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  • パランティア・テクノロジーズ

    ー各国の議論から、日本の論点を整理するー

    パランティア・テクノロジーズは、しばしば「AI企業」として語られる。
    だが、その呼び方は便利であるぶん、実態を薄める。

    この会社の重心は、文章生成のような表側のAIにあるというより、
    国家や巨大組織が
    何を見て、どうつなぎ、どう判断するか
    という中枢に近い部分にある。

    実際、
    同社の2025年通期売上の54%は政府向け(注1)
    46%は民間向けであり
    今もなお政府・安全保障領域との距離が非常に近い企業である。

    したがって、この企業をめぐる議論は、単純な賛否では足りない。
    「便利だから使うべきか」
    「不気味だから避けるべきか」
    という二択は、あまりに浅い。

    問うべきなのは、
    国家の神経系に近い基盤を、どのような企業に、どの程度まで委ねてよいのか
    ということである。

    本稿では、その問いを日本の論点へ引き寄せて考えたい。


    1.米パランティア・テクノロジーズとはどんな会社なのか

    パランティアの本質は、製品名を並べることでは掴みにくい。

    この会社の中核にあるのは、
    バラバラに散らばった情報をつなぎ直し、現場の判断に使える形へ変えること
    である。

    官庁でも軍でも企業でも、大きな組織ほど情報は分断される。
    部署ごとに管理され、形式も異なり、互いに見えない。

    そうした
    断片をつなぎ
    全体像を可視化し
    優先順位を付け
    行動へ結びつける。

    パランティアが売っているのは、要するにそのための基盤である。
    政府向け売上が過半を占めることも、
    この会社が通常の業務ソフト企業とは違い、
    国家機能に近い場所で価値を持つ企業であることを示している。

    重要なのは、この企業が単なる
    「情報の保管庫」を提供しているのではない点だ。

    保管だけなら既存のシステムでもある程度は足りる。
    パランティアの特徴は、そこから一歩進んで、
    組織の見え方そのものを変えることにある。

    何が重要か、どの異常を先に捉えるか、どの情報同士を結びつけるか。
    その判断の前提に関わる。

    だからこの企業は、会計ソフトや勤怠管理ソフトの延長線上では語れない。
    問題は機能の一つではなく、判断様式の骨格に触れることにある。


    2.米パランティア・テクノロジーズと米政府の関係

    この企業を理解するうえで、米政府との距離の近さは避けて通れない。

    パランティアは、米国の情報・安全保障の世界と近い場所から成長した。
    初期にはCIA系の技術投資機関In-Q-Tel(注2)の支援を受け、
    ロイターも同社を「CIA-backed」と位置づけている。
    In-Q-Tel自身も、自らを米国と同盟国の国家安全保障ミッション
    を支える投資主体として位置づけている。

    しかもこの関係は過去形ではない。
    ロイターは2026年(注3)、パランティアのシステムが
    米軍の中核的な指揮・情報分析基盤として位置づけられ、
    戦場データの分析や標的識別などに使われていると報じた。

    ここで重要なのは、
    陰謀論を足すことではなく、
    逆に余計な装飾を削ることだ。

    この会社は、米国の国家機能、
    とりわけ情報・防衛領域の実務の中で磨かれてきた企業である。
    便利さの背景には、国家の現場がある。


    3.メリットと危機感の整理

    こうした企業が評価される理由は、実務上の利点が非常に明確だからである。

    情報が分断されたままでは、組織は遅れる。
    医療では連携が鈍り、
    防災では初動が遅れ、
    防衛では認識の遅れが危険に直結する。

    英国NHSが2023年に(注4)パランティア主導コンソーシアムへ患者データ基盤を発注し、
    公式FAQでも「散在する医療データをつなぎ、よりよい意思決定に役立てる」
    と説明しているのは、その典型である。

    現場にとって重要なのは理念より先に、
    見えないものが見えるようになることだ。

    利用者ごとに、
    アクセスできる情報の範囲を設定する。

    機密性の高い情報には、
    さらに細かな権限を設ける。

    誰が
    いつ
    どの情報にアクセスし
    どのような操作を行ったのかも記録される。

    こうした権限管理と監査について、
    パランティアは、
    顧客組織の利用者だけでなく、
    自社側の担当者によるアクセスも
    役割や承認に応じて制御する仕組みを採っていると説明している。

