ブログ

  • コラム:嘘と噂と信用

    ― 国債は何で支えられているのか ―

    はじめに

    日本の国債は、およそ1,100兆円規模にのぼります。

    この数字を聞いたとき、
    人の反応はおおむね二つに分かれるのではないでしょうか。

    ひとつは、「そんなにあって大丈夫なのか」という不安。
    もうひとつは、「日本は破綻しない」という断言です。

    どちらにも、ある意味では理があります。
    ただ今回は、
    その是非を正面から論じるのではなく、少し別の角度から眺めてみたいのです。
    テーマは、信用と心理です。

    経済は数字で動きます。
    けれども、ときに数字より先に動くものがあります。
    それが信用であり、人の心です。


    ギリシャ ― 嘘が信用を削ったとき

    2009年秋、アテネでのことでした。

    政権が交代し、新しい政府が財務の実態を精査し始めます。
    そこで明らかになったのは、衝撃的な数字でした。

    「GDP比5%程度」
    と説明されていた財政赤字が、実際には12%を超えていた。
    その後、数値は13%台へと修正されていきます。

    最初は、単なる“数字の訂正”にすぎないようにも見えました。
    しかし市場が見たのは、数字そのものというより、
    その背後にあるものだったのです。

    なぜ隠していたのか。
    ほかにも伏せられているものがあるのではないか。
    この国の発表は、はたして信じてよいのか。

    そうした疑念が、音もなく広がっていきました。

    ロンドンやフランクフルトのトレーディングルームでは、
    ギリシャ国債の利回りがじわりと上がっていきます。
    格付けが引き下げられ、それに伴って利回りはさらに上昇していく。

    政府は財政健全化計画を打ち出しましたが、市場は冷静でした。
    そして、冷静であるがゆえに冷酷でもありました。

    国債とは、国家の約束です。
    しかし、その約束を支えているのは帳簿だけではありません。

    支えているのは、信用です。

    嘘があった。
    少なくとも、市場はそう受け取りました。
    その瞬間から、疑念は価格になります。

    金利が上がり、
    利払いが増え、
    財政はさらに圧迫される。

    金利上昇が不安を生み、
    その不安がまた金利を押し上げる。
    そうした連鎖が生まれていきました。

    破綻は、ある日突然やってきたわけではありません。

    信用が少しずつ削られ、
    削られたその分が、金利というかたちで姿を現したにすぎないのです。

    嘘は、ただちに国を倒すわけではありません。
    けれども、
    確実に信用を削ります。

    そして信用が削られれば、数字はもはや味方ではなくなっていきます。


    豊川信用金庫 ― 噂が現実を動かしたとき

    次の舞台は昭和の日本です。
    始まりは、列車の中で交わされた何気ない冗談でした。

    「信用金庫は危ないよ」

    就職活動中の友達をからかって
    信用金庫は強盗が入るかもしれないから。
    という話のたったひと言です。
    けれども、その言葉を耳にした女子高生は不安になり、親戚に尋ねます。

    親戚は具体名を聞いていないにもかかわらず、
    なぜか豊川信用金庫のことだと思い込みます。

    親戚から始まり電話が回ります。

    「危ないの?」が
    「危ないらしい」になり、やがて
    「危ない」へと変わっていく。

    町の主婦たちのあいだで話題になり、
    通りがかりの人の耳にも入り、
    言葉は少しずつ断定の響きを帯びていきました。

    女子高校の会話から6日目
    ある店で「120万円※おろせ」という電話が聞こえます。
    それは、ただの支払い指示でした。

    ※当時の120万円は今の感覚だと600万円弱位です(物価換算)

