カテゴリー: 歴史

  • 日本近現代外交史:序章

    序章

    今回の長編は、幕末から戦前までの日本を、出来事の連鎖としてではなく、対外秩序の変化にさらされた国家の条件と選択として見るための試みである。

    近代以降の日本史は、しばしば極端な議論を呼びやすい。資料が多く、関わる人物も多く、事件の密度も高いからである。誰が正しかったのか。誰が誤ったのか。あの時ほかにどのような選択がありえたのか。議論は自然に、人物評価や理念対立、あるいは成功と失敗の物語へ引き寄せられる。もちろん、それらは歴史の大きな醍醐味である。人物の魅力や理念の衝突、出来事の劇性があるからこそ、歴史は単なる年表ではなく、生きた時代として立ち上がる。

    だが、その景色が鮮やかであるほど、かえって見えにくくなるものもある。国家がどのような対外秩序の中に置かれ、どのような条件の下で、どこまで選びえたのか、あるいはどこから先は選べなかったのか、という問題である。

    出来事は、それ自体だけで起きるわけではない。その背後には、国際環境があり、力の配分があり、通商と軍事の条件があり、列強どうしの牽制があり、その中で国家が占めた位置がある。ある事件を理解するとは、その原因や経過を知ることだけではない。その事件がどのような条件の中で起こり、何を変え、どの選択肢を広げ、どの選択肢を閉ざしたのかを知ることでもある。本稿が見たいのは、その点である。

    したがって、個々の事件を英雄や奸臣の物語として描くことを主眼としない。また、理念の対立だけで時代を説明しようとするものでもない。人物も理念も重要である。しかしそれらもまた、より大きな対外秩序の変化の中で動いている。本稿で中心に置くのは、事件の派手さではなく、国家が置かれた条件の変化である。日本が何を外から求められ、何を脅威と見なし、何を守ろうとし、どこで適応し、どこで拡張し、どこで均衡を失っていったのか。その輪郭を追う。

    その意味で、戦史そのものを書くものではない。戦争や事変に触れないわけではないが、それらを戦場の経過として詳述することが目的ではない。ここで重視するのは、それらが対外秩序と外交の条件をどう変えたかである。同じように、経済や国内政治も本稿の外にあるわけではない。ただし、それらをそれ自体として全面に出すのではなく、対外関係の変化と結びつく範囲で扱う。主役はあくまで、国家と外部世界との関係である。

    また、一国との関係だけを追うものでもない。二国間関係は重要である。だが、それだけでは時代の重心を捉えにくい。ある局面では、複数の国が同時に圧力をかけ、あるいは互いに牽制し合い、その中で日本の選択肢が形づくられる。別の局面では、特定の一国との関係が、日本外交全体の背骨になる。二国間関係を必要に応じて重視しつつも、それをつねに時代全体の構造の中に置いて考える。

    こうした視点を取る理由は、過去をより正確に理解するためだけではない。よく、歴史を知れば現代ニュースが理解しやすくなると言われる。それはその通りである。だが、それで終わっては足りない。現代の外交や国際関係をある程度理解したあとで、もう一度歴史に戻ると、以前とは違うものが見えてくる。どの国との関係が軸だったのか。正面の相手以外に、どの第三国が制約になっていたのか。国内政治と対外関係はどこで結びついていたのか。誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であったのか。現代を一度通った目で歴史を見直すと、後から付与された物語の陰に隠れていた条件の重みが、別の形で立ち上がってくる。

    本稿が試みるのは、その再読である。幕末から戦前までの歴史を、単なる近代化の成功物語としても、破局へ向かう失敗物語としても捉えない。外から押し込まれ、内側で作り替え、外へ広がり、秩序に参加し、やがてその秩序との両立を失っていく。その一連の過程の中で、日本という国家が何を選び、何を失い、どこで判断を誤り、どこで構造に押し戻されたのかを問う。

    言い換えれば、たどろうとするのは、出来事の歴史ではなく、条件と選択の歴史である。そしてその視角は、過去の理解にとどまらない。国家はつねに、対外秩序の変化の中で、自らの位置と選択肢を測り続けなければならないからである。その意味では、過去の説明であると同時に、現代の日本外交を見るための視角を整える作業でもある。