    サポートなどで顧客データへアクセスする場合も、
    必要な範囲と手続きの中で行われる。

    情報を結びつける能力と、
    その利用範囲を制御する能力が、
    同じ基盤の中に置かれている。

    しかし、利点が明確であることは、
    そのまま危機感の根拠にもなる。

    情報を結びつける範囲が広がれば、
    個々のデータだけでは見えなかった
    関係や傾向も把握できるようになる。

    さらに、
    その基盤を誰が設計し
    保守し
    更新していくのかという問題も残る。

    どの情報を結び、
    どのような分析や判断へつなげるかという仕組みまで、
    外部の事業者が関わる範囲は広がっていく。

    分断された情報をつなぐ基盤は、
    目的が限定されている間は便利でも、
    一度中枢に入れば、
    別の用途へ広げられる性質(注A)を持つ。

    英国でも、
    この契約をめぐって
    将来の権力濫用や国家的監視への接続を警告する声が上がった。

    問題は現在の用途だけではなく、
    将来の用途変更にどこまで耐えられるかにある。

    ここまでは、まだ論点の土台である。
    重要なのは、各国がこの危うさをどこに見ているかだ。
    その差を見ると、日本で何が争点になるのかが整理される。


    4.ヨーロッパ三国と韓国の立ち位置は何が違うのか

    同じパランティアを前にしても、各国が見ている問題は同じではない。
    違うのは、企業の性質そのものより、
    各国がどこに最も強い危機感を置くかである。


    英国で前面に出るのは、
    実務上の有用性と統治上の歯止めをどう両立させるかという問題である。

    先に触れたNHSの案件では、
    分断された医療情報をつなぎ
    現場の意思決定を速めたい
    という実務上の要請があった。

    他方で、その高い相互運用性が
    将来の権力濫用や国家的監視へ接続しうるとして、
    患者団体や法律家らの批判も強い。

    英国では、導入の是非そのものより、
    導入後にどう統治するかが争点になりやすい。


    フランスで前面に出るのは、主権の問題である。

    フランスの情報機関は
    2015年のテロを受けてパランティアを導入し、
    その後も更新を続けてきたが、
    同時に政府や企業側では
    国産代替の必要性が繰り返し語られてきた。

    必要だから使う。
    しかし、使い続ける状態そのものを理想とは見ない。

    フランスの議論が示しているのは、
    利便と依存が同時に成立しうるという事実であり、
    ここで問われているのは、
    国家の中枢機能を外国技術にどこまで預けてよいのか
    という主権の線引きである。


    ドイツでは、焦点はさらに絞られる。

    2023年、連邦憲法裁判所は
    州警察による自動データ分析の法的枠組みを違憲と判断し(注5)、
    情報自己決定権(注B)の侵害を問題にした。

    ここでは
    「役に立つか」より先に、
    「国家がそこまでしてよいのか」が問われる。

    ドイツにおけるパランティア論争は、企業評価ではなく、
    警察権力と基本権の境界をめぐる憲法問題として立ち上がった。

    要するに、ドイツが最も強く可視化しているのは、
    国家による統合と推論の強さそのものへの警戒である。


    韓国は、英国・フランス・ドイツのように
    危機感が明確に言語化された比較対象ではない。

    むしろ、そうした議論が前景化しないまま導入が進みうる点で、
    日本にとって重要な比較対象である。

    現時点で公開情報のうえで目立つのは、
    国家安全保障機関での大型導入というより、
    重工・造船を中心とした産業領域での展開(注6)である。

    少なくとも公開情報ベースでは、
    韓国で前面に出ているのは安全保障論争より産業導入である。

    だが、この点こそがむしろ重要である。

    造船、重工、通信、AI運用基盤といった領域は、
    平時には産業インフラとして語られても、
    有事には安全保障の土台(注C)へ接続しうる。

    平時に使われている
    設備
    データ
    供給網
    運用ノウハウは、

    危機時には
    防衛や国家運営にも利用される。

    同じ基盤を使う範囲が広いほど、
    産業と安全保障の境界も重なりやすくなる。

    これは公開情報からの一歩先の推論だが、韓国の事例が示しているのは、
    欧州のように危機感が可視化されたうえで争われる姿ではなく、
    十分な社会的論争が起きないまま、外部仕様が中枢へ接近しうる経路である。

    その意味で韓国は、
    「何が議論されているか」
    を見る比較対象ではなく、

    「何が議論されないまま進みうるか」
    を映す鏡として読むべきである。


    こうして並べると、四か国の違いはかなり明確になる。

    英国で可視化されているのは統治の歯止め
    フランスで可視化されているのは主権
    ドイツで可視化されているのは基本権であり

    韓国で示唆的なのは、
    そうした危機感が十分に言語化されないまま
    産業導入が先行しうることである。

    この非対称性こそ、
    日本にとってはむしろ重要である。


    5.日本で本当に問うべき四つの論点

    2019年、
    パランティアは国内企業との合弁で
    日本法人を設立した(注7)。

    その後、国内では介護分野のデータ活用に加え、
    損害保険でも
    大規模災害時の保険金支払い
    災害対応
    引受審査などに技術が使われている。

    政府の情報基盤でも、
    複数の米国系クラウド事業者が利用されている(注8)。

    近年は国産事業者も加わり、
    日本の行政基盤は
    国内外の技術を組み合わせながら構築されている。

    こうした基盤は、
    導入後の運用や更新だけでなく、
    業務の手順やデータの持ち方にも影響する。

    利用が広がるほど、
    組織側の運用もその基盤に合わせて組み替えられ、
    別の仕組みへ移る際の負担(注D)も大きくなる。

    こうした利用が広がるなかで、
    依存をどこまで管理できるかが問われる。

    前節で見た各国の議論も、
    こうした日本の状況と重なる。

    日本での論点は、
    憲法13条
    個人情報保護法
    経済安全保障
    防衛利用
    の四つに整理できる。


    第一は、憲法13条に関わる問題である。

    ドイツでは、
    国家が保有する情報を横断的に結びつけ、
    そこから新たな関係や危険性を推定することが、
    情報自己決定権との関係で問題になってきた。