    けれども、それを聞いた人はこう解釈します。
    「やっぱり危ないから引き出しているのだ」

    そう思った人が自分も引き出し、
    それを見た人もまた列に加わる。
    不安は、目に見えるかたちをとり始めました。

    タクシー運転手の証言が象徴的です。

    昼は「危ないらしい」
    午後は「危ない」
    夕方は「潰れる」
    夜には「明日はシャッターが上がらない」

    言葉は、時間とともに強さを増していきます。

    信用金庫には、実質的な経営問題はありませんでした。
    ただ、銀行は預金を全額そのまま置いているわけではありません。

    取り付けが起きれば、本当に危うくなります。

    そこで日銀が現金を山のように積み上げ、
    目に見えるかたちで信用を示しました。

    ようやく空気が変わります。

    ここにあったのは、嘘ではありませんでした。
    あったのは噂だけです。

    けれども噂は、
    本物の預金を動かし、
    本物の行列をつくり、
    本物の危機を呼び寄せかけました。


    似ていること、似ていないこと

    ギリシャは嘘から始まりました。
    豊川は噂から始まりました。

    ギリシャには構造的な財政問題がありました。
    一方で、豊川には実質的な経営問題はありませんでした。

    けれども、両者には共通するものがあります。

    信用が揺らいだその瞬間から、数字が動くということです。
    そして数字が動けば、現実もまた動きます。

    嘘は信用を削ります。
    噂もまた、信用を削ります。

    市場は、真実かどうかそれ自体よりも、
    「信じられているかどうか」を先に織り込むことがあるのです。


    日本の1,100兆円は何で支えられているのか

    では、日本はどうでしょうか。

    いまのところ、日本国債は淡々と回っています。
    制度も市場も機能しています。

    ただ、国債は単なる借金の総額ではありません。
    それは、この国が積み重ねてきた信用の総量でもあります。

    信用は、静かに蓄積されます。
    そしてまた、静かに削られていきます。

    嘘を重ねれば削られる。
    噂が広がれば揺らぐ。
    制度の予測可能性が失われれば、それは価格となって現れます。

    経済は冷たい数字の世界に見えて、
    実のところ、とても人間的です。

    言葉が金利になり、
    疑念が利回りになるのです。

    1,100兆円を支えているのは、
    税でも日銀でもなく、
    「この国は約束を守る」という、目に見えない信用の連鎖です。

    だから問うべきなのは、単純な破綻論ではありません。

    この国は、
    嘘を積み上げていないか。
    噂に負けない制度を持っているか。
    信用を削らない運営をしているか。

    国債とは、国家の財務表であると同時に、
    社会の信用残高そのものでもあるのです。


    最後に

    日本国債残高1,100兆円は、
    過去に積み重ねてきた信用の量だともいえます。

    もちろん、総額は現実です。
    向き合わなくてよい数字ではありません。

    けれど同時に、それは
    「この国は約束を守る」と信じられてきた結果でもあります。

    強い言葉は、人の心を動かします。
    不安や怒りは、広がりやすいものです。

    しかし、刺激は信用を育てません。

    1,100兆円という数字は、
    重さであると同時に、積み重ねでもあります。

    私たちは、その両方を見ているでしょうか。

  • 補論 :自己更新と外的再編の分岐


    ― 明治維新と韓国併合と
          GHQ占領政策をめぐって ―

    Ⅰ この補論で見たいこと

    本稿では、イランの歴史と現在を通じて、「どのような変化が起きるのか」とともに、「その変化を誰の手で始めるのか」という問題を見てきた。

    この視点を日本近代へ移すと、同じ制度改革や近代化という言葉の中にも、異なる構造が見えてくる。

    ここで取り上げるのは、明治維新、韓国併合、そして敗戦後のGHQ占領政策である。

    三つはいずれも、社会の制度や国家のあり方が大きく組み替えられた時代だった。しかし、誰が変化を選び、誰がその痛みを引き受け、誰の言葉で新しい秩序を正当化したのかという点では、大きく異なっている。

    ここで行うのは、どれが善でどれが悪かを裁定する作業よりも、その変化を誰が選び、誰の名において進めたのかという、制度の背後にある「主語」(注A)の位置を確かめる作業である。

    同じ制度が導入されても、自ら選んだ変化と、外から与えられた変化では、その後に残る記憶も違ってくる。

    制度そのものは時間とともに変わる。しかし、誰の手で変わったのかという感覚は、その制度より長く社会に残ることがある。

    その違いを、三つの事例から見ていく。

    Ⅱ 明治維新――外圧下における自己更新

    幕末、日本の周辺では欧米列強の活動が急速に広がっていた。海の向こうの出来事だった国際秩序が、日本の沿岸と外交に直接入り込み、従来の統治や海防のままで国家の進路を保てるのかが問われるようになった。

    この外圧は、日本社会に自らを組み替える必要を強く意識させる契機となった。外国の影響がさらに深まり、自分たちで進路を決められる余地が狭まる前に、自分たちの手で国家を組み替える。その意識が、幕末から維新へ向かう大きな流れを支えていた。

    開国の過程では、不平等条約(注1)という新たな外部制約も生まれた。領事裁判権や関税をめぐる制約は明治に入っても続き、その改正は国家再編を進めるうえで長期的な課題となった。外圧を受けて始まった自己更新は、その過程で生まれた新しい制約も抱えながら進んでいった。

    外国との貿易や資金の流れも広がっていった。だが、それらをどう扱うかを決めていたのは国内の側だった。外国との関係もまた、自分たちが国家をどう組み替えるかという目的に沿って使われ、調整されていた。何を採り、どのような国家をつくるのかを決める主語は、国内に置かれていた。

    幕末の主要な政治勢力の多くは、何らかの形で日本を組み替える必要を認め、実際にその方向へ動いていた。そこで争われたのは、自己更新の内容と、その担い手である。幕府を軸に秩序を組み替えるのか、新しい政治体制をつくるのか。外国との関係をどのように築き、誰が国家を代表するのか。こうした違いが政治対立を深め、やがて内戦にまで至った。

    この対立そのものが、次の秩序を誰が、どのような形で担うのかを日本社会の内部で争った過程でもあった。自己更新という大きな方向の中で、その内容と担い手をめぐる選択が行われていたのである。

    維新後には、西洋由来の制度や技術が次々と導入された。軍制、教育、法制度、行政制度など、多くの仕組みが外国を参照しながら組み立てられていった。それらをどこまで採用し、どのように日本の国家制度へ組み込むのかを決めたのは、新しく成立した日本の政府だった。制度の由来が外にあったとしても、再編の主語そのものは日本側に置かれていた。

    その違いは、制度変更に伴う負担の受け止め方にも表れる。身分秩序の再編、徴兵、税制の変更、生活習慣の変化は、人びとに大きな負担を求め、その変化によって失われたものも多かった。

    負担への反発は生まれたが、それは自分たちの国家をどう運営するのかという内側の争いとして表に出た。不満はまず政府の政策や制度、その進め方へ向かい、外国との間に生じた問題は、国家が外交上の要求として外へ向けていく形を取った。

    自己更新の痛みは、社会の内側に政治的な不満や対立を生みながら、その社会自身が国家の進路を選び直す過程の一部として引き受けられていった。

    人は、自分で引き受けた痛みと、外から押しつけられた痛みを同じようには記憶しない。

    明治維新は、外圧の中で変化を迫られながら、その変化の主語を自らの側に保った自己更新として捉えることができる。

    Ⅲ 韓国併合――自己更新の場を奪う外的再編

    同じ近代化という言葉でも、変化の主語が外へ移ると、その意味は大きく変わる。

    朝鮮社会の内部にも、自らの手で国家のあり方を組み替えようとする動きは存在していた。同時に、何を変え、何を残し、外国とどう向き合うのかをめぐって、複数の方向が併存していた。自己更新を求める動き(注2)も、その中の一つとして存在していた。

    その動きが社会全体を主導するところまで広がっていたかどうか以上に、ここでは、自己更新を求める動きが朝鮮社会の内部から生まれていたことが重要になる。自らの手で国のあり方を変えようとする人びとは、すでに存在していた。だからこそ、その後に国家の進路を決める場を失ったことは、自分たちで変わる可能性まで奪われた経験として記憶に残りやすくなる。

