カテゴリー: 歴史

  • 第1章:開国と欧米秩序への編入② 

    ー行動の分散と責任主体としての幕府ー

    4.攘夷の実行が有力藩を外交化させる

    攘夷の実行は、有力藩が対外行動の現場で独自に動くことを現実に可能にした。ここで重要なのは、外国との衝突や交渉の現場で、有力藩が独自に意思決定し、行動することが現実に可能になっていったことである。その背景には幕府の統率力の低下があり、同時に外国側もまた、日本の政治的実情と自らの思惑の中で、幕府だけを唯一の窓口としては扱わなくなっていった。

    薩英戦争と下関戦争は、まさにその変化が表面化した局面であった。この二つの衝突は、単なる軍事事件として切り分けて見るより、攘夷の実行が日本と欧米諸国との関係をどう組み替えたか、という一つの流れの中で捉える方が収まりがよい。共通しているのは、攘夷が思想や檄文の水準にとどまらず、実際の武力行使として現れたことである。その結果、外国との関係は、幕府が中央で一元的に処理するだけの問題ではなくなった。現地の判断、現地の実行、そして衝突後の現実対応というかたちで、有力藩が対外関係の前面に立つことが現実になっていったのである。

    薩英戦争では、その変化は比較的見えやすい形で表れた。生麦事件をきっかけに薩摩とイギリスは武力衝突に至るが、薩摩は最初から全面衝突を望んでいたわけではない。他方で、一戦も交えずに要求を受け入れることも、藩の威信と政治的立場から見て取りにくかった。つまりここでは、現地での政治判断と軍事的対応が藩の側で組み立てられている。

    重要なのは、その後である。薩英戦争は単純な敵対固定で終わらず、むしろ薩摩とイギリスの関係を組み替える契機になった。講和交渉の中で薩摩藩が英国に軍艦購入の周旋を依頼し、英国側も薩摩の善戦を評価して、以後両者の間に親密な関係が築かれていったとされる。ここで見えるのは、衝突の当事者であった藩が、その後の実務関係の再編まで担っているという事実である。

    もっとも、この英薩関係は、幕府とイギリスの条約外交と同じ性格のものではない。幕府との関係が、条約と国際的責任を伴う正式な外交であったのに対し、薩摩との関係は、通商、武器調達、情報交換、実務的折衝を中心とした藩レベルの対外関係として進んだ。つまりイギリスは薩摩を日本の正式な外交主体として承認したわけではない。しかし同時に、幕末日本の現実を処理するうえで、幕府だけを見ていては足りないとも判断していた。ここには、形式上の外交窓口としての幕府と、現実に動かしうる主体としての有力藩とが、すでにずれ始めている状況が表れている。

    下関戦争もまた、同じ変化を別の形で示している。長州による外国船砲撃は、たしかに攘夷を実行に移した行動である。だが、それだけで見ると足りない。下関で問題が起きれば、最終的な外交処理は結局幕府に返ってくる。そうした構造の中で見ると、長州の行動は対外強硬策であると同時に、幕府の対外統治能力と責任を露出させる国内政治的な意味を強く帯びていたように見える。

    しかも長州は、衝突ののちに攘夷の無謀を認識し、欧米との関係改善に努め、下関を実質的に開港して欧米との貿易を開始していく。ここでもやはり、藩は単に外国と衝突しただけではない。その後の現実対応と関係の組み替えまで担っている。

    こうして見ると、薩英戦争と下関戦争が示したのは、攘夷の失敗というだけではない。より重要なのは、外国との衝突とその後の処理の現場で、有力藩が対外行動の実行主体として前面に出ることが可能になっていたという事実である。その背景には、幕府の統率力の低下があり、外国側もまた、自国の利害に沿って幕府を迂回し、有力藩と直接に関係を結ぶことを現実的な選択肢としていた。対外関係が幕府の独占領域でなくなったというより、対外行動の現場がすでに分散し始めていたのである。