    その作業は、幕末においてとりわけ鮮明に表れる。開国によって日本が直面したのは、外国との接触そのものではなく、対外秩序への編入が、誰が国家を代表し、誰が責任を負い、誰が統治主体であるのかという問題を前面に押し出す過程だったからである。外交の窓口と統治の実体とがずれ始めるとき、外交問題はそのまま政体問題へ変わっていく。第1章で見るのは、まさにその始まりである。

  • 戦後日本経済史:序章

    ーいまにつながる時間をたどる

    これは、戦後の日本をめぐる長い時間の話です。
    私たちの親や祖父母の世代は、どんな景色の中で生きてきたのか。
    何に沸き立ち、何に耐え、何を当たり前だと思っていたのか。
    この連載では、その時代の空気をたどりながら、いまの日本につながる時間を見ていきます。
    そしてそれは、バトンを受け取った私たち自身の話でもあります。


    序文

    戦後日本の経済は、

    復興
    高度成長
    石油危機
    バブル崩壊
    失われた三十年

    といった節目で語られることが多い。

    たしかにそれらは重要な節目である。

    しかし、そうした節目を順に並べるだけでは、
    「あの時は良かった」
    「あの時はひどかった」
    という感想の積み重ねになりやすく、
    日本経済がなぜ成長し、なぜ持ちこたえ、
    なぜ長い停滞と詰まりを抱えてきたのかは、十分には見えてこない。

    経済は、数字だけで動くものではない。

    その背後では、政府、中央銀行、金融機関、企業、国民
    がそれぞれの役割を担い、互いに支え合い、
    ときに負担を押しつけ合いながら、経済を動かしている。

    そして戦後日本の経済は、国内だけで完結してきたわけでもなく、
    アメリカ主導の国際秩序の変化に適応してきた歴史でもあった。

    ここで見たいのは、
    その変化の中で、誰が利益を受け取り、誰が負担を引き受けてきたのか
    という構図である。

    戦後日本経済の本質は、単に成長したか停滞したかにあるのではない。
    外から与えられる条件の変化に適応しながら、
    そのたびに国内で利益と負担の配分を組み替え、
    社会を持たせてきたところにある。

    したがってこの長編で見たいのも、誰が善で誰が悪かという単純な話でもない。

    政府が悪かった
    日銀が遅かった
    企業が守りに入った
    国民が我慢させられた

    そうした断片は部分的には正しくても、全体像には届かない。

    本当に見なければならないのは、成長や安定が誰に利益をもたらし、
    その裏で誰に負担やリスクを引き受けさせたのかという構図である。

    マクロ経済は、問題を完全に解決して前に進むというより、
    負担を分配し、移し替え、ときに棚上げしながら進んでいくものである。
    日本経済もまたその例外ではない。

    ただ、その進み方には日本固有の癖があり、その中身は本論の中で順に見ていく。

    この長編では、戦後日本経済をめぐる出来事を点のまま並べるのではなく、
    それぞれを線として結び、その線がどこで重なり、
    どこでねじれ、どこで次の時代へつながっていったのかを、
    政府、中央銀行、金融機関、企業、国民、
    そして日本を大きく左右してきたアメリカとの関係とともに、
    時系列の中で立体的に捉え直していく。

    見ようとしているのは、出来事そのものの珍しさではない。

    ある時代の成長や安定が、どのような外部条件のもとで成り立ち、
    その果実が誰に配られ、その裏でどの主体にどのような負担やリスクが移され、
    何が次の時代に課題として残されたのか、という関係の構図である。

