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  • コラム:嘘と噂と信用

    ― 国債は何で支えられているのか ―

    はじめに

    日本の国債は、およそ1,100兆円規模にのぼります。

    この数字を聞いたとき、
    人の反応はおおむね二つに分かれるのではないでしょうか。

    ひとつは、「そんなにあって大丈夫なのか」という不安。
    もうひとつは、「日本は破綻しない」という断言です。

    どちらにも、ある意味では理があります。
    ただ今回は、
    その是非を正面から論じるのではなく、少し別の角度から眺めてみたいのです。
    テーマは、信用と心理です。

    経済は数字で動きます。
    けれども、ときに数字より先に動くものがあります。
    それが信用であり、人の心です。


    ギリシャ ― 嘘が信用を削ったとき

    2009年秋、アテネでのことでした。

    政権が交代し、新しい政府が財務の実態を精査し始めます。
    そこで明らかになったのは、衝撃的な数字でした。

    「GDP比5%程度」
    と説明されていた財政赤字が、実際には12%を超えていた。
    その後、数値は13%台へと修正されていきます。

    最初は、単なる“数字の訂正”にすぎないようにも見えました。
    しかし市場が見たのは、数字そのものというより、
    その背後にあるものだったのです。

    なぜ隠していたのか。
    ほかにも伏せられているものがあるのではないか。
    この国の発表は、はたして信じてよいのか。

    そうした疑念が、音もなく広がっていきました。

    ロンドンやフランクフルトのトレーディングルームでは、
    ギリシャ国債の利回りがじわりと上がっていきます。
    格付けが引き下げられ、それに伴って利回りはさらに上昇していく。

    政府は財政健全化計画を打ち出しましたが、市場は冷静でした。
    そして、冷静であるがゆえに冷酷でもありました。

    国債とは、国家の約束です。
    しかし、その約束を支えているのは帳簿だけではありません。

    支えているのは、信用です。

    嘘があった。
    少なくとも、市場はそう受け取りました。
    その瞬間から、疑念は価格になります。

    金利が上がり、
    利払いが増え、
    財政はさらに圧迫される。

    金利上昇が不安を生み、
    その不安がまた金利を押し上げる。
    そうした連鎖が生まれていきました。

    破綻は、ある日突然やってきたわけではありません。

    信用が少しずつ削られ、
    削られたその分が、金利というかたちで姿を現したにすぎないのです。

    嘘は、ただちに国を倒すわけではありません。
    けれども、
    確実に信用を削ります。

    そして信用が削られれば、数字はもはや味方ではなくなっていきます。


    豊川信用金庫 ― 噂が現実を動かしたとき

    次の舞台は昭和の日本です。
    始まりは、列車の中で交わされた何気ない冗談でした。

    「信用金庫は危ないよ」

    就職活動中の友達をからかって
    信用金庫は強盗が入るかもしれないから。
    という話のたったひと言です。
    けれども、その言葉を耳にした女子高生は不安になり、親戚に尋ねます。

    親戚は具体名を聞いていないにもかかわらず、
    なぜか豊川信用金庫のことだと思い込みます。

    親戚から始まり電話が回ります。

    「危ないの?」が
    「危ないらしい」になり、やがて
    「危ない」へと変わっていく。

    町の主婦たちのあいだで話題になり、
    通りがかりの人の耳にも入り、
    言葉は少しずつ断定の響きを帯びていきました。

    女子高校の会話から6日目
    ある店で「120万円※おろせ」という電話が聞こえます。
    それは、ただの支払い指示でした。

    ※当時の120万円は今の感覚だと600万円弱位です(物価換算)