    ただし、このことは直ちに、国家としての対外責任まで有力藩へ移ったことを意味しない。むしろ問題は、その逆にあった。行動の現場が分散するほど、誰が国家として外国に向き合うのかという問いは、いっそう鋭くなる。そして幕府は、その問いに対して、自らがなおその主体であると示し続けなければならなかった。


    5.行動は分散したが、幕府は責任主体であり続けた

    行動の現場が分散しても、幕府はなお自らを対外責任の主体として保持しようとした。対外行動の現場が有力藩の側へ広がったからといって、幕府は対外責任の主体である地位を手放さなかった。幕府の統率力はすでに揺らぎ、外国側もまた日本の政治的実情と自らの利害を踏まえて、幕府を迂回し、有力藩と直接に関係を結ぶことを現実的な選択肢とし始めていた。それにもかかわらず、条約の履行、賠償、交渉、秩序維持については、なお幕府が日本の正式な窓口であることを、幕府自身が対外的に示し続けたのである。

    これは単に、外国側から幕府が責任を問われたというだけの話ではない。より重要なのは、幕府自身もまた、日本の統治者としてその位置を保持しようとしたことである。対外責任の主体であることは、単なる実務上の負担ではなかった。それは、誰が日本を代表し、誰が国家として外国に向き合うのかという問いに対する、幕府なりの明確な答えであった。幕府にとって、対外責任の窓口であることを手放すのは、統治者としての地位の中核を手放すことに近かったのである。

    この点で、幕末のねじれを、ただ「責任だけが幕府に押しつけられた」と理解するのは適切ではない。もちろん、諸藩が独自に行動し、しかもその結果の処理を幕府が引き受けざるを得ない場面が増えたことは事実である。だが幕府は、その構造を不本意に甘受していただけではない。むしろ自らを日本の正式な外交主体として立て続けることによって、なお統治の正統性を保とうとした。幕末の対外責任は、外から一方的に集中させられたものというより、幕府が自ら保持しようとした地位でもあったのである。

    もっとも、その地位の保持は、幕府にとってきわめて重い負担を伴った。諸藩の行動を完全には統制できない。朝廷の権威は増している。外国側もまた、必要とあれば幕府以外の主体と関係を結ぶ。それでも幕府は、条約相手としての責任、賠償の履行、秩序維持の義務を背負い続けなければならない。つまり幕府は、現実の統制力が弱まる中で、なお責任主体として振る舞い続けることを選んだのである。ここに幕末政治の深い緊張がある。

    この構図の中で、幕府の対仏接近は切実な意味を持っていた。幕府はすでに欧米秩序への編入を避けられず、その中で対外責任の主体であり続けようとしていた。であれば必要なのは、外圧を拒み切ることではなく、外圧の中でなお持ちこたえるための資源をどう確保するかである。軍制、技術、海防、造船、兵器、財政。こうした分野を含めて、幕府は対外関係を単なる防御ではなく、統治主体として生き残るための実務へ変えていかざるを得なかった。

    フランスとの接近は、その文脈の中で理解する方が自然である。対仏接近は、体制延命策というだけでは足りない。幕府にとってそれは、日本の正式な責任主体であり続ける以上、軍事・技術・制度の支えを外部に求めざるをえないという現実対応であった。つまり対仏接近は、幕府がなお統治者としての形式を保とうとしたからこそ必要になった選択だったのである。

    しかし、その選択は幕府の強さだけを示したわけではない。むしろ逆に、幕府が自らを責任主体として保持しようとすればするほど、その責任を支える実体の弱さも露わになっていった。諸藩は現場で動き、外国側もそれを利用する。朝廷の権威は高まり、幕府の統制力は揺らぐ。その中で幕府だけが、なお国家としての責任主体であり続けようとする。

    ここで、行動の現場と責任の所在とのずれは、単なる外交上の不都合ではなくなる。それは、誰が日本を代表し、誰が統治主体であるのかという問いを避けられないものにしていく。幕府は責任を押しつけられただけではない。統治者であり続けるために、対外責任の主体であることを自ら保持しようとしたのである。