    登場人物は、
    政府
    中央銀行
    金融機関
    企業
    国民
    そしてアメリカである。

    この六者は、それぞれが独立して経済を動かしているのではない。

    互いに支え合い、押しつけ合い、ときに利益を分かち合い、
    ときに負担を移し替えながら、日本経済という仕組みを回してきた。

    時代によって、その形は異なる。

    成長の果実が広く共有された時代もあれば、
    損失の処理が時間の中に埋め込まれた時代もあり、
    安定の代償が見えにくい形で積み上がった時代もあった。

    そしてアメリカとの関係は、
    そうした国内の配分や選択をつねに外側から揺らし、ときに加速させ、
    ときに別の方向へ押し流してきた。

    いま日本は、長く続いた超低金利とデフレの時代を抜け、
    再び物価と金利のある世界に戻ろうとしている。

    だがそれは、単なる正常化ではない。

    過去の時代に積み残され、先送りされてきた負担が、
    別の形で輪郭を現し始めているということでもある。

    だからこそ、戦後日本のマクロ経済史を振り返ることには、いまなお意味がある。

    日本は何によって成長し、何によって安定し、
    何を解決せずに今日まで持ちこたえてきたのか。

    その流れを見直すことは、現在地を知るための作業である。

    以下、戦後日本の歩みを四つの時期に分けてたどる。

    一九七三年以前
    一九七三年から一九八五年
    一九八五年から二〇〇二年
    そして二〇〇二年以降

    それぞれの時代に、異なる外圧があり、
    異なる成長の仕組みがあり、異なる利益と負担の配分があった。

    その連続と断絶を追うことで、戦後日本経済を、
    単なる景気の波ではなく、適応と配分の歴史として捉え直していきたい。

  • 補論 :自己更新と外的再編の分岐


    ― 明治維新と韓国併合と
          GHQ占領政策をめぐって ―

    Ⅰ この補論で見たいこと

    本稿では、イランの歴史と現在を通じて、「どのような変化が起きるのか」とともに、「その変化を誰の手で始めるのか」という問題を見てきた。

    この視点を日本近代へ移すと、同じ制度改革や近代化という言葉の中にも、異なる構造が見えてくる。

    ここで取り上げるのは、明治維新、韓国併合、そして敗戦後のGHQ占領政策である。

    三つはいずれも、社会の制度や国家のあり方が大きく組み替えられた時代だった。しかし、誰が変化を選び、誰がその痛みを引き受け、誰の言葉で新しい秩序を正当化したのかという点では、大きく異なっている。

    ここで行うのは、どれが善でどれが悪かを裁定する作業よりも、その変化を誰が選び、誰の名において進めたのかという、制度の背後にある「主語」(注A)の位置を確かめる作業である。

    同じ制度が導入されても、自ら選んだ変化と、外から与えられた変化では、その後に残る記憶も違ってくる。

    制度そのものは時間とともに変わる。しかし、誰の手で変わったのかという感覚は、その制度より長く社会に残ることがある。

    その違いを、三つの事例から見ていく。

    Ⅱ 明治維新――外圧下における自己更新

    幕末、日本の周辺では欧米列強の活動が急速に広がっていた。海の向こうの出来事だった国際秩序が、日本の沿岸と外交に直接入り込み、従来の統治や海防のままで国家の進路を保てるのかが問われるようになった。

    この外圧は、日本社会に自らを組み替える必要を強く意識させる契機となった。外国の影響がさらに深まり、自分たちで進路を決められる余地が狭まる前に、自分たちの手で国家を組み替える。その意識が、幕末から維新へ向かう大きな流れを支えていた。

    開国の過程では、不平等条約(注1)という新たな外部制約も生まれた。領事裁判権や関税をめぐる制約は明治に入っても続き、その改正は国家再編を進めるうえで長期的な課題となった。外圧を受けて始まった自己更新は、その過程で生まれた新しい制約も抱えながら進んでいった。

    外国との貿易や資金の流れも広がっていった。だが、それらをどう扱うかを決めていたのは国内の側だった。外国との関係もまた、自分たちが国家をどう組み替えるかという目的に沿って使われ、調整されていた。何を採り、どのような国家をつくるのかを決める主語は、国内に置かれていた。

    幕末の主要な政治勢力の多くは、何らかの形で日本を組み替える必要を認め、実際にその方向へ動いていた。そこで争われたのは、自己更新の内容と、その担い手である。幕府を軸に秩序を組み替えるのか、新しい政治体制をつくるのか。外国との関係をどのように築き、誰が国家を代表するのか。こうした違いが政治対立を深め、やがて内戦にまで至った。

    この対立そのものが、次の秩序を誰が、どのような形で担うのかを日本社会の内部で争った過程でもあった。自己更新という大きな方向の中で、その内容と担い手をめぐる選択が行われていたのである。