    1905年に外交権を失い、1910年に併合(注3)へ至る過程で、朝鮮社会が自ら国家の進路を決める余地は段階的に狭められていった。日本による保護国化と併合は、朝鮮社会が内部で方向を選び、試し、次の秩序を形づくる自己更新の場そのものを奪っていった。

    ここで重要になるのは、何が導入されたのかという制度の一覧よりも、誰が次の秩序を語ったのかという問題である。

    統治制度が整えられ、社会の仕組みが変わっていくとしても、その方向を決める主語が外部に置かれれば、変化に伴う痛みの意味も変わる。制度への不満と、制度を持ち込んだ外部への反発が重なり、自分たちの社会を自分たちで決めるという要求そのものが政治的な意味を持つようになる。

    国家として主語を行使する場を失った後も、自らの社会を自らの言葉で語ろうとする要求は残り続けた。1919年(注4)には、その要求が大規模な独立運動として現れた。併合によって場は奪われても、主語を取り戻そうとする要求は社会の中に残った。

    この傷は数字では測れない。むしろ、こうした種類の傷の方が、制度の寿命より長く残る。

    韓国併合をこの視点から見ると、近代化の成否や、個々の制度の評価とは別の輪郭が見えてくる。社会自身が次の秩序を選ぶ場を失い、外部の国家がその主語を引き受けた。

    そこに残ったのは、主語を奪われた外的再編としての記憶である。

    Ⅳ 敗戦とGHQ占領――一部を切り離す再出発

    1945年、日本は敗戦によって、それまでの国家の前提を大きく失った。軍事的な敗北に加え、国土の破壊、海外領土の喪失、占領という現実が重なり、従来の国家像そのものが組み替えられた。

    GHQによる占領(注5)のもとでは、憲法、軍事、教育、労働、農地など、広い領域で改革が進められた。制度再編の枠組みには、占領側の意思が強く反映されていた。

    その中で、戦後日本の自己像を形づくるうえで大きな意味を持ったのが、戦前・戦中の日本から軍と戦争指導部を切り分ける整理だった。

    この整理には、占領側が先に用意した枠が大きく作用した。占領政策と戦後処理は、責任の中心を軍と戦争指導部へ集め、そこを戦後の日本から切り分けて再出発する枠を形づくった。日本社会はその枠に乗り、それを自らの戦後の自己像へ取り込んでいった。

    「軍が日本を誤らせた」(注B)という理解は、この過程の中で広く受け入れられた。

    この整理によって、戦争へ進んだ国家と、敗戦後に再出発する日本との間に境界を置くことができた。軍を切り離された部分として置くことで、日本社会そのもの、日本文化そのもの、日本という共同体全体を戦前の国家とともに切断する必要は薄くなった。

    外から用意された枠を内側へ取り込むことで、「軍を切り離しながら日本全体の連続性を保つ」という自己定義が成立していった。

    ここには、明治維新とも韓国併合とも異なる変化の形がある。外部から大きな再編を受けながら、その再編の枠を使って、自らの連続性を組み直していく形である。

    Ⅴ 外から入った価値が、内側の価値になるとき

    占領期に導入された制度や価値の中には、その後、日本社会の内部で意味を変えながら定着していったものがある。

    その一つが、戦後の平和主義(注C)である。

    敗戦直後の制度設計には、占領側の意思が強く反映されていた。一方で、戦争と空襲、徴兵、家族の死、生活の破壊を経験した日本社会の側にも、再び同じ破局へ戻りたくないという感覚が広く存在していた。

    占領期に制度として与えられた平和主義は、こうした社会の経験と重なることで、日本社会の内部でも受け入れられていった。

    時間がたつにつれて、それは占領期に導入された制度という位置を越え、戦後を生きる価値として定着していく。次の世代にとっては、敗戦直後の占領政策そのものよりも、戦後日本のあり方を形づくる一つの前提として受け取られるようになった。

    ここでは、変化の主語そのものが時間とともに移っている。

    出発点では外部が大きな枠を作った。その後、日本社会がその枠を受け入れ、自らの経験と結びつけ、さらに自分たちの価値として引き受け直していった。

    外から入った価値が、内側で意味づけ直され、その社会自身の価値へ変わっていく。

    Ⅵ 破局の深さが自己定義の形を決めた

    戦後日本が大きな再定義を必要とした背景には、従来の自己像そのものを組み替えるほどの破局の深さがあった。

    戦争は国家の軍事力だけを傷つけたわけではない。都市は焼かれ、多くの人びとが命を失い、海外に広げた領域も失われた。それまで国家が語ってきた物語と、敗戦後に人びとが目にした現実との間には、大きな断絶が生まれた。

    その状況で、戦前から続くすべてを同じ重さで引き受ければ、戦後の日本社会は自らの連続性まで問い直すことになる。

    そこで、戦争へ進んだ責任を軍と戦争指導部へ集め、そこを切り離す枠が強い意味を持った。占領側が用意したその枠は、日本社会にとっても、敗戦の破局を受け止めながら自分たちの社会を再び始めるための説明として機能し、戦後の自己像はこの切り分けの上に作られていった。

    同時に、その再出発を支えた制度の一部は占領期に作られ、その後も日本社会の内側へ残った。外部との関係を自己定義の内側に含む構造は、戦後日本の国家観や安全保障をめぐる議論にも続いている。

    その象徴の一つが、憲法上の位置づけと現実の防衛力との間で議論が続いてきた自衛隊(注6)である。

    敗戦という破局の深さは、外的再編を受け入れる条件を生み、その枠を内側へ取り込みながら再出発する戦後日本の自己定義を形づくった。

    その始まり方そのものが、現代まで続く自己定義の枠組みを作ったのである。

    Ⅶ 三つの変化が残した「感覚の遺産」(注D)