    だが、行動の現場と責任の所在とがずれていく中で、その地位はしだいに耐えがたい緊張を抱えるようになった。この緊張こそが、幕末の対外関係を単なる外交問題にとどめず、統治の正統性そのものを揺さぶる問題へ変えていく。ここから、外交問題は政体問題へと変わっていくのである。


    6.外交問題が政体問題へ変わる

    アメリカを入口として始まった開国は、すぐに複数の欧米諸国を相手にする問題へ広がっていった。交渉は武力を背景にした不均衡な条件の下で進められ、日本が向き合ったのは、個別の外国だけではなく、列強どうしの牽制を含んだ欧米秩序そのものだった。

    その中で、有力藩は外国との衝突や交渉の現場で独自に動くことが可能になっていく。だがそれにもかかわらず、条約の履行、賠償、交渉、秩序維持を最終的に引き受ける窓口として、幕府はなお自らを責任主体として保持しようとした。ここで露わになったのは、単なる統治の混乱ではない。外交主体と統治主体とが、もはや無理なく重なっていなかったのである。

    外国側は、条約を結び、交渉し、責任を負う相手として幕府を扱う。だが日本国内では、朝廷の権威が前面に出、有力藩は独自に行動し、幕府はその全体を十分に統制できなくなっていた。つまり対外的には幕府が日本を代表することになっていながら、国内的にはその代表性と統治能力が揺らいでいたのである。

    外交問題が政体問題へ変わるとは、このずれが前面化することを意味していた。そのため、幕末の争点を「開国か攘夷か」という理念対立だけで捉えると、本質を落としてしまう。もちろん、開国と攘夷は当時の政治を動かした大きな言葉であり、現実の行動にも深く関わった。だが、問題は単にどちらの理念が優位に立つかではなかった。

    実際に問われていたのは、どの条約を誰が結ぶのか、外国との衝突の責任を誰が負うのか、どの国とどの距離を取るのか、そして何より、誰が日本という国家を代表して外部世界と向き合うのか、ということであった。幕末の対外関係は、理念の衝突であると同時に、国家の代表権と責任主体をめぐる争いでもあった。

    この問題は、抽象的な制度論にとどまらない。幕府が外交を処理しようとすればするほど、なぜ幕府が日本を代表するのかが問われる。有力藩が外国と衝突し、あるいは実務関係を深めれば深めるほど、幕府の統治能力の限界が露出する。朝廷の権威が高まれば、外交の正統性の所在も揺らぐ。外国対応を進めること自体が、そのまま国内の権力構造を揺さぶる回路になっていたのである。

    外交はもはや国内政治の外側にある問題ではない。誰が決め、誰が動かし、誰が責任を負うのかという点で、政体そのものを問い直す問題へ変わっていった。

    幕末から明治への転換は、旧体制が倒れ、新政権が生まれたというだけの出来事ではない。それは、対外秩序への編入によって露わになったこのずれに、一つの決着がついたことを意味している。もちろん、その決着は直ちに安定をもたらしたわけではない。新政府もまた、列強との関係の中で多くの制約を受け、国内統治を再編しながら、対外窓口の一元化を進めていかなければならなかった。

    だが少なくとも、幕末に露わになったねじれを処理しないかぎり、近代国家としての日本は立ち上がりえなかった。明治国家の出発点は、まさにそこにあったのである。

    この決着へ向かう過程で、幕府も雄藩もまた、外国と交渉し、自らの立場を正当化するために、「万国公法」という共通の語彙を学び始める。これは、誰が国家を代表し、誰が責任を負うのかという問題を、近代国家の言葉で定式化し、処理可能なものとして捉えるための足場であった。

    だが同時に、その語彙を受け入れることは、日本が自らを欧米秩序の基準の中で位置づけることでもあった。万国公法は、日本が主権国家として外と向き合うための武器であると同時に、その主権の形を欧米秩序の中で測られるという拘束でもあったのである。