    維新後には、西洋由来の制度や技術が次々と導入された。軍制、教育、法制度、行政制度など、多くの仕組みが外国を参照しながら組み立てられていった。それらをどこまで採用し、どのように日本の国家制度へ組み込むのかを決めたのは、新しく成立した日本の政府だった。制度の由来が外にあったとしても、再編の主語そのものは日本側に置かれていた。

    その違いは、制度変更に伴う負担の受け止め方にも表れる。身分秩序の再編、徴兵、税制の変更、生活習慣の変化は、人びとに大きな負担を求め、その変化によって失われたものも多かった。

    負担への反発は生まれたが、それは自分たちの国家をどう運営するのかという内側の争いとして表に出た。不満はまず政府の政策や制度、その進め方へ向かい、外国との間に生じた問題は、国家が外交上の要求として外へ向けていく形を取った。

    自己更新の痛みは、社会の内側に政治的な不満や対立を生みながら、その社会自身が国家の進路を選び直す過程の一部として引き受けられていった。

    人は、自分で引き受けた痛みと、外から押しつけられた痛みを同じようには記憶しない。

    明治維新は、外圧の中で変化を迫られながら、その変化の主語を自らの側に保った自己更新として捉えることができる。

    Ⅲ 韓国併合――自己更新の場を奪う外的再編

    同じ近代化という言葉でも、変化の主語が外へ移ると、その意味は大きく変わる。

    朝鮮社会の内部にも、自らの手で国家のあり方を組み替えようとする動きは存在していた。同時に、何を変え、何を残し、外国とどう向き合うのかをめぐって、複数の方向が併存していた。自己更新を求める動き(注2)も、その中の一つとして存在していた。

    その動きが社会全体を主導するところまで広がっていたかどうか以上に、ここでは、自己更新を求める動きが朝鮮社会の内部から生まれていたことが重要になる。自らの手で国のあり方を変えようとする人びとは、すでに存在していた。だからこそ、その後に国家の進路を決める場を失ったことは、自分たちで変わる可能性まで奪われた経験として記憶に残りやすくなる。

    1905年に外交権を失い、1910年に併合(注3)へ至る過程で、朝鮮社会が自ら国家の進路を決める余地は段階的に狭められていった。日本による保護国化と併合は、朝鮮社会が内部で方向を選び、試し、次の秩序を形づくる自己更新の場そのものを奪っていった。

    ここで重要になるのは、何が導入されたのかという制度の一覧よりも、誰が次の秩序を語ったのかという問題である。

    統治制度が整えられ、社会の仕組みが変わっていくとしても、その方向を決める主語が外部に置かれれば、変化に伴う痛みの意味も変わる。制度への不満と、制度を持ち込んだ外部への反発が重なり、自分たちの社会を自分たちで決めるという要求そのものが政治的な意味を持つようになる。

    国家として主語を行使する場を失った後も、自らの社会を自らの言葉で語ろうとする要求は残り続けた。1919年(注4)には、その要求が大規模な独立運動として現れた。併合によって場は奪われても、主語を取り戻そうとする要求は社会の中に残った。

    この傷は数字では測れない。むしろ、こうした種類の傷の方が、制度の寿命より長く残る。

    韓国併合をこの視点から見ると、近代化の成否や、個々の制度の評価とは別の輪郭が見えてくる。社会自身が次の秩序を選ぶ場を失い、外部の国家がその主語を引き受けた。

    そこに残ったのは、主語を奪われた外的再編としての記憶である。

    Ⅳ 敗戦とGHQ占領――一部を切り離す再出発

    1945年、日本は敗戦によって、それまでの国家の前提を大きく失った。軍事的な敗北に加え、国土の破壊、海外領土の喪失、占領という現実が重なり、従来の国家像そのものが組み替えられた。

    GHQによる占領(注5)のもとでは、憲法、軍事、教育、労働、農地など、広い領域で改革が進められた。制度再編の枠組みには、占領側の意思が強く反映されていた。

    その中で、戦後日本の自己像を形づくるうえで大きな意味を持ったのが、戦前・戦中の日本から軍と戦争指導部を切り分ける整理だった。

    この整理には、占領側が先に用意した枠が大きく作用した。占領政策と戦後処理は、責任の中心を軍と戦争指導部へ集め、そこを戦後の日本から切り分けて再出発する枠を形づくった。日本社会はその枠に乗り、それを自らの戦後の自己像へ取り込んでいった。