    ここまでの三つの事例には、それぞれ異なる変化の主語があった。

    明治維新では、外圧が強まる中でも、何を変え、誰が国家を組み替えるのかを争う場が国内に残った。制度の多くを外国から学びながら、その選択を自らの国家再編として引き受けた。

    韓国併合では、朝鮮社会の内部に自己更新を求める動きが存在する中で、自ら国家の進路を決める場が段階的に失われた。変化の主語が外部へ移り、自らの未来を決める場を奪われたという感覚が残った。

    敗戦後の日本では、占領側が大きな再編の枠を用意し、日本社会がその枠に乗りながら、一部を切り離すことで全体の連続性を保った。さらに、外から入った制度や価値の一部を、時間をかけて自らの価値として取り込み直していった。

    この違いは、制度史だけを見ていると捉えにくい。

    残るのは、制度そのものとともに、その制度をどのような経験として受け取ったのかという感覚である。

    自分たちで変えたという感覚。

    自分たちで変える場を奪われたという感覚。

    外から変えられながら、その変化を自分たちのものとして引き受け直したという感覚。

    こうした感覚の遺産は、制度が変わった後にも残り、その後の社会が外国からの圧力や制度変更をどう受け止めるのかにも影響する。

    歴史の記憶は、出来事を保存するだけでは終わらない。

    その社会が次の変化に直面したとき、「これは自分たちの選択なのか」「また外から決められるのか」という感覚として現れる。

    Ⅷ この補論がイランの考察へ戻っていく場所

    ここで、話は再びイランに戻る。

    日本近代の三つの事例から見えてくるのは、外圧の強さとともに、その社会が次の秩序を語る主語をどこに置いたかという違いである。

    イランでも、外圧が体制を大きく揺さぶるほど、その先の秩序を誰の言葉で形づくるのかが重要になる。制度の空白が生まれた後、その未来を誰が語り、誰が痛みを引き受け、誰が社会の選択として認めるのか。

    その主語が社会の内側に残るとき、変化は自己更新として引き受けられる余地を持つ。外部がその場まで握れば、変化は外的再編として経験されやすくなる。

    そして、外部から始まった変化であっても、その後に社会自身が意味づけ直し、自らの価値として引き受けていく場合もある。

    Ⅸ 結語―変化の中身ではなく、変化の主語が歴史の質を決める

    社会は、外部との接触を避けて存在することはできない。

    外国から制度を学ぶこともある。外圧によって改革を急ぐこともある。敗北や占領によって、自らの制度を大きく組み替えられることもある。

    そのとき重要になるのが、変化の主語である。

    明治維新では、外圧の中で自己更新を選び、その内容と担い手を国内で争った。

    韓国併合では、朝鮮社会が自ら進路を選ぶ場そのものが外部の力によって奪われた。

    敗戦後の日本では、外部が用意した再編の枠に乗り、一部を切り離すことで全体を保ち、その枠の一部を自らの価値として引き受け直していった。

    三つの事例で導入された制度の中には、外から来たものが数多くある。

    しかし、その制度を誰が選び、誰が痛みを引き受け、誰の言葉で次の秩序として語ったのかによって、社会に残る記憶は変わった。

    変化の中身だけを見れば、近代化、制度改革、民主化、占領政策という言葉で整理できる。

    そこに主語を置くと、別の歴史が見えてくる。

    どの社会が、自らの未来を自らの言葉で語る主語でいられたのか。

    どの社会が、その場を奪われたのか。

    そして、外から与えられた変化を、どの社会が後から自らのものとして引き受け直したのか。

    変化の中身とともに、変化の主語を見る。

    そこに、同じ制度変更が自己更新にも外的再編にもなりうる分岐がある。


    注釈一覧

    (注1)

    不平等条約 幕末に結ばれた通商条約では、外国人の裁判を領事に委ねる領事裁判権や、日本側が関税率を自由に決めにくい仕組みが置かれた。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、その後の明治外交における長期的な課題となった。

    (注2)

    自己更新を求める動き 19世紀末から20世紀初頭の朝鮮では、甲午改革、独立協会、大韓帝国期の光武改革など、国家制度や対外関係を組み替えようとする複数の動きが現れた。担い手や目指す方向は異なり、複数の改革構想が並行し、競合していた。

    (注3)

    1905年に外交権を失い、1910年に併合 1905年の第二次日韓協約によって韓国の外交権は日本の管理下に置かれ、統監府が設置された。その後、日本の関与は内政にも広がり、1910年の日韓併合条約によって韓国は日本の統治下に入った。

    (注4)

    1919年 1919年3月1日に始まった三・一独立運動では、独立宣言を契機として各地に独立を求める運動が広がった。日本統治下の朝鮮社会で、独立要求が大規模に表面化した出来事の一つである。

    (注5)

    GHQによる占領 GHQは、連合国軍最高司令官総司令部を指す。1945年から1952年までの占領期、日本政府を通じた間接統治を基本としながら、政治・社会制度の広い範囲に改革を求めた。

    (注6)

    自衛隊 自衛隊は1954年に発足した。政府は、憲法9条の下でも自衛のための必要最小限度の実力を保持できるという解釈を取ってきたが、その範囲や憲法との関係をめぐる議論は長く続いている。

    (注A)

    主語 ここでいう「主語」は、社会の変化について誰が選択し、誰が正当化し、誰がその結果を引き受けるのかという、行為主体の位置を指している。政治思想における自己決定や、社会科学で用いられるエージェンシー(行為主体性)と接点を持つが、本稿では特定の理論をそのまま当てはめるためではなく、異なる歴史的変化を比較するための視点として用いている。

    (注B)

    「軍が日本を誤らせた」 占領期の戦争責任処理では、戦争指導者の訴追、公職追放、軍の解体や戦時統制の見直しなどが進められ、戦前の戦争指導と戦後日本を切り分ける枠組みが形成された。この枠組みは、軍や戦争指導部を戦争への主要な責任主体として捉える戦後の自己理解とも結びついた。戦争責任をめぐる歴史研究では、責任をどの範囲まで捉えるのかという問題とともに、政府、官僚、経済界、メディア、社会の動員なども含め、より広い範囲の主体が検討されている。