    だからこそ開国は、外交問題であると同時に、国家再編の問題でもあった。次章で問うのは、このずれを新たな国家がいかに処理し、一元的な代表と責任の構造を作り直していったのか、という問題である。そしてその作業は、単に国内の統治を立て直すだけでは済まない。欧米秩序の中で、自らを正当な国家として位置づけ、不平等な条約関係をいかに改めていくかという課題と、最初から結びついていたのである。


    公的資料・公的解説

    • 外務省外交史料館特別展示解説『黒船・開国・激動の幕末』
    • 国立国会図書館「日本の開国と日蘭関係」
    • Office of the Historian, U.S. Department of State, “The United States and the Opening to Japan, 1853”
    • 外務省外交史料館関係資料「明治維新期の日英交流」

    研究論文・研究資料

    • 「日本の主権者は誰なのか」『年報政治学』
    • 「幕末開国と長崎通詞制」
    • 「ペリーとホーソーンと日本開国」
    • 幕末条約交渉における日仏条約関連研究
    • 「文久遣欧使節団のオランダ『探索』」

  • 第1章 開国と欧米秩序への編入①

    ーアメリカの入口から列強秩序へー

    アメリカを入口として始まった開国は、すぐに複数の欧米諸国を相手にする問題へ広がっていった。
    だがその過程で露わになったのは、外国との接触そのものではなく、誰が日本を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であるのかというずれであった。


    1.アメリカが開いた入口

    開国の入口がアメリカだったこと自体、すでに条件に規定された政治的選択の問題だった。幕末の開国はしばしば、黒船来航によって日本が一方的に扉をこじ開けられた出来事として語られる。だが、幕府はそれ以前から外の世界の接近を認識しており、その中で最初の本格対応相手としてアメリカを受け止めていった。開国の入口は、単なる偶然でも単純な力負けでもなく、外圧の性格と幕府の相対判断が交差した結果として見る必要がある。

    外圧そのものは、ペリー来航の日に突然生まれたわけではない。幕府はそれ以前から、北方でのロシアの接近や欧米船の来航増加を通じて、従来の対外統制だけでは持ちこたえにくくなっていることを意識していた。アヘン戦争後にはオランダ経由で海外事情が入り、1844年にはオランダ国王ウィレム2世が開国を勧告し、1852年にはドンケル=クルティウスがアメリカ使節来航を予告していた。つまり幕府は、まったく不意を突かれたのではない。外の世界が近づいてきていること自体は、すでに知っていたのである。

    そのうえで、最初に本格的な突破口を開いたのがアメリカだったのには、アメリカ側の事情がある。十九世紀半ばのアメリカにとって、日本は単なる東アジアの一地域ではなかった。中国市場へ向かう太平洋横断航路の中で、蒸気船の補給地、捕鯨船の避難港、通商の中継地として、日本そのものに港を開かせる必要が強かったのである。少なくともこの点で、アメリカの日本接近は、既存のアジア拠点や中国沿岸との関係の延長で日本を位置づけやすかった欧州列強に比べて、日本に港を開かせる直接的な必要がより強かったと見る方が自然である。

    このことは、日本側の受け止め方にも影響したと考えられる。もちろん幕府にとってアメリカは脅威であり、黒船は武力を背景とした外圧そのものであった。だが同時に、ロシアのように北方から直接圧迫する存在でもなく、イギリスのようにすでにアジア海域で強い帝国的基盤を持つ相手でもないという意味で、アメリカは英露とは少し違う位置に見えた可能性が高い。ここでいう相対判断とは、幕府が余裕をもってアメリカを選んだという意味ではない。後に見るように、幕府はロシアに対しては、北方から直接圧力を及ぼしうる相手として強く警戒し、長崎や下田のような既存・周縁の窓口で処理しようとする傾向を持っていた。そうした対応と比べると、アメリカは脅威でありながらも、最初の条約上の入口として受け止められた相手だったと見ることができる。どうせ避けられない接触であるなら、まずはアメリカとの関係として処理する方がまだましだ、という判断が入り込む余地はそこにあった。