    日本では、
    最高裁が憲法13条をもとに、
    個人に関する情報をみだりに第三者へ開示または公表されない自由を認めてきた。

    日本の判例は、
    個人情報の扱いについて、
    具体的な場面ごとの判断を積み重ねてきた。

    行政が保有する情報の結びつけ方についても、
    一定の制限が置かれてきた。

    住民基本台帳ネットワークをめぐる最高裁判断(注9)では、
    行政機関による目的外のデータ照合が
    法的に制限されていることや、

    個人情報を一元的に管理できる主体が存在しないことなどが、
    プライバシー侵害の具体的な危険を否定する材料となった。

    マイナンバー制度でも、
    個人に関する情報は
    それぞれの行政機関が保有し、
    必要な場合に連携する分散管理が基本になっている。

    日本の行政制度は、
    必要な情報を利用することと、
    複数の分野にまたがる情報を
    一つの主体が横断的に結びつけることを分けて設計してきた。

    パランティアのような統合基盤が入ると、
    この境界に新しい条件が加わる。

    情報を横断して結びつけ、
    そこにAIによる分析が加われば、
    国家が個人について把握できる範囲は、
    保有している情報の量だけでは測れなくなる。

    日本で争点になるのは、
    統合と推論によって国家が個人について何を新たに知り得るのか(注E)
    という点である。


    第二は、個人情報保護法と目的外利用の問題である。

    英国の事例が示したのは、基盤そのものの導入可否より、
    その用途がどこまで広がるかという不安だった。

    日本でも、
    個人情報保護法と個人情報保護委員会の行政機関等向けガイドライン(注10)は、
    利用目的の特定や適正な取扱い、
    目的外利用に関する厳格な枠組みを置いている。

    したがって争点は、導入時の説明が妥当かどうかより、
    導入後に拡張圧力をどう抑えるかにある。

    平時の行政効率化のための基盤が、
    別の行政目的や安全保障目的へ滑っていかないか。
    そこが日本でも実務上の核心になる。


    第三は、経済安全保障と主権の問題である。

    これはフランスがもっとも鮮明に示している。
    必要だから使う。
    しかし、依存したままでいたいわけではない。

    日本でも、内閣官房の2026年提言(注11)は、
    経済安全保障の文脈でデータセキュリティを新たな論点として位置づけ、
    安全保障上重要なデータやクラウド、
    データセンターの防護の重要性を強調している。

    ここで問われるのは、「外資だから嫌だ」という感情論ではない。
    国家の中枢データ基盤や危機対応の判断様式を、
    外部の設計思想や更新体系に深く寄せてよいのかという問題である。

    依存は、
    日々の運用や更新を重ねるなかで
    少しずつ深まっていく。

    要するに、これはプライバシー論より一段上の、
    国家の運転席を誰が握るのかという論点である。


    第四は、防衛利用の問題である。
    ここでは韓国比較が効いてくる。

    防衛省のAI活用推進基本方針(注12)は、
    無人アセット
    指揮統制・情報関連機能
    意思決定支援へのAI活用
    を進めると明記している。

    他方で韓国の事例は、安全保障への接続が、
    防衛契約という分かりやすい形で始まるとは限らないことを示唆する。

    前節で見たように、
    産業基盤は有事には
    安全保障の土台へ接続しうる。

    したがって、日本の防衛利用の論点は、防衛省の内部利用だけに閉じない。
    どの時点で産業基盤が安全保障基盤へと読み替わるのか
    が、実際には重要になる。

    結局、日本で問うべきことは一つに収れんする。
    この企業を使うかどうかではない。

    日本は何を誰に委ね
    その依存を途中で止め
    置き換え
    自力で運転し直せるのか。

    欧州三国が示したのは、
    統治
    主権
    基本権
    という異なる危機感の形であり、

    韓国が示唆するのは、
    そうした危機感が十分に言語化されないまま、
    外部仕様が中枢へ接近しうることである。

    日本にとって本当に重いのは、導入の瞬間より、
    気づいた時には判断の骨格そのものが外部仕様に寄っているという事態である。


    結び

    パランティアは、ただのAI企業として見るには国家に近すぎる。
    一方で、単純な監視企業として片づけるにも雑すぎる。

    この企業が本当に扱っているのは、
    国家や巨大組織の「見る」「つなぐ」「判断する」という中枢であり、
    その意味で、国家の神経系に触れる企業である。

    政府売上がなお過半を占め、
    米国の情報・防衛国家との近接の中で成長してきたことは、
    その見方を裏づけている。

    だから論点は、ソフトの名称ではない。
    問うべきは、
    どの国の、どの設計思想に、自分たちの判断の形を寄せていくのかである。

    この問題は技術論の顔をしている。
    だが、最後に残るのは主権論だ。
    そしておそらく、そこが最も重い。

    ここまで見てきた四つの論点は、
    実際の運用条件と結びついている。

    途中で止められるのか。
    別の仕組みへ移せるのか。
    誰がその運用を監査できるのか(注F)。

    主権は、こうした具体的な条件の中に表れる。

    次の記事では、
    この四つの論点が実際の行政や生活の中で
    どのような形を取りうるのかを、
    もう少し具体的に考える。



    注釈一覧

    (注1)