    (注C)

    平和主義 戦後日本の平和主義をめぐっては、憲法9条をはじめとする占領期の制度設計と、戦争体験やその後の反戦・反核運動を通じて日本社会の内部に定着していった価値の双方が論じられてきた。本稿の「外から入った価値が、内側の価値になる」という見方は、制度の起点と、その後の社会的な受容を時間の流れの中で分けて見る点で、この議論と接点を持っている。

    (注D)

    感覚の遺産 社会が過去をどのように記憶するかについては、モーリス・アルヴァックスの集合的記憶論以降、記憶が個人の内面だけで完結せず、家族、共同体、教育、儀礼、制度などを通じて形づくられることが論じられてきた。本稿の「感覚の遺産」は、過去の出来事がどのような経験として受け継がれ、その後の社会が新しい変化を受け止める際の前提となるのかを見る点で、この議論と接点を持つ。

    1.参考資料

    1. 外務省外交史料館「外交史料館 明治150年記念展示 条約書にみる明治の日本外交」(2018年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001357.html

    1. 国立公文書館「明治38年(1905)11月|第2次日韓協約が結ばれる:日本のあゆみ」(1905年、国立公文書館)

    URL:https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m38_1905_03.html

    1. 国立公文書館「明治43年(1910)8月|韓国併合条約が結ばれる:日本のあゆみ」(1910年、国立公文書館)

    URL:https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m43_1910_01.html

    1. アジア歴史資料センター「「三・一運動」と朝鮮総督府」(2021年、『アジ歴ニューズレター第33号』)

    URL:https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_033j/newsletter_today_033j.html

    1. 国立国会図書館「Records of General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP」(2022年、国立国会図書館リサーチ・ナビ)

    URL:https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/GHQ

    1. 国立国会図書館「GHQ草案 1946年2月13日|日本国憲法の誕生」(1946年、国立国会図書館)

    URL:https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

    1. 防衛省「令和7年版防衛白書|2 憲法第9条の趣旨についての政府見解」(2025年、防衛省)

    URL:https://www.mod.go.jp/j/press/wp/wp2025/html/n210202000.html

    1. 古波藏香「生成され続ける集合的記憶―M. アルヴァックスの“collectif”概念に着目して―」(2023年、『教育学研究』90巻4号)

    URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/90/4/90_563/_article/-char/ja

    2.深掘りするための一般書

    1. 井上勝生『幕末・維新』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004310426

    1. 趙景達『近代朝鮮と日本』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004313977

    1. 雨宮昭一『占領と改革』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004310488

    1. 成田龍一『増補 「戦争経験」の戦後史 語られた体験/証言/記憶』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784006004231

  • 日本人から見たイランー変化の中身ではなく、変化の主語を問うー

    Ⅰ.「宗教か世俗か」では捉えきれないもの

    イラン情勢は、宗教、独裁、デモ、アメリカ、イスラエルといった強い言葉で語られやすい。そのため議論もつい、「宗教か世俗か」「親米か反米か」「民主化か独裁か」といった分かりやすい対立に整理されがちである。

    もちろん、そうした軸も重要であり、政治の構図を捉える手がかりになる。その奥には、人びとが長い時間をかけて積み重ねてきた感覚の層がある。

    本稿で人文科学的視点を重視するのは、歴史を制度や事件の断片としてではなく、その社会を生きる人びとが積み重ねてきた長い物語として読むためである。政権が変わり、制度が変わり、登場人物が入れ替わっても、人びとは同じ社会が積み重ねてきた物語の続きを生きている。社会の深い部分にある記憶(注A)、価値観、信仰、誇り、屈辱の感覚が人びとの中に沈殿し続けるからこそ、歴史は断絶と連続の両方から読むことができる。

    ページは変わる。だが、人びとが何を侮辱と感じ、何を正統と感じ、何を守ろうとするのかという深い部分は、長い時間を通じて持続する。この視点を入れることで、革命、反発、制度の硬直、外圧への拒絶は、ばらばらの事件ではなく、人びとが生きてきた同じ歴史の別の場面として読み直すことができる。この視点が弱いと、歴史は点の集まりに崩れ、制度だけが動くか、感情だけが騒ぐかのどちらかに傾きやすい。

    イランを考えるうえでは、何を選ぶかと同時に、その変化を誰の手で選ぶのかが重要になる。この問いを置くことで、イラン革命も、現在の抗議も、体制への反発も、一つの歴史の流れとして見えてくる。本稿では、イランをめぐる問題を、宗教と世俗、西洋化と反西洋化といった対立軸を越えて、主体性と正統性(注B)の問題として考えてみたい。そこに見えてくるのは、制度の中身以上に、変化の主語そのもの(注C)が問われているという構図である。


    Ⅱ.1979年革命が拒絶したもの

    1979年のイラン革命は、しばしば「反西洋」や「近代化への反動」として語られてきた。しかし、その見方だけでは革命に集まった不満の広がりを捉えきれない。

    革命前のパフラヴィー体制(注1)は、アメリカを中心とする西側諸国との関係を深めながら、国家主導で急速な近代化を進めていた。経済、教育、産業、生活のあり方まで大きく組み替えられ、その変化は都市化や産業化を進める一方で、イラン社会が長い時間をかけて育んできた価値の配置や生活の感覚との摩擦も生んだ。さらに、アメリカとの強い結びつきは、自分たちの国がどこへ向かうのかという大きな選択が、人びとの生活や言葉から離れたところで決められているという感覚を強めていった。