    しかも、幕府はただ一方的に押し切られたわけではない。ペリー艦隊が浦賀に現れたとき、日本側はまず長崎回航を求めた。これは従来の対外処理の枠内で事態を管理しようとする対応であったが、ペリー側はこれを拒み、浦賀での国書受領を強硬に迫った。結果として幕府は受け入れざるを得なかったが、1853年の最初の来航時には一年の猶予を求め、艦隊をいったん退去させている。その後、幕府はオランダへ軍艦購入を申し出てもいる。ここで幕府がしていたのは、単なる屈服ではない。外圧を避けられないものと見たうえで、時間を取り、準備を進め、入口の条件を少しでも管理しようとする現実対応であった。

    この意味で、1854年の日米和親条約と1858年の日米修好通商条約は、単なる押しつけられた結果とだけ書くには足りない。そこには、幕府がすでに外圧を認識し、オランダ経由で情報を集め、時間を稼ぎつつ、最初の本格対応相手としてアメリカを受け止めたという過程がある。開国の入口がアメリカだったのは、偶然でも単純な力負けでもなく、外圧の性格と幕府の相対判断が交差した結果であった。


    2.アメリカとの接触から多国間の圧力構造へ

    開国は、アメリカとの接触にとどまらず、ただちに多国間の圧力構造へ広がった。重要なのは、最初の入口を開いたのがアメリカであったとしても、幕府が向き合うべき問題はすぐに「アメリカにどう対応するか」では済まなくなったことである。開国後の日本外交は、一国との関係処理ではなく、複数の欧米諸国を同時に相手にする秩序への編入として進んでいった。

    この時代の国際関係では、先行して条約を取り付けた国に他国が続き、同様の条件を求めるのは珍しいことではなかった。日本もまたその例にもれず、1854年の日米和親条約の後にはイギリスやロシアが続き、1858年の日米修好通商条約を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも相次いで修好通商条約を結ぶことになる。ここで生じた変化は、相手国の数が増えたというだけではない。ある国への譲歩がすぐに別の国への前例となり、交渉余地そのものが急速に狭まっていったのである。

    一国との交渉であれば、時間を稼ぎ、窓口を限定し、一定の順序で処理する余地がまだある。だが相手が複数になれば、ある国に対する処理はすぐ別の国との関係を規定する。開国後の日本外交は、閉じる外交ではなく、広がってしまった関係を管理する外交へと変質していった。

    ここで見落としてはならないのは、その交渉自体が言語と制度の面でも日本に不利な構造を持っていたことである。ペリー来航時の日米交渉は、漢文とオランダ語を介して進められたと研究されており、相手の主張や論理を日本側がそのままの形で受け取っていたわけではない。さらに安政五カ国条約期になると、英語、フランス語、オランダ語、日本語が複雑に絡み合い、どの文面を基準とするかについてもずれが生じうる状況に置かれていた。

    問題は単なる誤訳ではない。どの言語が正式なのか、どの解釈が基準になるのかという制度そのものが、日本側にとって不利に働きやすかったのである。こうした不均衡は、通訳や翻訳の問題にとどまらなかった。条約とは何か、国家は何を約束し、誰がそれを履行するのかという理解そのものに関わっていたからである。

    幕末後半、幕府や雄藩が「万国公法」という語彙を学び始める背景には、この不均衡を相手の言葉で理解し、処理しようとする必要もあった。外国と交渉するためには、相手の言語だけでなく、相手が秩序を語るための言葉を身につけなければならなかったのである。したがって、日本が想定以上の譲歩をした場面があったとしても、それをただちに「単純に騙された」と片づけるのは雑である。他方で、欧米側がこうした構造を自国に有利に使いうる立場にあったことも否定しにくい。そこには、条約交渉が武力を背景にした不均衡の下で進められたという事情も重なっていた。

    だからこそ、幕府側の担当者たちを、ただ旧体制の未熟な官僚として片づけることも適切ではない。むしろ彼らは、限られた言語環境と不均衡な条件の中で、相当に高い実務能力を発揮していたと見るべきである。