    けれども、それを聞いた人はこう解釈します。
    「やっぱり危ないから引き出しているのだ」

    そう思った人が自分も引き出し、
    それを見た人もまた列に加わる。
    不安は、目に見えるかたちをとり始めました。

    タクシー運転手の証言が象徴的です。

    昼は「危ないらしい」
    午後は「危ない」
    夕方は「潰れる」
    夜には「明日はシャッターが上がらない」

    言葉は、時間とともに強さを増していきます。

    信用金庫には、実質的な経営問題はありませんでした。
    ただ、銀行は預金を全額そのまま置いているわけではありません。

    取り付けが起きれば、本当に危うくなります。

    そこで日銀が現金を山のように積み上げ、
    目に見えるかたちで信用を示しました。

    ようやく空気が変わります。

    ここにあったのは、嘘ではありませんでした。
    あったのは噂だけです。

    けれども噂は、
    本物の預金を動かし、
    本物の行列をつくり、
    本物の危機を呼び寄せかけました。


    似ていること、似ていないこと

    ギリシャは嘘から始まりました。
    豊川は噂から始まりました。

    ギリシャには構造的な財政問題がありました。
    一方で、豊川には実質的な経営問題はありませんでした。

    けれども、両者には共通するものがあります。

    信用が揺らいだその瞬間から、数字が動くということです。
    そして数字が動けば、現実もまた動きます。

    嘘は信用を削ります。
    噂もまた、信用を削ります。

    市場は、真実かどうかそれ自体よりも、
    「信じられているかどうか」を先に織り込むことがあるのです。


    日本の1,100兆円は何で支えられているのか

    では、日本はどうでしょうか。

    いまのところ、日本国債は淡々と回っています。
    制度も市場も機能しています。

    ただ、国債は単なる借金の総額ではありません。
    それは、この国が積み重ねてきた信用の総量でもあります。

    信用は、静かに蓄積されます。
    そしてまた、静かに削られていきます。

    嘘を重ねれば削られる。
    噂が広がれば揺らぐ。
    制度の予測可能性が失われれば、それは価格となって現れます。

    経済は冷たい数字の世界に見えて、
    実のところ、とても人間的です。

    言葉が金利になり、
    疑念が利回りになるのです。

    1,100兆円を支えているのは、
    税でも日銀でもなく、
    「この国は約束を守る」という、目に見えない信用の連鎖です。

    だから問うべきなのは、単純な破綻論ではありません。

    この国は、
    嘘を積み上げていないか。
    噂に負けない制度を持っているか。
    信用を削らない運営をしているか。

    国債とは、国家の財務表であると同時に、
    社会の信用残高そのものでもあるのです。


    最後に

    日本国債残高1,100兆円は、
    過去に積み重ねてきた信用の量だともいえます。

    もちろん、総額は現実です。
    向き合わなくてよい数字ではありません。

    けれど同時に、それは
    「この国は約束を守る」と信じられてきた結果でもあります。

    強い言葉は、人の心を動かします。
    不安や怒りは、広がりやすいものです。

    しかし、刺激は信用を育てません。

    1,100兆円という数字は、
    重さであると同時に、積み重ねでもあります。

    私たちは、その両方を見ているでしょうか。

  • 補論 :自己更新と外的再編の分岐

    ー明治維新と朝鮮併合とGHQ占領政策をめぐってー


    Ⅰ.この補論で見たいこと

    本稿では、イランを考えるうえで重要なのは
    「何を選ぶか」よりも「誰がそれを選ぶのか」
    ではないか、という視点を置いた。

    この論点は、イランだけに限られたものではない。
    外圧の中で社会が再編されるとき、
    制度の中身以上に、その変化を誰の手で進めるのかが決定的になるからである。

    この視点から日本近代を見直すと、
    明治維新
    朝鮮併合
    敗戦後の占領改革
    は同じ近代の圧力の中にありながら、
    それぞれ異なる構造を持っていたことが見えてくる。

    ここで大事なのは、どれが善でどれが悪かという単純な裁定ではない。

    問いたいのは、
    外圧の下で起きた再編が、
    自己更新として経験されたのか、
    それとも外的再編として強いられたのかという違いである。

    そしてさらに重要なのは、
    その違いが一時代の制度変更にとどまらず、

    現代を生きる人間の感情
    歴史認識
    国家観
    自己像
    にまでどう影響を及ぼしているのかを考えることである。

    つまり本補論の論点は、制度史そのものではない。
    制度の背後にある主語の位置、そしてその主語の位置が、
    後の時代にどのような記憶や輪郭として残るのか、という問題である。


    Ⅱ.明治維新

    「西洋化の成功」ではなく、外圧下の自己更新として見るべきである

    明治維新は、しばしば
    「遅れた江戸を脱し、西洋化に成功した過程」
    として語られる。

    しかし、この理解はあまりに平板である。
    この見方では、近代をあらかじめ完成された形とみなし、
    日本はそこへうまく適応した、という図式になってしまう。

    だが、本質はそこにはない。

    重要なのは、日本が外圧にさらされながらも、
    なお自らの名において秩序を組み替えたという点である。
    もちろんそこには内戦も断絶もあり、旧来の秩序の破壊も伴った。