    2025年通期売上の54%は政府向け 同社の年次報告書では、売上を政府部門と民間部門に分けて開示している。政府部門には米国政府だけでなく、米国外の政府機関向け売上も含まれる。本文の54%・46%は、2025年12月期通期の集計値。

    (注2)

    In-Q-Tel 1999年に設立された、米国の情報・安全保障機関が必要とする技術を民間から発掘し、投資を通じて実用化につなげる非営利の投資機関。パランティアは創業初期にIn-Q-Telから出資を受けた。

    (注3)

    ロイターは2026年 米軍・国防総省が進めてきた、AIを使って衛星、ドローン、各種センサーなどの情報を統合・分析し、脅威の識別や標的設定を支援する軍事・情報基盤に関するもの。当初はGoogleもAI技術を提供していたが、社員の反発などを受けて契約更新を見送り、その後はパランティアが中心的な役割を担うようになった。2026年3月には、国防総省がこの基盤を全軍で標準的に利用する正式な継続事業として位置づけた。

    (注4)

    英国NHSが2023年に 契約主体はNHS England。契約期間は最大7年間で、最大240のNHS組織への展開が想定されている。病院や地域医療などで別々に管理されてきた情報を、共通の仕組みから利用できるようにする計画である。

    (注5)

    連邦憲法裁判所は州警察による自動データ分析の法的枠組みを違憲と判断し 2023年2月16日のドイツ連邦憲法裁判所判決。対象はヘッセン州とハンブルク州の警察法に置かれた自動データ分析・評価の規定だった。裁判所は、複数の個人情報を広く結びつけて分析する権限に対し、利用できる条件や対象について十分な歯止めが定められていないことを問題とした。判断の対象は警察法上の権限設計である。

    (注6)

    重工・造船を中心とした産業領域での展開 韓国で公開情報上もっとも目立つ提携先はHD Hyundaiである。HD Hyundaiは、造船、重工、建設機械、エネルギーなどを抱える韓国の大手企業グループで、製造設備や大型機械、船舶といった「ハード」を基盤に事業を展開してきた。韓国の大手企業の中でも、重厚長大型・製造業型の性格が強い企業であり、パランティアの導入もこうした現場との結びつきの中で進んでいる。

    (注7)

    国内企業との合弁で日本法人を設立した 2019年11月、パランティアとSOMPOホールディングスが共同でPalantir Technologies Japanを設立した。設立時点では両社がそれぞれ50%の議決権を保有し、日本市場へのパランティアのソフトウェア基盤の展開を担う合弁会社として発足した。

    (注8)

    複数の米国系クラウド事業者が利用されている ガバメントクラウドは、政府や自治体の情報システムで共通利用するために選定されたクラウドサービス群を指す。2026年時点では米国系4サービスに加え、国内事業者の「さくらのクラウド」も対象となっている。行政機関が一つの事業者だけを利用する仕組みではなく、共通の基準を満たした複数のサービスから構成されている。

    (注9)

    住民基本台帳ネットワークをめぐる最高裁判断 2008年3月6日の最高裁判決。行政機関による本人確認情報の目的外利用などが法令によって制限されていることや、個人情報を一元的に管理できる主体が存在しないことなどを踏まえ、住民基本台帳ネットワークについてプライバシー侵害の具体的な危険は認められないと判断した。

    (注10)

    個人情報保護委員会の行政機関等向けガイドライン 行政機関等は、個人情報を保有する際に利用目的を特定し、その目的に必要な範囲で取り扱うことが求められる。利用目的の変更も、当初の目的と相当の関連性がある範囲に限られる。目的外利用や第三者への提供には、法令に基づく場合などの例外が定められている。

    (注A)

    別の用途へ広げられる性質 個人情報保護や監視研究では、ある目的で集めた情報や整備した仕組みが、後から別の目的にも使われるようになる現象が「purpose creep」と呼ばれる。重要なのは、用途が増えること自体より、当初の目的からどこまで離れてよいかを誰が決め、その変更をどの制度が止められるかである。 大規模な情報基盤では、利用範囲を広げる技術的な費用が小さくなりやすいため、導入時の目的だけでなく、後から用途を追加する手続きそのものが統治上の論点になる。

    (注B)