    この中で、オランダの位置はやや特別であった。オランダは江戸期を通じて出島を通じた通商を継続し、幕府にとって海外情報の重要な供給源であり続けた。実際、オランダ風説書は、アメリカの来航意図や石炭置場要求まで具体的に伝える貴重な情報源だった。他方で、幕末期には本国オランダの国際的地位はすでに低下しており、英仏露のように圧力の主役にはなりにくかった。だからこそオランダは、重要な窓口でありながら、秩序を主導する国ではなかったのである。

    こうして日本は、複数の欧米諸国を相手にする場へ押し出された。だが重要なのは、相手国が増えたこと自体ではない。ある国への対応が別の国との関係を左右する以上、日本が向き合う相手は、すでに個別の外国ではなく、列強どうしの関係を含んだ秩序そのものになりつつあった。


    3.列強間の力関係が日本へ流れ込む

    幕末日本に流れ込んだのは、複数の外国だけでなく、列強どうしの力関係そのものであった。多国間化とは、単に相手国の数が増えることではない。ある国の後退が別の国の前景化を促し、ある国との接近が別の国の警戒を呼び込む。そのような列強間の配置の中に、日本が置かれ始めたことこそが重要である。

    そのことは、アメリカの位置の変化によく表れている。アメリカは開国の入口を開いた国であった。十九世紀半ばのアメリカにとって、日本は太平洋横断航路の寄港地、補給地として重要性の高い存在であり、だからこそ港を開かせる必要も強かった。だが、その重要性がそのまま幕末後半の継続的関与につながったわけではない。南北戦争によって国家の重心は国内へ引き戻され、対外関与の優先順位と実行の余裕は相対的に低下したからである。

    その結果、開国の起点では前面にいたアメリカは、幕末後半の政局再編では後景へ退いていく。一方で、フランス、イギリス、ロシアの比重は増していった。重要なのは、入口の主役だった国と、その後の外交条件を左右した国とは必ずしも一致しなかったということである。ペリー来航の衝撃と、幕末後半における英仏露の前景化は矛盾しない。むしろそこに、開国の瞬間と、その後の秩序変化をつなぐ鍵がある。

    ロシア問題は、その変化をさらに複雑なものにした。ロシアは幕末に突然現れた脅威ではなく、江戸期を通じて北方から迫る存在として繰り返し警戒されてきた。幕府にとってロシアは、単なる通商相手ではなく、北方から直接圧力を及ぼしうる相手として認識されていた。そのため幕府は、ロシアを江戸湾の正面に引き入れるよりも、長崎や下田のような既存・周縁の窓口で処理したがる傾向を持っていたと考える方が自然である。ここには、アメリカを入口として受け止めた判断とは別の、より強い地政学的警戒が働いていた。

    しかしロシア問題の重さは、日本側の北方警戒だけにあったのではない。ロシアが日本に他の欧米諸国以上に深く入り込むこと自体を、イギリスやフランスもまた警戒していた。クリミア戦争期、ロシアは英仏と交戦状態にあり、ロシア船を求めて英仏の艦船が日本近海に現れていたことが確認できる。つまりロシア問題とは、日本にとっての北方不安であると同時に、英仏の対露警戒まで呼び込む問題でもあった。

    日本はロシアだけを相手にしていたのではない。ロシアをどう扱うかを通じて、英仏との関係まで同時に処理しなければならなかったのである。ここで重要なのは、アメリカの後景化とロシア問題が、別々の出来事ではないということである。アメリカの後景化は、入口を開いた国がその後の秩序を主導するとは限らないことを示していた。ロシア問題は、日本の一国対応がそのまま英仏との関係に波及することを示していた。

    この二つを合わせて見ると、幕末日本はすでに、列強どうしの競争と牽制が交差する場として扱われ始めていたことが分かる。だからこそ、外国との関係はもはや中央の一元的な処理だけでは済まず、国内の権力構造そのものを揺さぶる問題へ近づいていく。

  • 目次:歴史と構造

    歴史

    日本近現代外交史

    戦後経済史


    構造

    現代資本主義の作動原理(うんぱった的資本主義解説)