程交渉、釜山港での実務などを通じて、日朝関係は継続的に運用される段階へ入っていく。だが、その運用は滑らかには進まなかった。朝鮮は清との関係を残し、国内でも新しい外交関係をどう受け止めるかをめぐって揺れていた。日本にとって、条約で入口を開いただけでは足りなかった。朝鮮内部で自らに近い勢力を支え、影響力を増していく必要があると見られるようになっていく。

    その動きは、朝鮮内部の摩擦と結びついた。朝鮮では、王宮、政府、軍をめぐる対立が続き、軍の近代化も新式軍と旧式軍の分裂を生んでいた。やがて旧軍兵士の不満が爆発し、反乱は王宮と政権中枢を揺さぶり、日本公使館襲撃にまで及ぶ。これが1882年の壬午事変である。さらに1884年には、日本と結ぶ開化派が、現地の日本公使館の後押しを受けながら王宮を押さえ、新政府を立てようとしたが、清軍の介入によって短期間で崩れる。これが甲申事変だった。ここで見えるのは、日朝修好条規で開かれた新しい関係が、そのまま定着したのではなく、朝鮮内部の権力争いと日本の関与を通じて、より直接的な政治的・軍事的競合へ変わっていったということである。

    そして朝鮮内部の摩擦は、容易に清の介入を可能にした。朝鮮は日本のように海で隔てられた位置にはなく、清と陸続きで、清の軍事介入を受けやすい地政学的条件に置かれていた。そのため、王宮や政府をめぐる事件は国内の政争にとどまらず、ただちに日清関係の問題へ変わってしまう。壬午事変では清が介入し、甲申事変でも日本と結ぶ開化派の試みは清軍の対応によって崩れた。二つの事変を経て、朝鮮問題は日朝二国間だけでは処理できない問題だと突き付けられ、日本と清が正面から向き合う舞台へ押し上げられていった。

    この時点で、朝鮮をめぐる力関係では清が日本より優位に立っていた。清は朝鮮に対して宗主国としての立場を持ち、朝鮮と陸続きで、必要とあれば迅速に軍を送り込める条件を備えていた。これに対して日本は、海を越えて関与するほかなく、現地での影響力を維持するにも限界があった。日本は朝鮮を新しい条約外交の形式へ押し出そうとしていたが、現場ではむしろ清の力を避けて通れないことを思い知らされた。少なくとも朝鮮の現場では、日本は外交的に押し返された側だった。

    ここで表面に現れる理屈は、防衛線、朝鮮の不安定、清の介入、さらには幕末以来続いていたロシアへの警戒といったものだった。これらは単なる飾りではなく、実際に政策を動かす現実の材料でもあった。日本にとって、朝鮮を清との旧来秩序の中に置いたままにすることは、安全保障上の不安を残すことでもあった。だから日本は、朝鮮を清との関係から引き離し、新しい条約外交の形式へ置き直そうとした。

    しかし、その政策上の危機感と、国内で広がった対清感情とは、そのまま同じものではなかった。甲申事変ののち、国内では清に対する憤激が急速に高まった。政府は、現地の日本公使館と日本側の関与を前面には出さず、あくまで国王救援と公使館防衛の延長として事態を示しながら、日本人被害と清兵の行動を強く印象づける形で世論と向き合った。外交的に押し返された現実や、自らの関与の全体像は見えにくくなり、安全保障上の問題と、国内で受け取られる物語とのあいだにはずれが生まれていく。

    このずれを抱えたまま、伊藤博文は天津で李鴻章との交渉に臨んだ。日本政府は清との全面衝突を避ける必要があったが、国内世論の前で譲歩だけの結果を持ち帰ることもできなかった。他方の清も、朝鮮では優位に立っていたとはいえ、フランスとの戦争を抱えており、日本との対立をさらに広げる余裕は限られていた。天津条約が、日清両国の撤兵と、今後朝鮮へ出兵する場合の相互通知という形を取ったのは、このためである。

    条文だけを見れば、天津条約は比較的相互的な形を取っていた。だがその相互性は、純粋な対等の反映というより、それぞれ異なる制約と優先順位の中で作られた均衡の形式だった。天津条約は、朝鮮をめぐる日清の競合について、一旦時計の針を止めた。だが、それは解決ではなかった。止まった針は、条件が変わればまた動き出すことになる。

    朝鮮問題はこうして、日朝関係の枠を超えた。日本が朝鮮を新しい外交形式へ押し出そうとするほど、朝鮮内部の不安定さと清の存在が前に出てくる。さらに国内では、外交現場の現実とは別に、新聞や世論を通じて対清感情が強まっていった。天津条約はその衝突をいったん止めたが、問題を解いたわけではない。朝鮮問題は、日本が何を目指し、現場で何に直面し、国内でどう語られたのかというずれを抱えたまま残った。