    情報自己決定権 ドイツでは、1983年の国勢調査判決以降、自分に関する情報が、いつ、どの範囲で収集・利用されるかを本人が一定程度決められるという「情報自己決定権」が憲法上保護されてきた。個々には断片的な情報でも、結合・分析されれば、その人について新たな像が作られるという考え方が背景にある。そのため、国家や組織が情報をどこまで集め、結びつけ、利用できるかという問題は、個人が自分の情報の扱いにどこまで関与できるかという形で捉えられやすい。 日本では、個人が情報利用を包括的に決める権利を同じ形で置くより、情報を扱う側に、利用目的を明確にし、その範囲を守り、必要のない利用や第三者提供を避ける責任を負わせる形が強い。憲法13条をめぐる判例も、個人に関する情報をみだりに第三者へ開示・公表されない自由などを、具体的な事案ごとに判断してきた。

    (注C)

    平時には産業インフラ、有事には安全保障の土台 安全保障では、民生と軍事の双方に使える技術を「デュアルユース」として扱ってきた。従来は部品、素材、機械などが中心だったが、現在ではクラウド、AI、データ基盤、通信網、運用ノウハウのような無形の基盤も同じ問題を持つ。 こうした基盤では、平時の用途だけでなく、危機時にどの機能へ転用できるか、誰が更新や運用を握っているか、代替手段があるかまでが安全保障上の評価対象になる。

    (注D)

    別の仕組みへ移る際の負担 一度選んだ技術や制度が、その後の選択肢を狭めていく現象は「経路依存」と呼ばれる。情報システムでは、データ形式だけでなく、業務手順、他システムとの接続、職員の習熟まで特定の基盤に合わせて変わるため、時間が経つほど変更費用が大きくなる。 調達の現場では、特定の事業者から離れにくくなる状態を「ベンダーロックイン」と呼ぶ。経路依存が組織全体の変化を説明する概念であるのに対し、ベンダーロックインはその依存が特定事業者との関係に現れた状態と考えると分かりやすい。

    (注E)

    統合と推論によって国家が個人について何を新たに知り得るのか 情報を集めることと、集めた情報から新しい知識を導き出すことは同じではない。複数のデータを結びつければ、元の情報には直接書かれていなかった関係、傾向、将来の行動可能性まで推定できる場合がある。 このため近年の個人情報・AIをめぐる議論では、「国家や企業がどの情報を持っているか」だけでなく、「その情報から何を推論できるか」も問題になる。ドイツ連邦憲法裁判所も2023年の判決で、自動分析によって新たな知識が生み出されること自体に基本権上の意味があると指摘している。

    (注F)

    誰がその運用を監査できるのか デジタル基盤を主権の問題として考えるとき、重要になる考え方の一つが「可逆性」である。一度導入した仕組みを後から停止し、別の事業者へ移し、必要であれば自ら運用を引き取れる状態が保たれているか、という意味である。 実務では、データを標準的な形式で持ち出せるか、契約終了時の移行手順が決まっているか、外部から利用状況を監査できるか、といった条件に表れる。英国NHSの契約でも、移行可能性や契約終了時の対応が重要な条件として扱われている。


    1.参考資料

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    URL:https://investors.palantir.com/files/2025%20FY%20PLTR%2010-K.pdf

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    URL:https://www.iqt.org/library/the-in-q-tel-mission

    Fortune「Inside the CIA-backed venture fund that helped launch Palantir and Google Earth」(2025年7月29日、Fortune)※英語資料

    URL:https://fortune.com/2025/07/29/in-q-tel-cia-venture-capital-palantir-anduril/

    Reuters(David Jeans)「Pentagon to adopt Palantir AI as core US military system, memo says」(2026年3月20日、Reuters)※英語資料

    URL:https://www.reuters.com/technology/pentagon-adopt-palantir-ai-as-core-us-military-system-memo-says-2026-03-20/

    NHS England「Contract explainer」(NHS England)※英語資料

    URL:https://www.england.nhs.uk/digitaltechnology/nhs-federated-data-platform/security-privacy/contract-explainer/

    medConfidential「Written evidence submitted by medConfidential」(英国議会 Health and Social Care Committee掲載)※英語資料

    URL:https://committees.parliament.uk/writtenevidence/144050/html/

    Palantir Technologies「Palantir Announces Renewal of Multi-Year Contract with the DGSI」(2025年12月15日、Business Wire)※英語資料

    URL:https://www.businesswire.com/news/home/20251215083215/en

    フランス内務省「Prolongement du contrat liant la direction générale de la sécurité intérieure à l’entreprise américaine Palantir」(2026年5月14日回答、フランス上院)※フランス語資料

    URL:https://www.senat.fr/questions/base/2025/qSEQ251207120.html

    Bundesverfassungsgericht「Legislation in Hesse and Hamburg regarding automated data analysis for the prevention of criminal acts is unconstitutional」(2023年2月16日、Bundesverfassungsgericht公式英語版プレスリリース)※英語資料

    URL:https://www.bundesverfassungsgericht.de/SharedDocs/Pressemitteilungen/EN/2023/bvg23-018.html

    Palantir Technologies「Palantir Technologies and Hyundai Heavy Industries Group Grow Partnership to +$45M with Expansion into Shipbuilding」(2022年、Palantir Technologies Newsroom)※英語資料