    維新は穏やかな移行ではなく、
    激しい再編であり、相当な痛みを伴う変化だった。

    だがそれでも、その変化は
    日本社会の内部で政治主体が形成され
    日本自身の言葉で正当化され
    日本自身の歴史として引き受けられた。

    ここで大事なのは、「変わったこと」ではない。
    誰の手で変わったかである。

    制度導入の中身を見れば、西洋由来のものは多い。
    軍制、法体系、教育制度、官僚制、産業政策。

    しかし、それらが単なる外来制度の輸入で終わらなかったのは、
    それが日本にとっての危機対応、
    日本にとっての国家再編として語られたからである。

    制度の由来が外にあったとしても、再編の主語そのものは外部ではなかった。

    この意味で、明治維新は「西洋化」ではなく、
    より正確には外圧下における自己更新として見る方が本質に近い。

    ここで言う自己更新とは、過去を全面否定することではない。
    また、外部を拒絶することでもない。

    自らの歴史的連続性を保ちながら、
    なお自らの名において社会の形を組み替えることである。

    この点は重要である。

    人は、自分で引き受けた痛みと、
    外から押しつけられた痛みを同じようには記憶しない。
    社会や国家も同じである。

    自己更新としての痛みは、のちに批判や再評価の対象になっても、
    なお「自分たちの歴史」として内部化される。

    そこに、明治維新が持つ独特の重みがある。


    Ⅲ.朝鮮併合

    朝鮮併合は「制度変化」ではなく、主語を奪われた外的再編として経験された

    これに対して、朝鮮併合はまったく別の構造を持っている。
    ここでも重要なのは、まず善悪の裁定ではない。

    むしろ、再編の主語がどこにあったのかという点である。

    朝鮮併合をめぐっては、しばしば制度や行政やインフラの変化が議論される。
    だが、そこにだけ注目すると、本質を見誤る。

    なぜなら、制度の内容以前に、朝鮮社会が自らの未来を自らの言葉で定義する主語を失ったことが決定的だったからである。

    何が導入されたのか。
    どのような行政が敷かれたのか。
    どのような制度改編が行われたのか。

    それらはたしかに歴史の一部である。
    しかし、それだけでは、
    その再編が朝鮮の人々にとって何であったかは見えてこない。

    ここで問うべきなのは、
    何が与えられたかではなく、誰が次の秩序を語ったのかである。

    朝鮮併合において、
    朝鮮社会は自らを再編する主体として立つことができなかった。

    未来の方向も
    制度の意味も
    秩序の正当化の言葉も
    外部に置かれた。

    その時点で、この再編は自己更新ではなく、外的再編となる。

    この違いは大きい。
    自己更新は痛みを伴っても、自国の歴史として引き受けられる。

    だが、外的再編は、たとえ一部に制度的合理性があったとしても、
    まず剥奪や屈辱として記憶されやすい。

    なぜならそこでは、制度の中身以上に、
    自分たちの社会が自分たちのものではなくなる感覚が生まれるからである。

    社会にとって深い傷になるのは、単なる損害だけではない。
    自らの未来を語る権利を失うこと。
    自らの社会の意味を、自らの言葉で定義できなくなること。

    この傷は数字では測れない。
    だが、むしろこうした種類の傷の方が、制度の寿命より長く残る。

    この意味で、
    朝鮮併合は
    「近代化の是非」の問題としてではなく、
    主語を奪われた外的再編として見る方が、本質に近い。


    Ⅳ.敗戦後の日本とGHQ占領政策

    敗戦後日本は、壊滅的な敗戦
    という断絶のあとでも自己像を保つために「軍」を切り離した

    ここで、敗戦後日本とGHQ占領政策は、第三の型として現れる。

    これは、単純な自己更新でもなければ、
    朝鮮併合のような意味での全面的な外的再編でもない。

    むしろ、外的再編を受け入れながら、
    なお自己像の連続性を保とうとした再定義
    として見る方が近い。

    敗戦後の日本では、大きな制度変更が加えられた。
    しかしここで重要なのは、制度の変更そのものより、
    日本社会がその変化の中で自らをどう保ったかである。

    このとき日本は、国家そのものを全面的に断ち切るのではなく、
    「軍が日本を誤らせた」 という整理を取ることで、
    自らの連続性を維持しようとしたように見える。

    その意味は、単なる原因分析にはない。
    それはむしろ、壊滅的な敗戦という断絶のあとでも、
    それでもなお続いていく日本とは何かを定めるための自己定義だった。

    軍を切り離された部分として置くことで、
    日本は国家全体の自己像を全面崩壊させずに済んだ。

    つまりここで起きたのは、単なる占領改革ではなく、敗戦後の日本が、
    自らの連続性を保つために行った自己定義の再編でもあったのである。
    ここで重要なのは、

    善悪の反省ではない。

    対外的な責任の話でもない。

    問われているのは、日本が敗戦後に、何を日本そのものと見なし、
    何を切り離しうる部分と見なしたのかという点である。


    Ⅴ.戦後日本の再出発

    その自己定義は、再出発を可能にすると同時に、
    主権国家として不完全な自己理解を残した


    この自己定義は、戦後日本の再出発を支えるうえで大きな意味を持った。
    社会全体を断ち切らずに済むからである。

    一部を切り離すことで、全体はなお続くことができる。
    この構図によって、
    日本は破局のあとでも「同じ日本」として立ち上がりやすくなった。

    しかしその反面で、この整理は、何を日本の本体とし、
    何を日本の外へ押し出すのかという自己定義を強く固定することにもなった。

    しかもそれは、完全に内発的な自己定義ではなかった。
    占領という外的再編と極端なまでの軍の切り離しの中で形成された以上、
    そこには最初から外部規定が深く入り込んでいる。