    人びとの反発は、まず近代化の内容に向かった。しかしその根底には、自分たちの社会がどのように変わるのか、その方向を誰が決めるのかという問題があった。急速な変化によって生活の形が組み替えられるなかで、社会の主導権そのものが問われるようになったのである。そこから、自分たちの歴史、自分たちの言葉、自分たちの価値の配置の中から、次の秩序を選び直そうとする動きが広がっていった。

    だからこそ、革命には様々な立場の人たちが参加した。宗教勢力に加え、自由主義者、民族主義者、左派、学生、商人など、それぞれ異なる思想や利害を持つ人びとが王政に反発していた。その先に思い描く国家の姿には大きな違いがあったが、自分たちの国のあり方を自分たちの手に取り戻したいという要求が、異なる勢力を一つの革命へ集める力になった。

    革命が成功すると、問いは次の段階へ移った。取り戻した「自分たち」という主語を、誰が代表するのかという問題である。革命後の政治過程では宗教政治勢力が次第に主導権を握り、憲法制定を通じて宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み(注2)が制度化された。宗教法学者が国家統治の中心に立つこの仕組みは、シーア派の長い歴史の中でも大きな転換を伴う、新しい統治の設計だった。革命後に創設された革命防衛隊(注3)も、新しい体制を守る組織として力を持つようになった。

    こうして、外部との関係のなかで失われたと感じられていた主導権を取り戻す運動は、革命後には、誰が「イラン」を語り、誰が「革命」を語り、誰が「国民」を代表するのかという国内の問題へ移っていった。革命が取り戻そうとした「自分たち」という主語が、誰の手に集まり、どのような形で社会全体を代表するようになったのかという問いは、その後のイスラム共和国の統治と、現在の反発を考えるうえでも重要になる。


    Ⅲ.生活に染み込んだシーア派と、国家による「正しい形」

    この構図は、現在のイラン国内で噴き出している不満や抗議にも通じている。今日の反発を単純に「宗教が嫌だ」という話として理解すると、本質を外す。

    人びとの反発が強く向かっているのは、国家が唯一の正解として固定し、上から塗り固めた価値体系の方ではないか。問題の中心には、宗教そのものよりも、宗教が統治技術として硬化したことがある。

    シーア派は、人びとの生活に深く溶け込んできた。それは共同体の記憶、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた、生きられた文化の一部(注D)でもある。人びとの暮らしの中に浸透し、心の芯に触れるような層を持っている。そこでは宗教は、生活と不可分な精神の織物として人びとの日常に存在してきた。

    この点は、日本人にもある程度感覚的に理解しやすいかもしれない。日本における神社や祭礼、祖先観、年中行事の多くは、厳格な教義として信じられる以前に、生活の一部として息づいている。それは思想として切り分けられる前に、暮らしの中に編み込まれている。

    イランにおけるシーア派にも、そうした生活に染み込んだ文明的基盤としての側面がある。だからこそ、それが国家によって「正しい形」に固定され、統治の道具として管理されたとき、人びとは政治的な息苦しさに加えて、自分たちの生活世界(注E)そのものを奪われる感覚を抱く。ここに、現在の反発の深い根があるように思える。

    この問題を「宗教と世俗の対立」として処理すると、かなり見誤る。焦点は宗教の有無よりも、生活に根ざしていた価値の体系が、国家によって独占的に定義され管理されることへの拒否にある。イランで起きていることは、他者によって固定された生き方への拒否として捉えることで、その深い部分が見えてくる。


    Ⅳ.国家の変化は「発展段階」ではなく「自己更新の様式」である

    この視点から見ると、イランの問題は「西洋化するか否か」という問いを越えて広がっている。問われているのは、外部との接触の中で、自らの文明的連続性を保ちながら、次の秩序を誰の手で選び直すのかという点である。

    西洋文明を上位に置き、地域文明がそこへ追いつくという構図(注F)よりも、どの社会にも固有の歴史の厚みと価値の配置があり、それをどう再編するかという視点の方が重要になる。

    その意味で、国家の変化は「成長の段階」よりも、自己更新の様式として見る方がいい。社会は、それぞれ異なる歴史の上で、外圧や技術や市場や軍事環境の変化に応じながら、自らの過去との連続性を保ちつつ、自らを組み替えていく。そこでは、何を採用したか以上に、誰の言葉で採用したかが決定的になる。

    特にイランやシーア派においてこの感覚が強く見えるのは、長い歴史と、イスラーム世界の中で少数派であり続けてきたシーア派としての記憶と、外部世界との深い接触が重なっているからだろう。外と関わり続けてきた社会は、傷も多くなるが、自画像もまた濃くなる。自分たちは何者かという問いを、他者と向き合うたびに更新してきたからである。

    だからこそ、未来の内容そのもの以上に、その未来を誰の手で始めるのかという問題が重くなる。


    Ⅴ.生活と身体から「誰が決めるのか」という問いへ

    デモや革命の核心も、おそらくここにある。人びとは最初から、自分たちの怒りの核心を明瞭に言葉にしているわけではない。多くの場合、先にあるのは息苦しさや屈辱や違和感であり、その正体はあとからようやく言葉になる。

    生活の苦しさも、その一つである。物価が上がり、通貨の価値が落ち、仕事や将来への不安が続けば、人びとはまず目の前の生活に苦しむ。その生活苦には、国内の政策や資源配分とともに、長年にわたるアメリカを中心とした経済制裁も重なってきた。金融取引や石油輸出などへの制約は外貨の獲得や通貨の価値に影響し、輸入品の価格や物価を通じて人びとの日常生活にまで及ぶ。その一方で、体制が選んできた対外政策や国内の資源配分も、生活の条件を左右してきた。外から加えられる圧力と国内で積み重ねられた選択が、同じ物価高や通貨安の中で重なって現れるのである。

    その状態が長く続くにつれて、問いは生活の結果から、その生活を生み出している社会のあり方へ向かっていく。なぜ自分たちはこのような生活をしているのか。この苦しさは外国から加えられたものなのか、それとも体制が選んできた政策から生まれたものなのか。この国は何を優先し、その負担を誰が引き受けているのか。苦しさの原因を誰に求めるのかという判断そのものが、社会のあり方を誰の言葉で理解するのかという問題につながっていく。