    URL:https://www.palantir.com/newsroom/press-releases/palantir-hyundai-heavy-industries-group-expand-into-shipbuilding/

    SOMPOホールディングス「共同会社設立~ビッグデータ解析ソフトウェアプラットフォーム提供開始~」(2019年、SOMPOホールディングス)

    URL:https://www.sompo-hd.com/-/media/hd/files/news/2019/20191118_1.pdf

    Palantir Technologies「パランティアとSOMPOが複数年契約で提携拡大」(2025年8月12日、Business Wire日本語版)

    URL:https://www.businesswire.com/news/home/20250812643750/ja

    最高裁判所「裁判例結果詳細(住民基本台帳ネットワークシステムにより行政機関が住民の本人確認情報を収集,管理又は利用する行為と憲法13条)」(2008年、裁判所)

    URL:https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=35933

    個人情報保護委員会「個人情報の保護に関する法律についてのガイドライン(行政機関等編)」(個人情報保護委員会)

    URL:https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/guidelines_administrative/

    経済安全保障法制に関する有識者会議「経済安全保障推進法改正に関する提言骨子(データセキュリティ)」(2026年1月16日、内閣官房)

    URL:https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/keizai_anzen_hosyohousei/r8_dai14/teigenkosshi_6.pdf

    防衛省「防衛省AI活用推進基本方針」(2024年7月2日、防衛省)

    URL:https://www.mod.go.jp/j/press/news/2024/07/02a_03.pdf

    ITmedia「政府クラウド、AWSが8割超を独占 デジタル庁が答えた『特定企業推奨』の可能性」(2026年6月17日、ITmedia ビジネスオンライン)

    URL:https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2606/17/news021.html


    2.深掘りするための一般書

    アレクサンダー・C・カープ、ニコラス・W・ザミスカ(村井章子訳)『テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来』

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4296124862

    橘玲『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4166614460

    若江雅子『膨張GAFAとの闘い デジタル敗戦 霞が関は何をしたのか』

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4121507320

    国際文化会館地経学研究所(編)『経済安全保障とは何か』

    URL:https://www.amazon.co.jp/dp/4492444750

    ショシャナ・ズボフ(野中香方子訳)『監視資本主義 人類の未来を賭けた闘い』

    URL:https://str.toyokeizai.net/books/9784492503317/

  • 日本経済2025の分解:3話― 構造・政策・データで読む現在地 ―

    第三話:回復している日本経済
           ーその中身を分解するー

    2025年度の日本経済レポートは、
    景気について「緩やかな回復基調は維持」と評価している。

    実質GDPはコロナ前水準を上回り、名目賃金も上昇している。
    企業は価格転嫁を進め、賃上げ率も過去と比べれば高い水準だ。
    しかし同時に、実質賃金は力強さを欠き、個人消費の回復も限定的である。

    さらに、物価高の影響は所得階層によって異なり、
    産業ごとに賃金の伸び方も違う。
    「回復している」という言葉だけでは、この局面は説明できない。
    本稿では図表を手がかりに、いまの回復の“質”を分解する。


    1.GDP回復の主役

    実質GDPは回復している。
    しかし内訳を見ると、主に輸出と設備投資が押し上げている。

    個人消費の伸びは緩やかで、力強い主導役とは言い難い。
    成長率の寄与度を見ても、四半期ごとに押し上げ要因が入れ替わっている。
    外需が押し上げる期もあれば、在庫や内需が押し下げる期もある。

    つまり、回復はしているが、
    安定的な内需拡大による自律的成長にはまだ至っていない。


    2.名目賃金は上昇

    名目賃金は上昇している。
    だが、消費者物価指数を差し引いた実質賃金は、
    長い期間でマイナス圏にとどまってきた。

    物価上昇の内訳を見ると、
    食料
    光熱費
    エネルギー
    サービス
    が押し上げ要因となっている。

    これらは家計が回避しにくい支出項目であり、生活実感への影響が大きい。
    一方、企業側では仕入価格上昇を販売価格に転嫁する動きが進展している。
    価格転嫁が可能になり、企業収益は改善しつつある。

    しかし、インフレ率が賃金上昇率を上回る局面が続けば、
    実質購買力は削られる。
    消費が伸び悩むのは自然な帰結である。

    これは心理の問題ではない。
    単純な算術の問題だ。


    3.低所得層ほど強く打たれる構造

    所得五分位別に見ると、
    所得が低い世帯ほど直面する物価上昇率が高い傾向にある。
    差を生んでいるのは、食料と光熱費である。
    低所得層ほどこれらの支出割合が高いため、同じ物価上昇でも影響が大きい。