    この点で、戦後日本の自己定義は、
    単純な意味で完結した主権国家の自己理解とは言いにくい。

    むしろそれは、主権国家として存在しながら、
    自己像の核に外部規定を含んだままの自己定義だった。

    言い換えれば、戦後日本は国家として続いた。
    しかし、「何が日本であるか」を定める中心に、占領とその条件が入り込んだ。

    そのため、日本は独立国家としての形式を持ちながら、
    自己定義の最深部にどこか未完の部分を抱え込むことになった。

    ここで大事なのは、何を直視したかしないかという反省の量ではない。

    むしろ、どのようなかたちで「日本は続いていく」
    と定義されたのかという点である。

    そしてその定義の仕方が、
    現在に至るまで日本人の国家観や歴史感覚の一部を形づくっている。


    Ⅵ.破局の深さが自己定義の形を決めた

    問題は「敗戦」そのものではなく、
    破局の深さが自己定義の形を決めたことにある

    ここで重要なのは、単に負けたという事実ではない。
    ただの敗戦であれば、ここまでの再編にはならなかったかもしれない。

    本質は、
    自力では従来の自己像を維持しにくいほど、
    破局が深かったことにある。

    その破局の深さが、占領を受け入れざるをえない条件を生み、
    軍を極端なまでに切り離す自己定義を必要とし、

    その結果として、
    主権国家としてどこか不完全な自己理解を抱えたまま戦後日本を成立させた。
    その不完全さは、戦後の一時的なものにとどまらなかった。

    むしろ、現在に至るまで、制度と自己像のずれとして残り続けている。

    その象徴の一つが、
    憲法上の位置づけ
    国家の実態
    国民意識のあいだ
    にねじれを抱えたまま存在してきた自衛隊である。

    したがって、
    ここで見ているのは、勝敗そのものではない。
    また、占領の善悪だけでもない。
    ましてや戦争や軍の是非でもない。

    問うべきなのは、壊滅的な断絶のあとで、
    社会がいかなる形で自己をつなぎ直したのかである。

    つまり、敗戦後日本は、自己を全面否定したのでもなければ、
    完全な自己更新を成し遂げたのでもない。

    一部を切り離すことで全体を保ち、
    外的再編を受け入れることで内部の連続性を守った。

    その結果として、日本は戦後を始めることができた。
    だがその始まり方そのものが、
    現代まで尾を引く自己定義の枠組みを作ったのである。


    Ⅶ.外的再編の違い

    外的再編の違いは、現代を生きる人間の自己像にまで及ぶ

    ここまで見てくると、
    明治維新
    朝鮮併合
    敗戦後日本
    はそれぞれ異なる仕方で現代に影を落としていることが分かる。

    明治維新は、
    痛みを伴いながらも、自国の歴史として内面化されやすい。
    それは自己更新として経験されたからである。
    そのため、近代化への違和感や批判があっても、
    それはなお「自分たちの歩み」として語られやすい。

    朝鮮併合は、
    制度の中身以上に、主語を奪われた外的再編としての記憶を残しやすい。
    そのため、過去の出来事は現在においても、単なる歴史問題ではなく、
    自己像や尊厳に関わる問いとして現れやすい。

    敗戦後日本は、
    その中間に位置する。
    外的再編を受けたにもかかわらず、自己像を全面崩壊させずに済んだ。
    だがその代わりに、自らの自己定義の核に外部規定を残した。

    そのため、戦後日本は安定した平和国家像を持ちながら、
    同時に、国家としての輪郭や主権の感覚にどこか揺れを抱えやすい。

    ここで問題になるのは、政策ではない。
    自分たちは何者かという感覚である。

    現代を生きる人間が受け継ぐのは、条文だけではない。
    先祖がどのような形で変化を経験したか、
    その変化を自分たちのものとして引き受けたのか、
    あるいは外から与えられたものとして記憶したのか、
    そうした感覚の遺産である。

    だから、外圧の下でどのように再編されたかという構造の違いは、
    制度が終わった後にも残る。

    それは
    歴史認識として残り
    国家観として残り
    何を自分たちらしさと感じるかという感覚として残る。


    Ⅷ.この補論がイランの考察へ戻っていく場所

    ここで、話は再びイランに戻る。
    イランで問われていることもまた、制度の種類そのものではない。

    どの体制が合理的か。
    どの制度が国際的に望ましいか。
    その問いだけでは足りない。

    本当に問われているのは、
    その社会が次の秩序を自らの手で始められるのかという点である。

    外圧が強まれば、制度の空白は生まれるかもしれない。
    だが、
    その空白をどの言葉で埋めるのか。
    誰がその未来を語るのか。
    誰がその痛みを引き受けるのか。

    そこを外部が奪ってしまえば、イランでもまた、
    自己更新ではなく外的再編として経験される危険がある。

    つまり、明治維新、朝鮮併合、敗戦後日本再編を分けた構造は、
    イランを考えるうえでも無関係ではない。

    制度の中身以前に、変化の主語を誰が持つのかが決定的になるからである。
    この意味で、イランの事例は日本近代を見直す鏡になる。

    そして日本近代を見直すことは、
    イランの問題をより深く理解する補助線にもなる。


    Ⅸ.結語

    変化の中身ではなく、変化の主語が歴史の質を決める

    明治維新、朝鮮併合、敗戦後日本再編は、
    いずれも外圧の中で起きた再編でありながら、異なる歴史経験を生んだ。

    その違いを、単純な善悪や成功失敗だけで語ると、核心を外す。

    本当に重要なのは、
    どの社会がどの制度を導入したかではない。
    どの社会が、自らの未来を自らの言葉で語る主語でいられたかである。

    自己更新としての再編は、痛みを伴っても歴史として引き受けられる。
    外的再編としての再編は、たとえ一部に合理性があっても、
    剥奪や屈辱として長く残る。

