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  • コラム:「I love you」と「愛してる」のあいだで

    ー 愛の重さは、どこで生まれたのかー

    たぶん「愛」は、
    誰かを縛る言葉じゃ
    なかったんだと思う。


    I love you は、そんなに重い言葉じゃない

    映画の中で、
    ドラマの中で、
    歌の中で、
    「I love you」という言葉は幾度となく繰り返されます。
    そして字幕には、ほとんど決まって、こう映し出されます。

    「愛してる」と。

    それを強く不自然だと感じる人は、あまり多くないのかもしれません。
    けれど私は、ずいぶん前から、ほんの少しそのことに引っかかっていました。
    本当にこの二つの言葉は、そんなふうにきれいに重なり合うのだろうか、と。

    正直に言えば、私は英語が得意ではありません。
    小学生レベルの英語しか知らないので、
    「どうやら、そうらしい」という程度の話ではあります。

    それでも、分かることがあります。
    英語の love は、
    私たち日本人が思っているほど、いつも重々しい言葉ではないようなのです。

    アメリカ人は、ピザにも、歌にも、服にも、
    「I love it」と言います。

    マクドナルドのCMでも “I’m lovin’ it.” と言っていますよね。
    あれを聞いて、「マクドナルドを愛してる」
    と受け取る人は、そう多くないでしょう。

    実際のところ、その感覚は
    「最高」とか
    「すごく好き」とか、
    「お気に入り」くらい
    のところにあるのだと思います。

    つまり、英語の love が重いのではなく、
    日本語へと訳された瞬間に、どこか重みを帯びてしまっているのです。

    違和感が生まれているのは、英語の側ではなく、
    むしろ翻訳された日本語の側なのではないか。
    私はそんなふうに思っています。


    日本語には love の日常語がなかった

    そこで今度は、日本語の側を見てみます。

    日本語には「好き」という言葉があります。
    これはとても便利で、やわらかく、日常の中で自然に息をしている言葉です。
    食べ物にも使えますし、人にも使える。
    曖昧さはあるけれど、その曖昧さごと、無理なく引き受けて使うことができます。

    では、「愛している」はどうでしょうか。

    これは「好き」と同じようには使えません。
    少なくとも日常会話の中では、ほとんど口にされない。
    言葉にした瞬間、空気が少し変わる。
    関係そのものにまで、どこか変化を求めてしまうようなところがあります。

    ここで思うのです。
    もしかすると、日本語にはもともと、love にそのまま重なる日常語がなかったのではないか、と。


    江戸の「愛」は、もっとあたたかかった

    このことを考えるとき、私はどうしても江戸時代まで視線を戻したくなります。

    江戸の「愛」は、
    いま私たちが思い描く「愛」とは、
    ずいぶん違っていたように見えるからです。

    恋愛感情の告白というより、
    もっとあたたかい言葉だったのではないでしょうか。

    慈しみ。
    憐れみ。
    思いやり。
    情け。

    それは、誰か一人を選び取るための言葉というより、
    誰かを世界の外へ押しやらないための言葉だった。
    むしろ、そんな響きのほうが近かったように思えるのです。

    「ちゃんとしていなくてもいい」
    「とりあえず、ここにいていい」

    そうした包み込むような感覚が、そこにはあったのではないでしょうか。

    少なくとも、誰かを縛るための言葉ではなかった。
    私はそのように感じます。


    明治の翻訳は「愚直」だった

    そう考えていくと、明治の翻訳者たちの姿も、少し違って見えてきます。

    英語に “I love you” という文がある以上、
    日本語にも、それに対応する正しい文があるはずだ。
    言語にも、数学のように正解がある。

    彼らは、そう信じたのだと思います。

    だから love に「愛」という字を当てた。
    いちばん格調が高く、それらしく見える言葉だったからです。

    その態度は、とても誠実だったのだと思います。
    ただ、前提が一つだけ違っていた。

    言語や文明には、数学のような一意の正解はありません。

    それでも彼らは、正解を探した。
    誠実に、そして愚直に。


    like と love、そして文化の勘違い

    ここでもう一つ、少し厄介な話があります。

    英語の like と love は、私たちが思うほど、きっぱりと分かれてはいません。
    もちろん違いはあります。

    けれど、日本語の「好き」と「愛してる」ほど、
    深い断絶があるわけではないのです。
    向こうでは love は、かなり日常的に使われます。

    ところが戦後、
    日本にはアメリカの映画やドラマや音楽が大量に流れ込んできました。

    その中で “I love you” は何度も繰り返され、
    字幕はそのたびに「愛してる」と訳される。
    日本人は、その訳語を、何度も何度も浴びることになりました。

    おそらく、ここで起きたのは理屈の誤解ではなく、
    もっと素朴な模倣だったのだと思います。

    ロマンチックで、
    大人っぽくて、
    どこか洒落て見える。

    私も言ってみたい。

    まず映画の中で。
    ドラマの中で。
    音楽の中で。

    そうやって「愛してる」は広がっていった。

    その意味を深く考えるより先に、
    言葉の雰囲気だけが先に広がっていったのです。

    love の軽やかさは消え、
    「愛してる」の重さだけが残った。


    「愛してる」は契約語になった

    いまの日本語で「愛してる」という言葉は、
    感情を表す言葉というより、むしろ契約を言い渡す言葉に近いのではないか。
    私はそんな気がしています。

    私はあなたを選んだ。
    だから、あなたも私を選ぶべきだ。
    この関係を裏切らないでほしい。
    離れないでほしい。
    ほかを見ないでほしい。

    そうした願いまで、一言の中へ詰め込んでしまっている。

    だからこそ、その言葉に固執してしまう人がいる。
    重すぎて抱えきれなくなる人がいる。
    ふと息苦しさを覚える人がいる。

    「愛してる」という一言に、
    私たちは感情以上のものを背負わせすぎたのかもしれません。


    重くなりすぎた言葉の、その先に

    「愛してる」という言葉が、
    こんなにも重いものになったのは、
    おそらく偶然ではないのだと思います。

    翻訳のしかたも、
    その後の広がり方も、
    どこかで少しずつ、
    この国の言葉の空気を変えてしまった。

    けれど本来、
    「愛」は、
    誰かを縛るための言葉ではなかったはずです。

    もっとあたたかく、
    もっと静かで、
    もっと相手を包み込むようなものだった。

    そう考えると、私たちはもう少し、
    「愛」という言葉を契約として人を縛るものではなく、
    誰かを慈しみのうちに包むためのものとして、
    思い出してみてもいいのかもしれません。