    消費性向が高い層の購買力が削られれば、マクロの消費回復は鈍る。
    消費が弱いのは、マインドの問題というよりも、
    所得分布と物価構造の問題である。


    4.産業別賃金分布の違いが示すもの

    2018年と2024年を比較すると、賃金分布は全体として右にシフトしている。
    賃金水準は上昇している。
    しかし、産業によって上がり方は異なる。

    医療・福祉では、分布は右に移動しているが、
    高賃金側の裾は大きく広がっていない。
    底上げはあるが、上限が伸びにくい。

    建設業では、右シフトに加え、高賃金帯も拡大している。
    分布の広がりが見られる。

    違いを生んでいるのは価格決定構造だ。

    医療・福祉は公定価格に依存し、価格を自由に上げにくい。
    人手不足でも収益の上限が制度で縛られるため、賃金の伸びにも制約がかかる。
    建設は市場価格が機能しやすく、需給逼迫が賃金に反映されやすい。

    日本の雇用の大きな受け皿は医療・福祉である。
    その賃金が構造的に上がりにくければ、国全体の実質賃金改善も遅れる。


    5.途中段階で終わる可能性

    本稿の前提は明確である。
    今回のインフレは需要過熱型ではなく、コストプッシュ型であった。

    「いまは好循環の途中段階に過ぎない」という見方もある。
    企業収益の改善が時間差で賃金に波及し、
    やがて実質賃金がプラスに転じるという期待だ。

    可能性はある。
    しかし、インフレ率が賃金上昇率を上回る状態が続けば好循環は定着しない。

    価格転嫁が可能な産業では賃金が伸びても、
    公定価格産業では市場メカニズムだけでは十分な賃上げは起きにくい。

    ここは制度設計の領域である。
    価格転嫁が進んだこと自体は企業体力の回復を示すが、
    それは必ずしも需要拡大を伴うものではない。

    したがって、賃金上昇の持続性は自動的には保証されない。
    企業収益が防衛から拡大型へと移行するかどうかが、今後の分岐点である。


    6.外需主導の限界

    外需主導の成長が悪いわけではない。
    しかし、日本の産業構造は約8割が内需型である。

    世界的な中間層の増加に伴うコスト上昇、
    地政学リスク、
    資源価格の変動
    などを考えれば、

    外需だけで安定的に成長を維持するのは容易ではない。
    人口減少社会で外需に過度に依存すれば、
    名目は伸びても家計の実質は痩せる可能性がある。

    輸出企業の収益が拡大しても、
    それが家計の実質所得に波及しなければ、
    名目の成長と生活の実感は乖離する。

    それは「成長しているが豊かでない」状態を生む。


    7.必要条件 結論は明確である。

    実質賃金がインフレ率を持続的に上回る局面を定着させること。
    これが回復を強くするための必要条件である。

    企業収益の改善を賃金に波及させること。
    公定価格産業でも
    インフレを相殺し得る賃上げを可能にする制度設計を行うこと。
    内需の厚みを回復させること。

    マインドに期待するだけでは足りない。
    構造を設計する必要がある。

    いまの日本経済は回復している。
    しかし、その回復はまだ完成していない。
    問われているのは、回復の有無ではない。

    回復の果実を、実質として家計に届かせる設計があるかどうかである。
    持続的な賃金上昇には、生産性向上が不可欠である。

    日本経済レポートでは、
    M&Aを行った企業において、収益性や労働生産性の改善が確認されている。
    もっとも、生産性の問題は本稿の中心テーマとは異なるため、
    ここでは指摘にとどめたい。


    ここで一度、数字そのものから少し離れておきたい。
    政府発表を読むときに大事なのは、何が書かれているかだけではなく、
    何が先に語られ、何が後ろに置かれているかを見ることである。
    以下の補論では、今回のレポートを手がかりに、その読み方を整理する。

  • コラム:「I love you」と「愛してる」のあいだで

    ー 愛の重さは、どこで生まれたのかー

    たぶん「愛」は、
    誰かを縛る言葉じゃ
    なかったんだと思う。


    I love you は、そんなに重い言葉じゃない

    映画の中で、
    ドラマの中で、
    歌の中で、
    「I love you」という言葉は幾度となく繰り返されます。
    そして字幕には、ほとんど決まって、こう映し出されます。

    「愛してる」と。

    それを強く不自然だと感じる人は、あまり多くないのかもしれません。
    けれど私は、ずいぶん前から、ほんの少しそのことに引っかかっていました。
    本当にこの二つの言葉は、そんなふうにきれいに重なり合うのだろうか、と。

    正直に言えば、私は英語が得意ではありません。
    小学生レベルの英語しか知らないので、
    「どうやら、そうらしい」という程度の話ではあります。

    それでも、分かることがあります。
    英語の love は、
    私たち日本人が思っているほど、いつも重々しい言葉ではないようなのです。

    アメリカ人は、ピザにも、歌にも、服にも、
    「I love it」と言います。

    マクドナルドのCMでも “I’m lovin’ it.” と言っていますよね。
    あれを聞いて、「マクドナルドを愛してる」
    と受け取る人は、そう多くないでしょう。