    ここで、1979年革命から積み重なってきた時間も別の意味を持ち始める。革命後、革命を守るために生まれた革命防衛隊は、イラン・イラク戦争(注4)後の復興事業を足場として経済活動を広げ、その建設部門であるハタム・アル・アンビヤ建設司令部(注5)は、建設やエネルギーなどの大規模事業を担う巨大な経済主体へ成長した。また、革命後に接収された資産などを基礎に拡大したボンヤド(注6)と呼ばれる財団群も、革命や宗教の大義と最高指導者の権威を背景に多くの企業を抱え、国家の経済資源の配分に大きな影響力を持つようになった。

    1979年には、自分たちの国を自分たちの手に取り戻すという要求が、多くの人びとを革命へ向かわせた。しかし四十年以上が過ぎるなかで、その革命を守り、革命後の再分配を担った組織が、経済の中枢にも位置するようになった。生活が苦しくなるほど、人びとの目には革命の意味も違った色で映り始める。自分たちが取り戻したはずの国家で、誰が資源を配り、誰が利益を受け、誰が負担を引き受けているのか。こうして生活苦は、「この国家は誰のために動いているのか」を人びとに意識させるようになる。

    2025年末に広がった抗議も、通貨の下落や物価高など生活に直接かかわる不満から始まった。その後、抗議は各地へ広がり、体制そのものへの批判を含む動きへ発展した。これに対して体制側は、治安部隊による発砲や大規模な逮捕などによって抗議を抑え込み、インターネットも広範に遮断した。生活の苦しさから始まった抗議は、やがて国のあり方や、人びとの異議をどう扱うのかを争う動きへ変わっていった。

    これとは異なる形で、2022年には、女性の服装規制をめぐる問題から大きな抗議が広がった。そこには服装の自由への要求とともに、国家が個人の身体や生活の細部にまで、宗教的に「正しい」と定めた形を求めることへの拒否も含まれていたように見える。信仰は人びとの暮らしの中に長く存在してきた。しかし、その信仰をどのように表すべきかまで国家が一つの形に固定すれば、問いは宗教の有無から、宗教を誰が定義するのかへ移っていく。なぜ身体の見え方の細部にまで、国家が正解を定めなければならないのか。服装をめぐる規制は、その問いがもっとも身近な身体の上に現れたものでもある。

    生活苦と服装規制は、表面上はまったく異なる問題である。一方では、制裁と国内の政策や資源配分が重なって日々の生活に及び、もう一方では国家による宗教の定義が身体の見え方の細部にまで及ぶ。二つに共通するのは、自分たちの生活を誰が決め、自分たちの生き方を誰が定義するのかという問題である。

    実際の抗議には、経済への不満、汚職への怒り、女性の権利、宗教強制への反発など、様々な要求がある。参加する人びとの立場も、望んでいる将来も一つではない。それでも、それぞれの苦しさや違和感を振り返っていくなかで、これ以上、自分たちの生を他者に定義されたくないという感覚が姿を現すことがある。

    人間は、自分の怒りの本質を最初から完全には理解していない。社会もまた同じである。生活や身体に現れた個々の不満が積み重なり、それまで当然のものとして背景に退いていた国家と人びとの関係が問い直される。そのとき初めて、「自分たちはこの社会の主語なのか」という問いが言葉を持ち始める。イランの抗議行動には、その流れが繰り返し現れているように思える。


    Ⅵ.外圧は空白を作れても、正統性までは作れない

    抗議とその抑え込みによって国内が揺れるなか、2026年、この問題は仮定ではなく現実のものになった。核開発や対イスラエル政策をめぐる対立を背景に、2月末からアメリカとイスラエルによる軍事攻撃が始まり、最高指導者アリー・ハメネイ(注7)も死亡した。外部から加えられた力は、イランの軍事力や体制中枢そのものを大きく揺さぶるところまで進んだ。

    それに対して体制側が選んだのは、強い連続性だった。攻撃開始から約一週間後、後継の最高指導者には息子のモジュタバ・ハメネイ(注8)が選ばれた。革命防衛隊をはじめとする既存の体制を支える組織も、大きな役割を担い続けている。制度上は世襲制ではないが、父から息子への継承は強い世襲色を帯びており、外から体制そのものを揺さぶられた局面で、既存秩序を維持する意思を強く示すものとなった。

    ここで、イランの人びとは難しい位置に置かれることになる。外部からは、軍事力によって現在の体制を変える力が加えられる。一方、国内では、その外圧に対抗するかたちで体制の維持が優先される。その二つの大きな力が向き合うほど、本来その先の社会を生きる人びと自身が、次のイランをどうするのかを選ぶ場面は後ろへ押しやられていく。

    外から体制を壊すことと、イラン社会が新しい秩序を自ら選ぶことは同じではない。同時に、「外国から国を守る」という理由によって、国内の一つの勢力が社会全体の主語を独占することも、その社会自身の選択とは区別して考える必要がある。

    ここに、外圧が持つ限界がある。軍事力は指導者を倒し、施設を破壊し、既存の秩序を弱めることができる。それでも、そのあとに何をつくるのか、誰を自分たちの代表として認めるのか、その秩序を自分たちのものとして引き受けられるのかという問題までは決められない。外圧は空白を作ることはできても、その空白を正統性で満たすことはできない。

    正統性は、その社会の内側で、その社会を生きる人びとの言葉によって作られていく。制度がどれほど合理的であっても、それが誰の顔で、誰の言葉で、誰の名において現れるのかによって、人びとの受け止め方は変わる。