    「軍が日本を誤らせた」(注B)という理解は、この過程の中で広く受け入れられた。

    この整理によって、戦争へ進んだ国家と、敗戦後に再出発する日本との間に境界を置くことができた。軍を切り離された部分として置くことで、日本社会そのもの、日本文化そのもの、日本という共同体全体を戦前の国家とともに切断する必要は薄くなった。

    外から用意された枠を内側へ取り込むことで、「軍を切り離しながら日本全体の連続性を保つ」という自己定義が成立していった。

    ここには、明治維新とも韓国併合とも異なる変化の形がある。外部から大きな再編を受けながら、その再編の枠を使って、自らの連続性を組み直していく形である。

    Ⅴ 外から入った価値が、内側の価値になるとき

    占領期に導入された制度や価値の中には、その後、日本社会の内部で意味を変えながら定着していったものがある。

    その一つが、戦後の平和主義(注C)である。

    敗戦直後の制度設計には、占領側の意思が強く反映されていた。一方で、戦争と空襲、徴兵、家族の死、生活の破壊を経験した日本社会の側にも、再び同じ破局へ戻りたくないという感覚が広く存在していた。

    占領期に制度として与えられた平和主義は、こうした社会の経験と重なることで、日本社会の内部でも受け入れられていった。

    時間がたつにつれて、それは占領期に導入された制度という位置を越え、戦後を生きる価値として定着していく。次の世代にとっては、敗戦直後の占領政策そのものよりも、戦後日本のあり方を形づくる一つの前提として受け取られるようになった。

    ここでは、変化の主語そのものが時間とともに移っている。

    出発点では外部が大きな枠を作った。その後、日本社会がその枠を受け入れ、自らの経験と結びつけ、さらに自分たちの価値として引き受け直していった。

    外から入った価値が、内側で意味づけ直され、その社会自身の価値へ変わっていく。

    Ⅵ 破局の深さが自己定義の形を決めた

    戦後日本が大きな再定義を必要とした背景には、従来の自己像そのものを組み替えるほどの破局の深さがあった。

    戦争は国家の軍事力だけを傷つけたわけではない。都市は焼かれ、多くの人びとが命を失い、海外に広げた領域も失われた。それまで国家が語ってきた物語と、敗戦後に人びとが目にした現実との間には、大きな断絶が生まれた。

    その状況で、戦前から続くすべてを同じ重さで引き受ければ、戦後の日本社会は自らの連続性まで問い直すことになる。

    そこで、戦争へ進んだ責任を軍と戦争指導部へ集め、そこを切り離す枠が強い意味を持った。占領側が用意したその枠は、日本社会にとっても、敗戦の破局を受け止めながら自分たちの社会を再び始めるための説明として機能し、戦後の自己像はこの切り分けの上に作られていった。

    同時に、その再出発を支えた制度の一部は占領期に作られ、その後も日本社会の内側へ残った。外部との関係を自己定義の内側に含む構造は、戦後日本の国家観や安全保障をめぐる議論にも続いている。

    その象徴の一つが、憲法上の位置づけと現実の防衛力との間で議論が続いてきた自衛隊(注6)である。

    敗戦という破局の深さは、外的再編を受け入れる条件を生み、その枠を内側へ取り込みながら再出発する戦後日本の自己定義を形づくった。

    その始まり方そのものが、現代まで続く自己定義の枠組みを作ったのである。

    Ⅶ 三つの変化が残した「感覚の遺産」(注D)

    ここまでの三つの事例には、それぞれ異なる変化の主語があった。

    明治維新では、外圧が強まる中でも、何を変え、誰が国家を組み替えるのかを争う場が国内に残った。制度の多くを外国から学びながら、その選択を自らの国家再編として引き受けた。

    韓国併合では、朝鮮社会の内部に自己更新を求める動きが存在する中で、自ら国家の進路を決める場が段階的に失われた。変化の主語が外部へ移り、自らの未来を決める場を奪われたという感覚が残った。