    そしてその違いは、当時の制度だけではなく、
    後の時代を生きる人間の感情、歴史意識、国家観にまで影響を及ぼしていく。

    だから結局のところ、圧力の下で本当に問われるのは、
    何を導入したかではない。

    誰が次の秩序を語ったのか。
    この一点が、歴史の質を大きく分けるのである。

  • 日本人から見たイランー変化の中身ではなく、変化の主語を問うー

    Ⅰ.「宗教か世俗か」では捉えきれないもの

    イラン情勢は、宗教、独裁、デモ、アメリカ、イスラエルといった強い言葉で語られやすい。そのため議論もつい、「宗教か世俗か」「親米か反米か」「民主化か独裁か」といった分かりやすい対立に整理されがちである。

    もちろん、そうした軸も重要であり、政治の構図を捉える手がかりになる。その奥には、人びとが長い時間をかけて積み重ねてきた感覚の層がある。

    本稿で人文科学的視点を重視するのは、歴史を制度や事件の断片としてではなく、その社会を生きる人びとが積み重ねてきた長い物語として読むためである。政権が変わり、制度が変わり、登場人物が入れ替わっても、人びとは同じ社会が積み重ねてきた物語の続きを生きている。社会の深い部分にある記憶(注A)、価値観、信仰、誇り、屈辱の感覚が人びとの中に沈殿し続けるからこそ、歴史は断絶と連続の両方から読むことができる。

    ページは変わる。だが、人びとが何を侮辱と感じ、何を正統と感じ、何を守ろうとするのかという深い部分は、長い時間を通じて持続する。この視点を入れることで、革命、反発、制度の硬直、外圧への拒絶は、ばらばらの事件ではなく、人びとが生きてきた同じ歴史の別の場面として読み直すことができる。この視点が弱いと、歴史は点の集まりに崩れ、制度だけが動くか、感情だけが騒ぐかのどちらかに傾きやすい。

    イランを考えるうえでは、何を選ぶかと同時に、その変化を誰の手で選ぶのかが重要になる。この問いを置くことで、イラン革命も、現在の抗議も、体制への反発も、一つの歴史の流れとして見えてくる。本稿では、イランをめぐる問題を、宗教と世俗、西洋化と反西洋化といった対立軸を越えて、主体性と正統性(注B)の問題として考えてみたい。そこに見えてくるのは、制度の中身以上に、変化の主語そのもの(注C)が問われているという構図である。


    Ⅱ.1979年革命が拒絶したもの

    1979年のイラン革命は、しばしば「反西洋」や「近代化への反動」として語られてきた。しかし、その見方だけでは革命に集まった不満の広がりを捉えきれない。

    革命前のパフラヴィー体制(注1)は、アメリカを中心とする西側諸国との関係を深めながら、国家主導で急速な近代化を進めていた。経済、教育、産業、生活のあり方まで大きく組み替えられ、その変化は都市化や産業化を進める一方で、イラン社会が長い時間をかけて育んできた価値の配置や生活の感覚との摩擦も生んだ。さらに、アメリカとの強い結びつきは、自分たちの国がどこへ向かうのかという大きな選択が、人びとの生活や言葉から離れたところで決められているという感覚を強めていった。

    人びとの反発は、まず近代化の内容に向かった。しかしその根底には、自分たちの社会がどのように変わるのか、その方向を誰が決めるのかという問題があった。急速な変化によって生活の形が組み替えられるなかで、社会の主導権そのものが問われるようになったのである。そこから、自分たちの歴史、自分たちの言葉、自分たちの価値の配置の中から、次の秩序を選び直そうとする動きが広がっていった。

    だからこそ、革命には様々な立場の人たちが参加した。宗教勢力に加え、自由主義者、民族主義者、左派、学生、商人など、それぞれ異なる思想や利害を持つ人びとが王政に反発していた。その先に思い描く国家の姿には大きな違いがあったが、自分たちの国のあり方を自分たちの手に取り戻したいという要求が、異なる勢力を一つの革命へ集める力になった。

    革命が成功すると、問いは次の段階へ移った。取り戻した「自分たち」という主語を、誰が代表するのかという問題である。革命後の政治過程では宗教政治勢力が次第に主導権を握り、憲法制定を通じて宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み(注2)が制度化された。宗教法学者が国家統治の中心に立つこの仕組みは、シーア派の長い歴史の中でも大きな転換を伴う、新しい統治の設計だった。革命後に創設された革命防衛隊(注3)も、新しい体制を守る組織として力を持つようになった。

    こうして、外部との関係のなかで失われたと感じられていた主導権を取り戻す運動は、革命後には、誰が「イラン」を語り、誰が「革命」を語り、誰が「国民」を代表するのかという国内の問題へ移っていった。革命が取り戻そうとした「自分たち」という主語が、誰の手に集まり、どのような形で社会全体を代表するようになったのかという問いは、その後のイスラム共和国の統治と、現在の反発を考えるうえでも重要になる。


    Ⅲ.生活に染み込んだシーア派と、国家による「正しい形」

    この構図は、現在のイラン国内で噴き出している不満や抗議にも通じている。今日の反発を単純に「宗教が嫌だ」という話として理解すると、本質を外す。

    人びとの反発が強く向かっているのは、国家が唯一の正解として固定し、上から塗り固めた価値体系の方ではないか。問題の中心には、宗教そのものよりも、宗教が統治技術として硬化したことがある。