    実際のところ、その感覚は
    「最高」とか
    「すごく好き」とか、
    「お気に入り」くらい
    のところにあるのだと思います。

    つまり、英語の love が重いのではなく、
    日本語へと訳された瞬間に、どこか重みを帯びてしまっているのです。

    違和感が生まれているのは、英語の側ではなく、
    むしろ翻訳された日本語の側なのではないか。
    私はそんなふうに思っています。


    日本語には love の日常語がなかった

    そこで今度は、日本語の側を見てみます。

    日本語には「好き」という言葉があります。
    これはとても便利で、やわらかく、日常の中で自然に息をしている言葉です。
    食べ物にも使えますし、人にも使える。
    曖昧さはあるけれど、その曖昧さごと、無理なく引き受けて使うことができます。

    では、「愛している」はどうでしょうか。

    これは「好き」と同じようには使えません。
    少なくとも日常会話の中では、ほとんど口にされない。
    言葉にした瞬間、空気が少し変わる。
    関係そのものにまで、どこか変化を求めてしまうようなところがあります。

    ここで思うのです。
    もしかすると、日本語にはもともと、love にそのまま重なる日常語がなかったのではないか、と。


    江戸の「愛」は、もっとあたたかかった

    このことを考えるとき、私はどうしても江戸時代まで視線を戻したくなります。

    江戸の「愛」は、
    いま私たちが思い描く「愛」とは、
    ずいぶん違っていたように見えるからです。

    恋愛感情の告白というより、
    もっとあたたかい言葉だったのではないでしょうか。

    慈しみ。
    憐れみ。
    思いやり。
    情け。

    それは、誰か一人を選び取るための言葉というより、
    誰かを世界の外へ押しやらないための言葉だった。
    むしろ、そんな響きのほうが近かったように思えるのです。

    「ちゃんとしていなくてもいい」
    「とりあえず、ここにいていい」

    そうした包み込むような感覚が、そこにはあったのではないでしょうか。

    少なくとも、誰かを縛るための言葉ではなかった。
    私はそのように感じます。


    明治の翻訳は「愚直」だった

    そう考えていくと、明治の翻訳者たちの姿も、少し違って見えてきます。

    英語に “I love you” という文がある以上、
    日本語にも、それに対応する正しい文があるはずだ。
    言語にも、数学のように正解がある。

    彼らは、そう信じたのだと思います。

    だから love に「愛」という字を当てた。
    いちばん格調が高く、それらしく見える言葉だったからです。

    その態度は、とても誠実だったのだと思います。
    ただ、前提が一つだけ違っていた。

    言語や文明には、数学のような一意の正解はありません。

    それでも彼らは、正解を探した。
    誠実に、そして愚直に。


    like と love、そして文化の勘違い

    ここでもう一つ、少し厄介な話があります。

    英語の like と love は、私たちが思うほど、きっぱりと分かれてはいません。
    もちろん違いはあります。

    けれど、日本語の「好き」と「愛してる」ほど、
    深い断絶があるわけではないのです。
    向こうでは love は、かなり日常的に使われます。

    ところが戦後、
    日本にはアメリカの映画やドラマや音楽が大量に流れ込んできました。

    その中で “I love you” は何度も繰り返され、
    字幕はそのたびに「愛してる」と訳される。
    日本人は、その訳語を、何度も何度も浴びることになりました。

    おそらく、ここで起きたのは理屈の誤解ではなく、
    もっと素朴な模倣だったのだと思います。

    ロマンチックで、
    大人っぽくて、
    どこか洒落て見える。

    私も言ってみたい。

    まず映画の中で。
    ドラマの中で。
    音楽の中で。

    そうやって「愛してる」は広がっていった。

    その意味を深く考えるより先に、
    言葉の雰囲気だけが先に広がっていったのです。

    love の軽やかさは消え、
    「愛してる」の重さだけが残った。


    「愛してる」は契約語になった

    いまの日本語で「愛してる」という言葉は、
    感情を表す言葉というより、むしろ契約を言い渡す言葉に近いのではないか。
    私はそんな気がしています。

    私はあなたを選んだ。
    だから、あなたも私を選ぶべきだ。
    この関係を裏切らないでほしい。
    離れないでほしい。
    ほかを見ないでほしい。

    そうした願いまで、一言の中へ詰め込んでしまっている。

    だからこそ、その言葉に固執してしまう人がいる。
    重すぎて抱えきれなくなる人がいる。
    ふと息苦しさを覚える人がいる。

    「愛してる」という一言に、
    私たちは感情以上のものを背負わせすぎたのかもしれません。


    重くなりすぎた言葉の、その先に

    「愛してる」という言葉が、
    こんなにも重いものになったのは、
    おそらく偶然ではないのだと思います。

    翻訳のしかたも、
    その後の広がり方も、
    どこかで少しずつ、
    この国の言葉の空気を変えてしまった。

    けれど本来、
    「愛」は、
    誰かを縛るための言葉ではなかったはずです。

    もっとあたたかく、
    もっと静かで、
    もっと相手を包み込むようなものだった。

    そう考えると、私たちはもう少し、
    「愛」という言葉を契約として人を縛るものではなく、
    誰かを慈しみのうちに包むためのものとして、
    思い出してみてもいいのかもしれません。