    敗戦後の日本では、占領側が大きな再編の枠を用意し、日本社会がその枠に乗りながら、一部を切り離すことで全体の連続性を保った。さらに、外から入った制度や価値の一部を、時間をかけて自らの価値として取り込み直していった。

    この違いは、制度史だけを見ていると捉えにくい。

    残るのは、制度そのものとともに、その制度をどのような経験として受け取ったのかという感覚である。

    自分たちで変えたという感覚。

    自分たちで変える場を奪われたという感覚。

    外から変えられながら、その変化を自分たちのものとして引き受け直したという感覚。

    こうした感覚の遺産は、制度が変わった後にも残り、その後の社会が外国からの圧力や制度変更をどう受け止めるのかにも影響する。

    歴史の記憶は、出来事を保存するだけでは終わらない。

    その社会が次の変化に直面したとき、「これは自分たちの選択なのか」「また外から決められるのか」という感覚として現れる。

    Ⅷ この補論がイランの考察へ戻っていく場所

    ここで、話は再びイランに戻る。

    日本近代の三つの事例から見えてくるのは、外圧の強さとともに、その社会が次の秩序を語る主語をどこに置いたかという違いである。

    イランでも、外圧が体制を大きく揺さぶるほど、その先の秩序を誰の言葉で形づくるのかが重要になる。制度の空白が生まれた後、その未来を誰が語り、誰が痛みを引き受け、誰が社会の選択として認めるのか。

    その主語が社会の内側に残るとき、変化は自己更新として引き受けられる余地を持つ。外部がその場まで握れば、変化は外的再編として経験されやすくなる。

    そして、外部から始まった変化であっても、その後に社会自身が意味づけ直し、自らの価値として引き受けていく場合もある。

    Ⅸ 結語―変化の中身ではなく、変化の主語が歴史の質を決める

    社会は、外部との接触を避けて存在することはできない。

    外国から制度を学ぶこともある。外圧によって改革を急ぐこともある。敗北や占領によって、自らの制度を大きく組み替えられることもある。

    そのとき重要になるのが、変化の主語である。

    明治維新では、外圧の中で自己更新を選び、その内容と担い手を国内で争った。

    韓国併合では、朝鮮社会が自ら進路を選ぶ場そのものが外部の力によって奪われた。

    敗戦後の日本では、外部が用意した再編の枠に乗り、一部を切り離すことで全体を保ち、その枠の一部を自らの価値として引き受け直していった。

    三つの事例で導入された制度の中には、外から来たものが数多くある。

    しかし、その制度を誰が選び、誰が痛みを引き受け、誰の言葉で次の秩序として語ったのかによって、社会に残る記憶は変わった。

    変化の中身だけを見れば、近代化、制度改革、民主化、占領政策という言葉で整理できる。

    そこに主語を置くと、別の歴史が見えてくる。

    どの社会が、自らの未来を自らの言葉で語る主語でいられたのか。

    どの社会が、その場を奪われたのか。

    そして、外から与えられた変化を、どの社会が後から自らのものとして引き受け直したのか。

    変化の中身とともに、変化の主語を見る。

    そこに、同じ制度変更が自己更新にも外的再編にもなりうる分岐がある。


    注釈一覧

    (注1)

    不平等条約 幕末に結ばれた通商条約では、外国人の裁判を領事に委ねる領事裁判権や、日本側が関税率を自由に決めにくい仕組みが置かれた。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、その後の明治外交における長期的な課題となった。

    (注2)

    自己更新を求める動き 19世紀末から20世紀初頭の朝鮮では、甲午改革、独立協会、大韓帝国期の光武改革など、国家制度や対外関係を組み替えようとする複数の動きが現れた。担い手や目指す方向は異なり、複数の改革構想が並行し、競合していた。

    (注3)

    1905年に外交権を失い、1910年に併合 1905年の第二次日韓協約によって韓国の外交権は日本の管理下に置かれ、統監府が設置された。その後、日本の関与は内政にも広がり、1910年の日韓併合条約によって韓国は日本の統治下に入った。

    (注4)

    1919年 1919年3月1日に始まった三・一独立運動では、独立宣言を契機として各地に独立を求める運動が広がった。日本統治下の朝鮮社会で、独立要求が大規模に表面化した出来事の一つである。