    シーア派は、人びとの生活に深く溶け込んできた。それは共同体の記憶、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた、生きられた文化の一部(注D)でもある。人びとの暮らしの中に浸透し、心の芯に触れるような層を持っている。そこでは宗教は、生活と不可分な精神の織物として人びとの日常に存在してきた。

    この点は、日本人にもある程度感覚的に理解しやすいかもしれない。日本における神社や祭礼、祖先観、年中行事の多くは、厳格な教義として信じられる以前に、生活の一部として息づいている。それは思想として切り分けられる前に、暮らしの中に編み込まれている。

    イランにおけるシーア派にも、そうした生活に染み込んだ文明的基盤としての側面がある。だからこそ、それが国家によって「正しい形」に固定され、統治の道具として管理されたとき、人びとは政治的な息苦しさに加えて、自分たちの生活世界(注E)そのものを奪われる感覚を抱く。ここに、現在の反発の深い根があるように思える。

    この問題を「宗教と世俗の対立」として処理すると、かなり見誤る。焦点は宗教の有無よりも、生活に根ざしていた価値の体系が、国家によって独占的に定義され管理されることへの拒否にある。イランで起きていることは、他者によって固定された生き方への拒否として捉えることで、その深い部分が見えてくる。


    Ⅳ.国家の変化は「発展段階」ではなく「自己更新の様式」である

    この視点から見ると、イランの問題は「西洋化するか否か」という問いを越えて広がっている。問われているのは、外部との接触の中で、自らの文明的連続性を保ちながら、次の秩序を誰の手で選び直すのかという点である。

    西洋文明を上位に置き、地域文明がそこへ追いつくという構図(注F)よりも、どの社会にも固有の歴史の厚みと価値の配置があり、それをどう再編するかという視点の方が重要になる。

    その意味で、国家の変化は「成長の段階」よりも、自己更新の様式として見る方がいい。社会は、それぞれ異なる歴史の上で、外圧や技術や市場や軍事環境の変化に応じながら、自らの過去との連続性を保ちつつ、自らを組み替えていく。そこでは、何を採用したか以上に、誰の言葉で採用したかが決定的になる。

    特にイランやシーア派においてこの感覚が強く見えるのは、長い歴史と、イスラーム世界の中で少数派であり続けてきたシーア派としての記憶と、外部世界との深い接触が重なっているからだろう。外と関わり続けてきた社会は、傷も多くなるが、自画像もまた濃くなる。自分たちは何者かという問いを、他者と向き合うたびに更新してきたからである。

    だからこそ、未来の内容そのもの以上に、その未来を誰の手で始めるのかという問題が重くなる。


    Ⅴ.生活と身体から「誰が決めるのか」という問いへ

    デモや革命の核心も、おそらくここにある。人びとは最初から、自分たちの怒りの核心を明瞭に言葉にしているわけではない。多くの場合、先にあるのは息苦しさや屈辱や違和感であり、その正体はあとからようやく言葉になる。

    生活の苦しさも、その一つである。物価が上がり、通貨の価値が落ち、仕事や将来への不安が続けば、人びとはまず目の前の生活に苦しむ。その生活苦には、国内の政策や資源配分とともに、長年にわたるアメリカを中心とした経済制裁も重なってきた。金融取引や石油輸出などへの制約は外貨の獲得や通貨の価値に影響し、輸入品の価格や物価を通じて人びとの日常生活にまで及ぶ。その一方で、体制が選んできた対外政策や国内の資源配分も、生活の条件を左右してきた。外から加えられる圧力と国内で積み重ねられた選択が、同じ物価高や通貨安の中で重なって現れるのである。

    その状態が長く続くにつれて、問いは生活の結果から、その生活を生み出している社会のあり方へ向かっていく。なぜ自分たちはこのような生活をしているのか。この苦しさは外国から加えられたものなのか、それとも体制が選んできた政策から生まれたものなのか。この国は何を優先し、その負担を誰が引き受けているのか。苦しさの原因を誰に求めるのかという判断そのものが、社会のあり方を誰の言葉で理解するのかという問題につながっていく。

    ここで、1979年革命から積み重なってきた時間も別の意味を持ち始める。革命後、革命を守るために生まれた革命防衛隊は、イラン・イラク戦争(注4)後の復興事業を足場として経済活動を広げ、その建設部門であるハタム・アル・アンビヤ建設司令部(注5)は、建設やエネルギーなどの大規模事業を担う巨大な経済主体へ成長した。また、革命後に接収された資産などを基礎に拡大したボンヤド(注6)と呼ばれる財団群も、革命や宗教の大義と最高指導者の権威を背景に多くの企業を抱え、国家の経済資源の配分に大きな影響力を持つようになった。

    1979年には、自分たちの国を自分たちの手に取り戻すという要求が、多くの人びとを革命へ向かわせた。しかし四十年以上が過ぎるなかで、その革命を守り、革命後の再分配を担った組織が、経済の中枢にも位置するようになった。生活が苦しくなるほど、人びとの目には革命の意味も違った色で映り始める。自分たちが取り戻したはずの国家で、誰が資源を配り、誰が利益を受け、誰が負担を引き受けているのか。こうして生活苦は、「この国家は誰のために動いているのか」を人びとに意識させるようになる。