    Ⅶ.結語:問うもの

    「次の時代を誰の手で始めるのか」である。

    イランが求めているものは、西洋化でも反西洋化でもないのだろう。また、単純な意味での世俗化でも、神権体制の強化でもないのだろう。

    問われているのは、自らの文明的連続性を失わずに、次の秩序を自ら選び直せるかどうかである。つまり核心にあるのは、制度の名称ではなく、変化の主語なのである。

    外から体制を変える力が加わり、内側では体制を維持する力が強まる現在だからこそ、この問いは以前よりも重くなっている。

    この社会は、次の時代を誰の手で始めるのか。

    イランをめぐる問いは、結局この一点に集約されるように思える。そしてその問いは、イランだけのものではない。外圧の中で社会を組み替えようとした多くの国や地域に通じる、人文科学的にきわめて重要な論点でもある。

    ※本稿は2026年8月時点の状況をもとにしています。


    この論点を日本近代に移すと、また別の輪郭が見えてくる。補論では、明治維新、朝鮮併合、そしてGHQ占領政策をこの視点から考える。


    注釈一覧

    (注1)

    パフラヴィー体制 1925年から1979年まで続いたイランの王政。レザー・シャーが創始し、その子モハンマド・レザー・シャーの代に革命によって終わりを迎えた。

    (注2)

    宗教法学者が国家指導の中心に立つ仕組み 1979年憲法で制度化された、イラン独自の統治の枠組み。宗教法学者による後見・統治を意味する語「ヴェラーヤテ・ファギーフ」で呼ばれ、最高指導者がこの仕組みの頂点に立つ。

    (注3)

    革命防衛隊 1979年の革命直後に、新体制を守る組織として創設された軍事組織。通常の国軍とは別に置かれ、のちに経済分野にも大きく活動を広げてきた。

    (注4)

    イラン・イラク戦争 1980年から1988年まで続いたイランとイラクの戦争。1979年の革命から間もない時期に始まり、8年間にわたって続いた。

    (注5)

    ハタム・アル・アンビヤ建設司令部 革命防衛隊の傘下にある建設部門。イラン・イラク戦争後の復興事業を足がかりに、建設やエネルギーなど幅広い分野へ事業を拡大してきた。

    (注6)

    ボンヤド 「財団」を意味する語。革命後に接収された旧体制関係者の資産などを基礎に設立され、宗教的・社会福祉的な大義を掲げながら、多様な企業や事業を抱える組織群を指す。

    (注7)

    アリー・ハメネイ 1989年から2026年までイランの最高指導者を務めた人物。ホメイニ師の後継として、革命体制の中心的な権威を担ってきた。

    (注8)

    モジュタバ・ハメネイ アリー・ハメネイの子。宗教指導者として活動し、革命防衛隊との強い関係を持つとされる。2026年3月、最高指導者を選出する専門家会議によって、父の後継となる最高指導者に選ばれた。

    (注A)

    社会の深い部分にある記憶 社会の記憶を、個人の頭の中に保存された過去としてではなく、人びとの関係や制度、儀礼、物語を通じて共有されるものとして捉える研究は、モーリス・アルヴァックスの「集合的記憶」の議論以来、社会学や歴史学で蓄積されてきた。集合的記憶は過去を保存するだけでなく、現在の社会が過去をどのように理解し、そこから自分たちをどう位置づけるかにも関わる。本稿が、誇りや屈辱、信仰、歴史の記憶を現在の政治的選択とつながるものとして見る視点も、この議論と接点を持つ。

    (注B)

    正統性 支配が強制力だけでなく、支配される側からその秩序を正当なものとして認められることによって成り立つという視点は、マックス・ヴェーバー以来、政治社会学の重要な論点であり続けている。その後も、制度が法的に成立していることと、人びとがその秩序を自らのものとして承認することは区別して論じられてきた。本稿でいう「誰の言葉で語られるか」「誰を代表として認めるか」という問いも、この正統性の問題と重なる。

    (注C)

    変化の主語 近代以降の自己決定をめぐる議論では、どのような制度を選ぶかだけでなく、その政治的決定を誰が行うのかが重要な問題とされてきた。とりわけ植民地支配からの独立や革命をめぐる議論では、外部から与えられた制度と、社会の内部から形成された政治秩序は、同じ制度内容であっても異なる意味を持つ。本稿で「変化の中身」より「変化の主語」を問うのは、この自己決定と政治的主体をめぐる問題意識と重なる。

    (注D)

    生きられた文化の一部 宗教研究では、宗教を教典や聖職者、制度だけから捉えるのではなく、人びとが日常生活のなかで実際にどのように信仰を経験し、儀礼や家族関係、身体感覚、記憶と結びつけているかを見る「生きられた宗教」という視点が発展してきた。ロバート・オーシーやメレディス・マクガイアらの研究は、この研究潮流の代表例として挙げられる。本稿でシーア派を教義だけでなく、悲しみ、儀礼、家族、時間感覚と結びついた生活文化として見る視点も、この研究と接点を持つ。

    (注E)

    生活世界 「生活世界」は、人びとが日常生活のなかで共有している常識、文化、慣習、意味のまとまりを捉えるために使われてきた概念である。ユルゲン・ハーバーマスは、人びとが共有された意味を通じて関係を築く領域として生活世界を捉え、行政や市場などのシステムの論理がそこへ過度に入り込む問題を論じた。本稿でいう、生活に根ざした信仰や価値が国家によって一つの「正しい形」に固定されることへの違和感も、制度と生活世界の関係をめぐる問題として読むことができる。

    (注F)

    地域文明がそこへ追いつくという構図 第二次世界大戦後の近代化論では、工業化や都市化、教育の普及などを通じて、諸社会が西欧型の近代へ近づいていくという見方が大きな影響力を持った。これに対し、S・N・アイゼンシュタットらの「複数近代性」は、近代化によって社会の違いが消えるのではなく、それぞれの宗教、歴史、政治文化との組み合わせによって異なる近代が形成されると考える。本稿が「何を取り入れたか」だけでなく「誰の言葉で取り入れたか」を重視する視点も、この問題意識と接点を持つ。