    (注5)

    GHQによる占領 GHQは、連合国軍最高司令官総司令部を指す。1945年から1952年までの占領期、日本政府を通じた間接統治を基本としながら、政治・社会制度の広い範囲に改革を求めた。

    (注6)

    自衛隊 自衛隊は1954年に発足した。政府は、憲法9条の下でも自衛のための必要最小限度の実力を保持できるという解釈を取ってきたが、その範囲や憲法との関係をめぐる議論は長く続いている。

    (注A)

    主語 ここでいう「主語」は、社会の変化について誰が選択し、誰が正当化し、誰がその結果を引き受けるのかという、行為主体の位置を指している。政治思想における自己決定や、社会科学で用いられるエージェンシー(行為主体性)と接点を持つが、本稿では特定の理論をそのまま当てはめるためではなく、異なる歴史的変化を比較するための視点として用いている。

    (注B)

    「軍が日本を誤らせた」 占領期の戦争責任処理では、戦争指導者の訴追、公職追放、軍の解体や戦時統制の見直しなどが進められ、戦前の戦争指導と戦後日本を切り分ける枠組みが形成された。この枠組みは、軍や戦争指導部を戦争への主要な責任主体として捉える戦後の自己理解とも結びついた。戦争責任をめぐる歴史研究では、責任をどの範囲まで捉えるのかという問題とともに、政府、官僚、経済界、メディア、社会の動員なども含め、より広い範囲の主体が検討されている。

    (注C)

    平和主義 戦後日本の平和主義をめぐっては、憲法9条をはじめとする占領期の制度設計と、戦争体験やその後の反戦・反核運動を通じて日本社会の内部に定着していった価値の双方が論じられてきた。本稿の「外から入った価値が、内側の価値になる」という見方は、制度の起点と、その後の社会的な受容を時間の流れの中で分けて見る点で、この議論と接点を持っている。

    (注D)

    感覚の遺産 社会が過去をどのように記憶するかについては、モーリス・アルヴァックスの集合的記憶論以降、記憶が個人の内面だけで完結せず、家族、共同体、教育、儀礼、制度などを通じて形づくられることが論じられてきた。本稿の「感覚の遺産」は、過去の出来事がどのような経験として受け継がれ、その後の社会が新しい変化を受け止める際の前提となるのかを見る点で、この議論と接点を持つ。

    1.参考資料

    1. 外務省外交史料館「外交史料館 明治150年記念展示 条約書にみる明治の日本外交」(2018年、外務省)

    URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001357.html

    1. 国立公文書館「明治38年(1905)11月|第2次日韓協約が結ばれる:日本のあゆみ」(1905年、国立公文書館)

    URL:https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m38_1905_03.html

    1. 国立公文書館「明治43年(1910)8月|韓国併合条約が結ばれる:日本のあゆみ」(1910年、国立公文書館)

    URL:https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m43_1910_01.html

    1. アジア歴史資料センター「「三・一運動」と朝鮮総督府」(2021年、『アジ歴ニューズレター第33号』)

    URL:https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_033j/newsletter_today_033j.html

    1. 国立国会図書館「Records of General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers, GHQ/SCAP」(2022年、国立国会図書館リサーチ・ナビ)

    URL:https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/GHQ

    1. 国立国会図書館「GHQ草案 1946年2月13日|日本国憲法の誕生」(1946年、国立国会図書館)

    URL:https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

    1. 防衛省「令和7年版防衛白書|2 憲法第9条の趣旨についての政府見解」(2025年、防衛省)

    URL:https://www.mod.go.jp/j/press/wp/wp2025/html/n210202000.html

    1. 古波藏香「生成され続ける集合的記憶―M. アルヴァックスの“collectif”概念に着目して―」(2023年、『教育学研究』90巻4号)

    URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/90/4/90_563/_article/-char/ja

    2.深掘りするための一般書

    1. 井上勝生『幕末・維新』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004310426

    1. 趙景達『近代朝鮮と日本』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004313977

    1. 雨宮昭一『占領と改革』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784004310488

    1. 成田龍一『増補 「戦争経験」の戦後史 語られた体験/証言/記憶』

    URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784006004231