    2025年末に広がった抗議も、通貨の下落や物価高など生活に直接かかわる不満から始まった。その後、抗議は各地へ広がり、体制そのものへの批判を含む動きへ発展した。これに対して体制側は、治安部隊による発砲や大規模な逮捕などによって抗議を抑え込み、インターネットも広範に遮断した。生活の苦しさから始まった抗議は、やがて国のあり方や、人びとの異議をどう扱うのかを争う動きへ変わっていった。

    これとは異なる形で、2022年には、女性の服装規制をめぐる問題から大きな抗議が広がった。そこには服装の自由への要求とともに、国家が個人の身体や生活の細部にまで、宗教的に「正しい」と定めた形を求めることへの拒否も含まれていたように見える。信仰は人びとの暮らしの中に長く存在してきた。しかし、その信仰をどのように表すべきかまで国家が一つの形に固定すれば、問いは宗教の有無から、宗教を誰が定義するのかへ移っていく。なぜ身体の見え方の細部にまで、国家が正解を定めなければならないのか。服装をめぐる規制は、その問いがもっとも身近な身体の上に現れたものでもある。

    生活苦と服装規制は、表面上はまったく異なる問題である。一方では、制裁と国内の政策や資源配分が重なって日々の生活に及び、もう一方では国家による宗教の定義が身体の見え方の細部にまで及ぶ。二つに共通するのは、自分たちの生活を誰が決め、自分たちの生き方を誰が定義するのかという問題である。

    実際の抗議には、経済への不満、汚職への怒り、女性の権利、宗教強制への反発など、様々な要求がある。参加する人びとの立場も、望んでいる将来も一つではない。それでも、それぞれの苦しさや違和感を振り返っていくなかで、これ以上、自分たちの生を他者に定義されたくないという感覚が姿を現すことがある。

    人間は、自分の怒りの本質を最初から完全には理解していない。社会もまた同じである。生活や身体に現れた個々の不満が積み重なり、それまで当然のものとして背景に退いていた国家と人びとの関係が問い直される。そのとき初めて、「自分たちはこの社会の主語なのか」という問いが言葉を持ち始める。イランの抗議行動には、その流れが繰り返し現れているように思える。


    Ⅵ.外圧は空白を作れても、正統性までは作れない

    抗議とその抑え込みによって国内が揺れるなか、2026年、この問題は仮定ではなく現実のものになった。核開発や対イスラエル政策をめぐる対立を背景に、2月末からアメリカとイスラエルによる軍事攻撃が始まり、最高指導者アリー・ハメネイ(注7)も死亡した。外部から加えられた力は、イランの軍事力や体制中枢そのものを大きく揺さぶるところまで進んだ。

    それに対して体制側が選んだのは、強い連続性だった。攻撃開始から約一週間後、後継の最高指導者には息子のモジュタバ・ハメネイ(注8)が選ばれた。革命防衛隊をはじめとする既存の体制を支える組織も、大きな役割を担い続けている。制度上は世襲制ではないが、父から息子への継承は強い世襲色を帯びており、外から体制そのものを揺さぶられた局面で、既存秩序を維持する意思を強く示すものとなった。

    ここで、イランの人びとは難しい位置に置かれることになる。外部からは、軍事力によって現在の体制を変える力が加えられる。一方、国内では、その外圧に対抗するかたちで体制の維持が優先される。その二つの大きな力が向き合うほど、本来その先の社会を生きる人びと自身が、次のイランをどうするのかを選ぶ場面は後ろへ押しやられていく。

    外から体制を壊すことと、イラン社会が新しい秩序を自ら選ぶことは同じではない。同時に、「外国から国を守る」という理由によって、国内の一つの勢力が社会全体の主語を独占することも、その社会自身の選択とは区別して考える必要がある。

    ここに、外圧が持つ限界がある。軍事力は指導者を倒し、施設を破壊し、既存の秩序を弱めることができる。それでも、そのあとに何をつくるのか、誰を自分たちの代表として認めるのか、その秩序を自分たちのものとして引き受けられるのかという問題までは決められない。外圧は空白を作ることはできても、その空白を正統性で満たすことはできない。

    正統性は、その社会の内側で、その社会を生きる人びとの言葉によって作られていく。制度がどれほど合理的であっても、それが誰の顔で、誰の言葉で、誰の名において現れるのかによって、人びとの受け止め方は変わる。


    Ⅶ.結語:問うもの

    「次の時代を誰の手で始めるのか」である。

    イランが求めているものは、西洋化でも反西洋化でもないのだろう。また、単純な意味での世俗化でも、神権体制の強化でもないのだろう。

    問われているのは、自らの文明的連続性を失わずに、次の秩序を自ら選び直せるかどうかである。つまり核心にあるのは、制度の名称ではなく、変化の主語なのである。

    外から体制を変える力が加わり、内側では体制を維持する力が強まる現在だからこそ、この問いは以前よりも重くなっている。

    この社会は、次の時代を誰の手で始めるのか。

    イランをめぐる問いは、結局この一点に集約されるように思える。そしてその問いは、イランだけのものではない。外圧の中で社会を組み替えようとした多くの国や地域に通じる、人文科学的にきわめて重要な論点でもある。

    ※本稿は2026年8月時点の状況をもとにしています。


    この論点を日本近代に移すと、また別の輪郭が見えてくる。補論では、明治維新、朝鮮併合、そしてGHQ占領政策をこの視点から考える。


    注釈一覧

    (注1)

    パフラヴィー体制 1925年から1979年まで続いたイランの王政。レザー・シャーが創始し、その子モハンマド・レザー・シャーの代に革命によって終わりを迎えた。

    (注2)

    宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み 1979年憲法で制度化された、イラン独自の統治の枠組み。宗教法学者による後見・統治を意味する語「ヴェラーヤテ・ファギーフ」で呼ばれ、最高指導者がこの仕組みの頂点に立つ。

    (注3)

    革命防衛隊 1979年の革命直後に、新体制を守る組織として創設された軍事組織。通常の国軍とは別に置かれ、のちに経済分野にも大きく活動を広げてきた。

    (注4)

    イラン・イラク戦争 1980年から1988年まで続いたイランとイラクの戦争。1979年の革命から間もない時期に始まり、8年間にわたって続いた。

    (注5)

    ハタム・アル・アンビヤ建設司令部 革命防衛隊の傘下にある建設部門。イラン・イラク戦争後の復興事業を足がかりに、建設やエネルギーなど幅広い分野へ事業を拡大してきた。

    (注6)

    ボンヤド 「財団」を意味する語。革命後に接収された旧体制関係者の資産などを基礎に設立され、宗教的・社会福祉的な大義を掲げながら、多様な企業や事業を抱える組織群を指す。

    (注7)

    アリー・ハメネイ 1989年から2026年までイランの最高指導者を務めた人物。ホメイニ師の後継として、革命体制の中心的な権威を担ってきた。

    (注8)

    モジュタバ・ハメネイ アリー・ハメネイの子。宗教指導者として活動し、革命防衛隊との強い関係を持つとされる。2026年3月、最高指導者を選出する専門家会議によって、父の後継となる最高指導者に選ばれた。

    (注A)

    社会の深い部分にある記憶 社会の記憶を、個人の頭の中に保存された過去としてではなく、人びとの関係や制度、儀礼、物語を通じて共有されるものとして捉える研究は、モーリス・アルヴァックスの「集合的記憶」の議論以来、社会学や歴史学で蓄積されてきた。集合的記憶は過去を保存するだけでなく、現在の社会が過去をどのように理解し、そこから自分たちをどう位置づけるかにも関わる。本稿が、誇りや屈辱、信仰、歴史の記憶を現在の政治的選択とつながるものとして見る視点も、この議論と接点を持つ。

    (注B)

    正統性 支配が強制力だけでなく、支配される側からその秩序を正当なものとして認められることによって成り立つという視点は、マックス・ヴェーバー以来、政治社会学の重要な論点であり続けている。その後も、制度が法的に成立していることと、人びとがその秩序を自らのものとして承認することは区別して論じられてきた。本稿でいう「誰の言葉で語られるか」「誰を代表として認めるか」という問いも、この正統性の問題と重なる。

    (注C)

    変化の主語 近代以降の自己決定をめぐる議論では、どのような制度を選ぶかだけでなく、その政治的決定を誰が行うのかが重要な問題とされてきた。とりわけ植民地支配からの独立や革命をめぐる議論では、外部から与えられた制度と、社会の内部から形成された政治秩序は、同じ制度内容であっても異なる意味を持つ。本稿で「変化の中身」より「変化の主語」を問うのは、この自己決定と政治的主体をめぐる問題意識と重なる。

    (注D)

    生きられた文化の一部 宗教研究では、宗教を教典や聖職者、制度だけから捉えるのではなく、人びとが日常生活のなかで実際にどのように信仰を経験し、儀礼や家族関係、身体感覚、記憶と結びつけているかを見る「生きられた宗教」という視点が発展してきた。ロバート・オーシーやメレディス・マクガイアらの研究は、この研究潮流の代表例として挙げられる。本稿でシーア派を教義だけでなく、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた生活文化として見る視点も、この研究と接点を持つ。

    (注E)

    生活世界 「生活世界」は、人びとが日常生活のなかで共有している常識、文化、慣習、意味のまとまりを捉えるために使われてきた概念である。ユルゲン・ハーバーマスは、人びとが共有された意味を通じて関係を築く領域として生活世界を捉え、行政や市場などのシステムの論理がそこへ過度に入り込む問題を論じた。本稿でいう、生活に根ざした信仰や価値が国家によって一つの「正しい形」に固定されることへの違和感も、制度と生活世界の関係をめぐる問題として読むことができる。

    (注F)

    地域文明がそこへ追いつくという構図 第二次世界大戦後の近代化論では、工業化や都市化、教育の普及などを通じて、諸社会が西欧型の近代へ近づいていくという見方が大きな影響力を持った。これに対し、S・N・アイゼンシュタットらの「複数近代性」は、近代化によって社会の違いが消えるのではなく、それぞれの宗教、歴史、政治文化との組み合わせによって異なる近代が形成されると考える。本稿が「何を取り入れたか」だけでなく「誰の言葉で取り入れたか」を重視する視点も、この問題意識と接点を持つ。